家族との絶縁も覚悟しました。

ミャンマーでは、誰かが亡くなった時は新聞にその名前が掲載されます。そこに何と、父の名前があったのです。

明けましておめでとうございます。旧年中は皆様にご愛読いただき、誠にありがとうございました。本年も国籍問わず素敵な方々をご紹介して参りますので、引き続きのご愛顧を宜しくお願い申し上げます。

さて2017年最初のストーリーは、1月4日に独立記念日を迎えたばかりのミャンマーからお届けいたします。

現在は千葉県船橋市にお住まいの金子ティンギウィンさん。物腰柔らかくかわいらしい、だけど芯の強さをも感じさせる、 とっても素敵な女性です。いつもニコニコ明るく、ご同胞が集まるイベントではあらゆる人から声をかけられ、会話を楽しんでいます。もちろん日本語は非常に流暢です。

そんなティンギウィンさんの日本への旅はご幼少の頃に始まりました。そして実際に日本の地を踏むまでの期間は、まさに波乱万丈の物語に満ちていました。私たちもそのストーリーを耳にし、心が震えました。

日本では主婦業を軸に国際交流や海外貿易に携わるティンギウィンさんの、数十年にわたる日本との関わりを、2回に分けてお送りいたします。

*インタビュー@西船橋(千葉県)

*写真提供:金子ティンギウィンさん

■ 小さな本が開いた日本への扉

私が初めて"日本"に出会ったのは、私の実家でした。農業技術者だった私の父は、例えばちょっと悪いことをした私に対して、口でたしなめるのではなく、私がしたことに似ているケースを取り上げた本を読ませるような人でした。そのくらい読書家だった父は、小さな図書館を開けるほど本を持っており、それらの蔵書の中に日本語の本があったのです。それを偶然見つけて読んでみました。

それはとても古くて小さい、子供向けの本でした。日本語がひらがなで書かれ、その下にローマ字、その下にミャンマー語が並んでいました。だから日本語の文法がミャンマー語のそれに似ていることはすぐに分かりました。私は日本語に興味を持ちました。

時は1988年、私は高校生でした。その頃ミャンマーでは、大規模な民主化要求デモが起きました。そのために全国の高校が休講になったので、私はその時間を利用して日本語の勉強をしようと思いました。日本語を教えてくれるところを探し、ヤンゴン市内のお寺で開かれていた無料の日本語教室を見つけました。

先生は、日本語を学んだミャンマー人と、日本大使館勤務の、ミャンマー語を勉強中の日本人でした。彼らがボランティアで私たちに日本語を教えていました。日本人にとっては、ボランティアで教える代わりにミャンマー人たちと交流できる機会でもあったようです。

ひらがなやカタカナをマスターしたら、漢字が待ち構えていました。最初は漢字が難しいなどとは考えていませんでしたが、やがて壁にぶつかりました。でも一度始めたものを止めてしまったら、それまでの勉強が全て無駄になる。だから私は勉強を続けました。無料の教室に通った後、有料の日本語塾に通いましたが、そこは毎日宿題を課されるほど厳しいところでした。

やがて大学に進学。ただし専攻は日本語ではなく、子供の頃から得意だった数学でした。しかし数学専攻の大学生になってからも、日本への思いは断ちがたく、日本への留学を考えました。でも90年代初め頃は保証人の確保や海外送金などが難しく、しかも日本に行ける人が限られていました。つまり運の要素が非常に大きかったわけです。大学2〜3年の頃に挑戦しましたが、夢が叶わず諦めました。

■ 初めて味わった裏切り

大学卒業後は大学院に進むことも考えましたが、 当時は母国語や英語以外の言語を話せる人はとても就職に有利だったので、身につけた日本語能力を生かして仕事がしたいと思うようになりました。それは私が、実は第一志望として目指していた医科大学に行けなかったことも影響しており「それなら海外とつながる仕事をしよう」と思ったのです。

ある日、友人に付き添って行ったホテルの入社試験を、私も偶然受験することになりました。しかも履歴書を持っていなかったにも関わらず合格。ちなみに受験者の中でトリリンガル(3ヶ国語話者)は、母国語と英語以外にフランス語が話せる友人と、日本語が話せる私だけで、他は全てミャンマー語と英語のバイリンガルでした。

入社当初は誠心誠意仕事をし、サービスの向上に精一杯努め、約80室あった部屋をほぼ毎日満室にしました。そのおかげでヘッドハンターからお声がかかりました。会社側は私を引き止めるために給与を上げてくれたものの、それも長くは続かず、やがて通常の給与額に戻りました。

一方で同僚たちには、既に私がスカウトされたことを伝えていたにもかかわらず、結局は引き止められて同じホテルで働いていたので「彼女は見栄を張るために"スカウトされた"と嘘をついたのではないか?」と思われてしまいました。でも本当のことは言えません。私は約束の金額をいただけない上に、同僚からは嘘つき呼ばわりされ、名誉まで傷つけられたのです。

■ 極秘の転職活動

だから私は水面下で転職活動を始めました。英語の勉強と職探しを兼ねて読んでいた英字新聞に、日本大使館での電話オペレータースタッフ募集の情報が載っていました。

履歴書を送ってから約2ヶ月後、面接のご案内がようやく届きました。面接では、このインタビューの初めの方に申し上げた"日本大使館の人にお寺で日本語を教えていただいた"という話で盛り上がりました。

応募から面接まで、全て同僚や友人、家族にも秘密で行い、最終的に私は日本大使館に晴れて採用となりました。その後も気を抜かずに水面下で退職の準備を進め、私の荷物を全て職場から引き上げた時点で、上司に転職する旨を伝えました。

こうして1995年、私はホテルを退職し、電話オペレーターとして日本大使館に入りました。それからしばらくして総務部門に異動になり、渉外担当として仕事をしました。

■ 運命の出会い

そんな日々を送る中で2000年、私はある日本人男性と再会しました。私がホテルの受付で仕事をしていた時に初めて出会った人でした。旅行好きだった彼はミャンマーにも何度か訪れていて、私が勤めていたホテルで「ティンギウィンさんはいますか?」と聞かれたようです。私がそこを離れたことを知った彼は、日本大使館であれば知っているだろうと電話をかけました。もちろん私がいるということは知らずに、です。電話を受けたスタッフは「彼女ならここで働いていますよ」と伝えました。

それ以降、彼はお正月やゴールデンウィーク、お盆などの時にミャンマーに私に会いに来ました。離れ離れになっている時、彼は毎週私に日本語で手紙を送ってくれました。私も休憩時間などに、小さな紙に日々の出来事を日本語で書いて彼に送っていました。

彼からの手紙は職場ではなく実家に届いていました。だから私の家族も不思議に思って(笑)私がいない時に家族が開封しても、日本語で書かれていたので読めませんでした。

■ 禁じられた結婚

2002年のお正月。ミャンマーに来た彼は、遂に私の家族に伝えました。「ティンギウィンさんとの結婚を許し、認めてください」。しかし家族は「外国人と結婚するなんて・・・」と、なかなか首を縦に振らないどころか、私たちの結婚に大反対でした。実は当時のミャンマーでは、女性が外国人と結婚することは法律で禁止されていたのです。

彼が日本に帰国した後、私は思い切って父に「私はあの人と結婚したいんです」と伝えました。父は「わかった。ではあなたに一週間の猶予をあげるから、その間にもう一度考えなさい」と言いました。もし私が日本で生活することになったら、それは私にとって初めての海外経験であり、しかも周りにミャンマーの家族や友達がいない。だからいろいろな苦難が待ち構えていることは、想像に難くありませんでした。「それらを全て受け止められるか?」というのが、父からの問いでした。その上、何と言っても法律で外国人との結婚が禁じられていたわけです。

しかも、もうひとつ問題がありました。ミャンマーの農業関係の省庁に勤める公務員だった父は、私の行動によって出世の道が断たれるという事態が発生したのです。

■ 家族との絶縁を覚悟

それでも私は、彼と結婚することを決めました。時間を見つけてミャンマーにいる私に、彼はわざわざ日本から何度も会いに来てくれました。彼がミャンマーに滞在中、私は忙しく仕事をしていて少しの時間しか会うことができなかったにもかかわらず・・・だから、そんな彼を心の底から信頼していました。それを父に伝えると、父は私の意思を尊重してくれました。

彼が私に宛てて書いた手紙は基本的に日本語でしたから、その内容までは両親は知り得ませんでした。でも彼は、誰もが分かる言葉を手紙の最初に書きました。それは「My precious lady」(私の大切な女性へ)でした。その思いも、両親は汲んでくれたのだと思います。

私の祖父母からも反対されていたのですが、父は「あの子は大学を出て立派に社会人になり、結婚できる年齢になったのですから、彼女の意思を私たちは止めることができません」と祖父母に伝えました。

そして、私は懸念すべき事態に触れました。先ほど言った"私の結婚により父の出世が阻まれる"という問題です。思い切って私は言いました。

「私の行動によってお父さんに迷惑がかかるのなら、私は家族から絶縁されることも覚悟しています」

すると父は私に言いました。「万が一、あなたが国に帰ってくることを考えたら、そんなことはできない。いつでもあなたを迎えられるようにしておくよ」と。父は自分の出世よりも私の未来を選んでくれたのです。

そして家族は彼に「ティンギウィンは私たちにとってもPrecious、宝石のような娘です。だから、どうか大切にしてください」と言いました。しかも正式な結婚証明書がミャンマー政府から発行されない代わりに、父が独自に証明書を作成してくれました。

■ 強制送還の危機

2002年の夏に私は日本大使館を退職し、結婚と日本出発に向けての準備を始めました。国際結婚禁止の状況だと、日本政府からは配偶者ビザは発給されないので、まずは90日間の観光ビザで日本に行き、日本に着いてから現地の役所に婚姻届を出すように言われました。

2002年11月3日、日本の「文化の日」にミャンマーのホテルで結婚式を挙げました。そこは主人の名前を伏せて予約した場所でした。

そしていよいよ日本へ出発。しかし私はその日程を、祖父母と父以外には誰にも伝えませんでした。私は法律を冒してまでも国際結婚に踏み切ったわけで、もし出発の期日が他に知られてしまうと、空港で私が捕まえられ、家まで送り返されてしまう恐れがあるためです。しかも両親に対しても、私は「日本に行く」とは伝えていませんでしたから、両親は私たちがミャンマー国内を旅行するのだと思っていたようです。振り返ってみると、私の人生は秘密だらけですね(笑)

こうして私は2002年11月5日、初めて日本の地を踏みました。その3ヶ月後に日本でも挙式をしました 。私の家族も日本に呼びたかったのですが、当時は公務員が自由にパスポートを申請することができなかったので、それは叶いませんでした。だからその代わりに、家族の手作りの工芸品を結婚式の引き出物の一つとして参列者にお渡ししました。

■ 父の死

その後、新婚旅行でベトナムに行きました。実は国を出る時にパスポートをブローカーに依頼して作ってもらったのですが、日本円で約5万円払っても1年間有効のものしか手に入りませんでした。しかも諸々の手続きなどに時間を費やし、有効期限がさらに減ったため、短い期間でも行ける国しか選択肢はありませんでした。それでも主人とベトナムで楽しい時間を過ごしていました。

ある日私は、滞在先のホテルにあったパソコンでミャンマーの新聞を読んでいました。その時、信じられないニュースが私の目に飛び込んできました。

ミャンマーでは、誰かが亡くなった時は新聞にその名前が掲載されます。そこに何と、父の名前があったのです。

私は混乱して、すぐに実家に電話しました。電話に出た妹は「どこでお父さんのことが分かったのですか?」と聞きました。そして家族が、私の友人が私に話したのではないかと疑い始めました。私は何も言えませんでした。だって言葉も出てこないくらいショックで、ただ泣くことしかできなかったから・・・

目を真っ赤に腫らした私は、主人に事態を話しました。そして私は自分を責めました。なぜ私は父に何もできなかったのか・・・でも主人は「君はそれを知り得る術が全く無かったのだから、君は悪くないよ」と言いました。主人はお花を買い、滞在先のホテルの近くのお寺に行って花をお供えし、お線香を上げました。

■ それでも故郷に帰れない

家族によれば、父は私たちの日本での挙式の一週間前に亡くなりました。しかし、祝福ムードに水を差したくなかった家族は、私の友人に対して、そのことを私に対しては絶対に伏せるよう伝えました。実際に友人からメールが来ましたが、それらは全て祝福の言葉でした。ミャンマーからも挙式に参加してくださった方々がいましたが、その人たちも父のことは言いませんでした。

挙式の一週間前、父が亡くなった頃に実家に電話をしたら、家族は「お父さんは、出張に行っているからいないんです」と私に言いました。結局、私が父と最後に話したのは、日本での挙式の2週間前でした。

家族は言いました。「あなたに対して秘密にしていたことは申し訳なかったと思います。だけどそのようにするしか無かった私たちの気持ちも理解して下さい。今のあなたにできることは、お父さんが天国に行けるように祈り、お経を唱え、日々功徳を積むことなのです」。

私は国に帰れませんでした。ミャンマーの法律で禁じられている"外国人との結婚"に踏み切ったため、結婚証明書が政府から発行されないままであり、その状況では、たとえ帰国したとしても、私のパスポートは空港で没収されてしまう可能性があったからです。

父が私に言った「これから起こる様々な苦難を、全て受け止められるか?」という言葉が、脳裏をかすめました。早くも困難が、現実として私の身に降りかかってきたのです。


日本に渡った後にも、さらなる試練がティンギウィンさんを待ち受けていました。第2部は2月12日の"ユニオンデー"(少数民族の自治権を認め、ビルマ族との連邦国家として独立することで合意したパンロン協定を記念する日)直前にお送りします。

(2016年2月7日「My Eyes Tokyo」に掲載された記事を修正し転載)

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