筆者が小学校低学年くらいに手に取った子ども向けの乗り物図鑑に、未来の乗り物が未来都市のイメージと共に描かれていた。超高層ビルの間を縫うように、流線形のリニアモーターカーやガラスのカプセルのような形の自動車が走り、自動車の中では、ピクニックのように家族で食事をしている様子が描かれていた。どのくらい先の将来をイメージして描いたものか分からないが、将来は自動運転でどこにでも行けるようになるという説明があった。
筆者がこれを眼にしたのは第1次オイルショックの直後くらいだと思うが、この絵は、1964年の東海道新幹線の開通と東京オリンピックの開催、その後のモータリゼーションの進展という高度経済成長期の雰囲気を、如実に反映して描かれたのではないかと思う。何故なら、その時代背景にあったであろう未来に対するワクワク感を感じながらその絵を眺めていた気がするからである。
先日、日本の大手自動車メーカーが、自動運転技術を2020年までに実用化すると発表した。7年先は意外とすぐやってくるという印象を受け、もうすぐかつて図鑑に描かれた姿を実際に眼にすることができるようになるのだろうかと思いながら、自分なりに7年後の姿を思い描いた。しかし、まっ先に筆者の頭に浮かんだのは、かつて図鑑で見た家族団欒の世界ではなく、高齢者の日常生活を支える乗り物のイメージだった。
2008年の住宅・土地統計調査によると、75歳以上の単身もしくは夫婦のみの世帯は、全国に約417万世帯あり、そのうちの60%にあたる約249万世帯が最寄り駅から1km上の距離に住んでいる。さらにそのうちの17%にあたる約43万世帯が、駅から2km以上でかつバス停まで500m以上離れたところに暮らしている。
駅からさらにバスで移動しなければならない場所で、歩ける範囲に店舗や診療所がなく、バスの本数も限られている場所では、自家用車が無ければ高齢者でなくてもきわめて不便であろう。若いうちはよいが、歳を取るほど自動車の運転は困難になり、不便であっても運転を控えることになる。そうなると、公的な移動サービスを利用するか、もしくは便利な場所に住み替えるかを選択せざるを得なくなるだろう。
ところが、自動運転車が普及したら、その心配は無くなる。不便な今の暮らしを捨てて住み替えるより、自動運転車を得て、住み慣れた場所で暮らし続けることを選ぶ高齢者も少なくないのではないだろうか。
もちろん、7年後に実用化されたからと言って、すぐに一般に普及するとは限らない。技術的側面以上に法制度面の整備などクリアしなければならない課題は多いと言われている。既に急速に高齢化が進んでいて、普及を待っていられない状況にある都市では、自家用車がなければ不便なところから、徒歩もしくは公共交通で移動できるところに都市の機能や住まいを誘導する政策を直ちに導入する必要があるだろう。
一方、そこまで深刻な状況ではない都市であれば、高齢社会を支える重要なツールになり得ると期待し、法制度面の課題をクリアするために、実証実験を行うモデル都市に立候補して、戦略的に普及を後押しすることも考えられる。20年ほど先を見据えて都市の将来像を描くとすれば、それまでに、自動運転車が一般に広く普及することは十分に考えられる。
全国で人口が増加し、交通インフラが整備され、国民の多くが同じ夢を抱けたかつてと異なり、今後すべての都市が同じ歩みで、人口減少や高齢化が進むわけではない。自動運転車のある生活も、それぞれの都市が置かれた状況を踏まえて、様々に描かれるべきである。
ちなみに筆者は、山間部や農漁村地域での暮らしを支えるパーソナルな移動手段として導入することがもっとも意義深いと考えている。そうすることで、山間部や農漁村地域と都市部が共存共栄する将来像を描くことに、一歩踏み込めると感じるからである。
ある日の朝、小型の自動運転車に乗った一人暮らしの高齢者が、山間部の自宅から麓の診療所に出かけていく。到着時間はあらかじめ診療所に伝わっており、待ち時間はほとんどない。診療が終わってから、近くの寄り合いカフェで仲間との交流を楽しんでから、買い物をして家に帰って行く。移動中の行動はリアルタイムで遠方の都市部に暮らす親族に伝えられており、何かあればリニアモーターカーを使ってすぐに駆けつけることができる。
このように、今筆者がイメージする自動運転車のある生活はやや現実的で、かつて図鑑を眼にした時に感じたワクワク感には乏しい。しかし、2020年の東京オリンピック開催というワクワクする要素が加わり、もしかしたらもっとワクワク感のあるイメージを描く都市が出てくるのではないか。それを大いに期待したいのである。
(2013年9月12日の「ニッセイ基礎研究所 研究員の眼」より転載しました)