日本人男性の平均寿命がとうとう80歳を超えた。女性の平均寿命は86.61歳と世界一を誇っている。日本は長寿時代を迎え、最近、「終活」という言葉もよく耳にする。
「終活」とは、葬儀や相続など人生の最期に対応するエンディングとしての、また、長くなった高齢期をよりよく生きるためのウェル・エイジングとしての活動だ。私も還暦を迎え、ぼちぼち後者の「終活」の「老い支度」を考え始めている。
「老いる」とは一体どのようなことなのだろう。
天田城介著『老い衰えゆくことの発見』(角川選書、2011年)には、『〈老い衰えゆくこと〉とは、「できない現在の自分」「できなくなった現在の当事者」に直面しながらも、それでも「できていた過去の自分」ないしは「できていた過去の他者」のイメージに引きずられ、それに深く呪縛されながら苦闘する日々の出来事なのだ』とある。
つまり、「老いる」とは、自己の様々な能力の衰退・喪失の変化を、自尊心を持って受け容れるプロセスということだろうか。
私は10年前にフルマラソンを始めた。それまで5キロ程しか走れなかった私が、練習を積み重ね、満50歳で初めてフルマラソンを完走した。それからもトレーニングを続け、毎年同じ大会に参加する度に確実に完走タイムが短縮された。それは私にとって極めて分かり易い、身体的成長の証しだった。しかし、近年では、タイムも頭打ちになり、それを維持することさえも難しくなりつつある。
これまでフルマラソンで自らの身体的成長を実感してきた私が、今度は緩やかに衰えてゆく自己に直面せざるを得ないのだ。そのギャップに一抹の寂しさを感じながらも、その現実は受け容れざるを得ない。
これから様々な身体的、精神的な衰えが顕在化してくるだろう。その時、一体、私は過去の「できた自分」のイメージに呪縛されながら生きることになるのだろうか。
過去の「できた自分」に呪縛されるのは、自分自身が「成長」という価値観に支配されているからだ。
これまでの人生を評価してきた「成長」という物差しに替え、新たな価値観に基づいて生きればよいのではないか。但し、それはイソップ物語の「狐と葡萄」のように、『どうせ葡萄は酸っぱいに違いない』と、自分に都合のよい理屈をつけて自分を納得させる「負け惜しみ」であってはならないと思う。
フルマラソンもゆっくり走ると沿道の様々な景色が目に入ってくる。そして何よりも走る楽しさを味わう余裕が生じる。そこにはタイムを競うマラソンとは別次元の世界が広がっている。
人生というマラソンにおいて、「老い衰えること」と向き合いながら、多様な"走り方"〈価値観〉を発見することこそが、実は「老いる力」なのかもしれない。
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株式会社ニッセイ基礎研究所
社会研究部 主任研究員
(2014年11月4日「研究員の眼」より転載)