世界がイラン核合意に慎重な歓迎姿勢を示す中、ニューヨークでは少し地味ながら重要な交渉が始まりました。4月27日から一ヶ月ほど開催される核兵器不拡散条約運用検討会議では、これまで核兵器保有国間でとられてきた核軍縮対策がまったく取るに足らなかったという事実が明らかになるでしょう。かわりに、先月ロシアのプーチン大統領がクリミア併合に先立って核兵器を臨戦態勢へ置く心構えができていたと発言したこともあり、核不拡散や安全保障などの伝統的なテーマが議論の大勢を占める可能性が高いといえます。
それでも、私たちには核兵器廃絶という差し迫った道徳的義務があります。拷問や人質行為がいかなる状況でも許されないように、核兵器の使用・威嚇は根本的に倫理に反します。私たちは今、核兵器が絶対に受け入れられないという広範な政治的コンセンサスを必要としているのです。
冷戦以来、核兵器の倫理は主にこの兵器が満たすとされる目的を中心に捉えられてきました。核兵器が国際平和の維持に貢献するという認識は、今でも核保有国やいわゆる『核の傘』の恩恵を受ける国々の政治的指導者をはじめ多くの人の間で共有されているところです。またそれは、核兵器を伴った現世界が曲がりなりにも今まで持ちこたえてきたことが裏付けています。相互確証破壊の恐怖が機能したおかげで、核保有国はお互いに戦争を避けることができました。経験則に従えば、今後さらにリスクを減らし、核兵器不拡散を徹底するなど現状を強化することが結局は安全保障を継続的に維持する上で一番賢明な選択肢かもしれないと考えるのにはそれなりに根拠があるのです。それに比べ、もし核兵器が実際より少なかったら世界はもっと安定していたであろう、あるいは核兵器のない未来は核兵器のある未来よりも安全かもしれない、などというのは単なる憶測にすぎません。
その一方、反核の立場から見れば核兵器は平和への脅威に違いありません。核抑止は冷戦の二大勢力圏間でこそ『機能』したかもしれませんが、その圏外で起こる数多くの紛争の防止という点では明らかに失敗でした。むしろ、圏外の紛争が代理戦争として勃発する危険は核抑止によってかえって増大したとすら言えるでしょう。慎重に慎重を期してもなお、私たちはこれまで何度も壊滅的な事故や偶発的なエスカレーションの危機に遭遇してきました。また核兵器保有国のなかで『ならず者』国家に成り下がったり、崩壊したり、あるいはその保有する核兵器がテロリストの手に渡ってしまう例が出てくる可能性は否定できません。つまり、この世界の安全が今日までそれなりに確保されてきたのは『核兵器のおかげ』なのではなく、『核兵器にもかかわらず』なのです。こう考えると、核兵器が存在する限り、私たちが世界平和を今後維持し続けられる保証は実はどこにもないことがわかります。
しかし、後者の考え方は核兵器のない世界が持つとされる優位性を証明できない、という大きな壁にぶつかります。なぜなら、そのような世界には何か違った、それでいてやはり人類の存亡に関わるような脅威が存在した(あるいは将来出現する)かも知れないのです。不完全ではあっても勝手の知れた現環境と、良くも悪くも全く未知の環境とを比べた場合、ただ知らないというだけで後者を選ぶべき倫理的理由は何もありません。
それよりも、核兵器が安全保証に供するか否かといった議論に固執していると、これらの兵器が持つ本質的な倫理性を見逃すことになる、という点に私たちはもっと注目すべきです。問題にすべきは核兵器が何のために用いられているか、あるいはその目的がどんなに重要なものであるかではなく、核兵器自体が一体どんなものか、なのです。ここで倫理的意味を持つ苦しみとは苦しみそのものであり、あれこれの目的に鑑みて必要あるいは不必要とされる苦しみではない、と思えてなりません。
私たちはほぼ皆、拷問を無条件に拒絶しているといえるでしょう。それは、たとえ時限爆弾を仕掛けたテロリスト一人を拷問すれば数千人の命が救われる可能性があったとしても、です。拷問が持つ根本的な非道徳性は、結果が出ないことが多いだけではなく、たまたま『うまく』いった場合でも何ら変わりません。拷問を拒絶するのは、拷問が同じ人間である被害者の人間性を奪い、彼らを私たちの利益に供されるべき単なる方便へと陥れてしまうからに他なりません。
同様に、私たちは人質行為を正当化することを絶対に拒否します。人質行為が 非難されるべきだという考えは、その行為が意図した結果をもたらすかどうかとは全く無関係です。なぜなら、人質行為の反倫理性は人質を取る者が被害者を尊重すべき目的として扱わず、他の目的を達成するための手段としてしか利用しないことに起因しているからです。
こうした倫理的視点に立つと、核兵器の使用は拷問に似ていると考えることができます。たとえば、核攻撃で都市を破壊する、またそれにより何世代もの被曝者を生む、といった行為は、たとえそれが戦力の均衡や戦争の早期決着など一見重要な名目のもとに行われたとしても、結局のところ被害者を加害者が自分の都合で一方的に方便化するという点では拷問と同じです。また、核兵器による威嚇は敵国のみならず第三国の国民を人質に取るのと同等です。威嚇するとは、すなわち自らに向けられた攻撃を未然に防ぐために一般市民の多大な犠牲を示唆する、ということです。
もちろん、拷問や人質行為が非難されるようになったのは一朝一夕のことではありません。その背景には、こうした行為の有用性がだんだん疑問視されるようになったこと、また同時に人の尊厳が私たちの倫理観の中心的存在として次第に確立されたことが挙げられます。しかし、今同じような態度の変化が核兵器に関しても起こりつつあると感じられます。冷戦の終了は、それまで核兵器が持っていたとされる戦略的効用の減少をもたらしました。その一方、近年ノルウェー、メキシコ、オーストリアで開催された核兵器炸裂の人道的影響に関する国際会議では、核爆発がいかに悲惨で非人道的な被害を引き起こすのかという科学的証拠が次々に報告されました。
確かに、核兵器の拡散防止はその追求自体に十分意義があります。でもそれだけでは、核不拡散条約のアキレス腱である核軍縮・核廃絶の代わりにはなり得ません。今私たちに求められているのは、核兵器が根本的に非道徳なものだという幅広い政治的合意なのです。