原発事故へのメッセージではなく、歌を届ける。それが私の使命です。--カテリーナさん

もうすぐ、あの日がやってきます。私たちの脳裏に深く刻み込まれた、3月11日。早いもので、もう3年が経とうとしています。My Eyes Tokyoハフィントンポスト版では、東日本大震災にその人生を大きく左右された、2人の外国人をご紹介します。

もうすぐ、あの日がやってきます。

私たちの脳裏に深く刻み込まれた、3月11日。早いもので、もう3年が経とうとしています。

My Eyes Tokyoハフィントンポスト版では、東日本大震災にその人生を大きく左右された、2人の外国人をご紹介します。1人は、チェルノブイリ原発のすぐそばで生まれたアーティスト、カテリーナさん。そしてもう1人は、宮城県南三陸町で震災復興支援活動を続けるアンジェラ・オルティスさんです。

震災発生直後にTwitterなどで流行した言葉があります。"Flyjin" - "Fly"と"Gaikokujin"を組み合わせた造語で、震災後の放射能の影響などを恐れて飛行機で帰国した外国人を指す言葉として、SNSなどで広がりました。一方で今回ご紹介する2人は、Flyjinでは決してないどころか、震災で折れそうになった心を美しい音楽で癒したり、また荒れ地と化した被災地を、地元の人たちと汗を流して共に立て直したりしました。

震災を体験し、被災地の状況に心を痛め、被災地の人たちに寄り添い、そして共に立ち上がった外国人たち - もはや"外国人"という言葉を使いたくないほどですが - 今回はウクライナご出身のバンドゥーラ奏者兼歌手、カテリーナさんの肉声をお届け致します。

My Eyes Tokyo主宰である徳橋の友人が、2012年のある日にピアノのコンサートに彼を連れていきました。彼が外国人とのインタビュー活動をしていることを知っているその人は、コンサートの参加アーティストに名を連ねているカテリーナさんに徳橋を会わせるべく、彼を誘いました。

2部構成のそのコンサートで、カテリーナさんは第2部の一番最初に登場しました。華やかな衣装に身を包んだその美しい女性は、「バンドゥーラ」と呼ばれる、非常にたくさんの弦を持つウクライナの民族楽器を華麗に爪弾きながら、歌い始めました。「澄み切った」「伸びやかな」「天使の歌声」みたいな使い古された言葉では形容しきれないほど、美しい歌声でした。

終演後に、魂をゆさぶられた徳橋が思い切ってインタビューを申し込み、そのオファーをカテリーナさんは快諾して下さいました。しかしステージを下りた素の彼女と向き合ったある日の朝、彼は驚くべき事実を知ることになったのです。

*インタビュー@新宿

*英語版はこちらから!

■ チェルノブイリで生まれた私

私が生まれた場所は、チェルノブイリ原子力発電所からわずか3.5キロの街です。チェルノブイリ原発事故の時、私はわずか生後1ヶ月でした。ですので、事故の記憶は全くありません。だからこれから話す事故直後の話は、全て家族などから聞いたことです。

事故から2〜3日後、私たち家族はパパとママの故郷に避難しました。確かチェルノブイリから数百キロは離れていたと思います。当時の旧ソ連政府が、ラジオで避難を呼びかけたそうです。「一番大事な物だけ持って、3日間だけ避難して下さい」。避難用のバスが出て、住民はそれに乗って各地へ避難していきました。やがて私の生まれた街は、立ち入り禁止区域になったそうです。

私たちは、アパートを借りて住みました。パパやママの実家ではないです。私は4人姉妹の末っ子で、つまり両親を入れたら6人。その上私のママは4人姉妹の長女で、ママの妹さんたちはおじいちゃんやおばあちゃんと一緒に住んでいた。そんなところに大家族が押しかけていくわけにはいきませんよね。

その後ウクライナを転々とした後、私たちはキエフに引っ越しました。避難者用の仮設住宅が建てられており、そこに住むことになったんです。

■ 避難民たちの音楽

私が音楽活動を始めたのはキエフ時代、私が6歳の頃です。

キエフで私たちが住んだ場所は、チェルノブイリ原発事故の避難民のために作られた街でした。私の生まれ故郷の人たちもかなり住んでいました。その中に、故郷で小さな音楽グループを組んでいた人がいました。

その人は新しい地で、歌や踊りに興味がある子どもたちを集めて、再び音楽グループを結成しました。私は小さな頃から歌が大好きだったので、そこのオーディションを受けました。「チェルボナカリーナ」(*「チェルボナ」は赤、「カリーナ」は"ガマズミ"という植物の意味)という名前のそのグループではコンサートを開くことを考えていたので、一定水準以上の能力を持った子どもたちを集めるためにオーディションを開いていたんです。私はオーディションに合格して、チェルボナカリーナに参加しました。

一方、私はピアノも好きで、3歳の頃には自分で曲も作っていました。私が生まれた家にはピアノはありましたが、避難時に手放しました。私が弾いていたピアノは、キエフ時代に新しく買ったものです。もうどこへも行かない、ここに住むんだと決まってから両親が購入したんです。

ママの友達に音楽の先生がいました。もっと歌やピアノが上手くなりたいと思った私は、ママにその人に合わせてくれるようお願いしました。

「歌やピアノが上手くなりたいんです」とその先生に言うと、「ピアノはたくさんの人が弾いています。歌もたくさんの人が歌えます」と言われました。「でも、バンドゥーラはどうでしょう?この楽器なら弾き語りもできるし、バンドゥーラを習えば、ピアノも習えます。ただし、その逆はないですよ」と言われました。ピアノを習いたいと思った私は、その先生が教えていた音楽学校に入ることにしました。

■ 海外公演で初来日

小学校にはもちろん行っていました。それと並行して行っていた音楽学校では、バンドゥーラの授業が週2回、ピアノの授業が週1回、音楽理論が週1回、音楽史が週1回、あと指揮や歌もそこで勉強しました。

それらに加えて「チェルボナカリーナ」での活動もありました。音楽学校は"勉強"、チェルボナカリーナでの活動は"趣味"という感じでした。でもそのうち、チェルボナカリーナのメンバーの能力も上がってきたので、キエフでコンサートをしようということになりました。それは、チェルノブイリから避難した子どもたちだって、こうして元気に歌ったり踊ったりしていますよ、というアピールの目的もありました。

当時ドイツやチェコなど、いろいろな国が私たち避難民を支援して下さいました。私たちのコンサートを見にキエフまでいらしたドイツの方から、ドイツ公演のオファーをいただき、私は7歳の頃にドイツに行きました。ドイツには合計3〜4回行っていますが、バンドゥーラも弾いたことがあります。子供用のバンドゥーラもありますから。

その時、日本も私たちを支援して下さいました。フォトジャーナリストの広河隆一さんが私たちを招いてくれたのです。日本はその頃は原発事故はありませんでしたが、ヒロシマ・ナガサキという歴史的体験をしているので、私たちに近しいものを感じたのだと思います。その関係で、私たちは日本でツアーをすることになりました。それが私にとっての初めての日本でした。1996年、私が10歳の頃のことです。

■ 心のこもった贈りもの

私が日本に興味を持ったのは、2度目の来日の時、私が12歳くらいの頃のことです。

「いつかこの国で、本格的な活動ができればいいな」と思いました。行く先々で、日本人の親切さや優しさを感じたんです。私たちのことをかわいがってくれたし、私たちと一生懸命コミュニケーションを取ろうとしてくれた。それがすごく心に残っていたんですね。おみやげも折り鶴など、人の手で愛情を込めて丁寧に作られたものでした。今でもキエフの実家に飾ってあります。

その後何度もウクライナと日本を行き来しました。それもあって、私が通った音楽専門学校の卒業が危うくなるほどでした。何とか卒業できた私は、2006年12月、すでに日本で音楽活動をしていた姉(ナターシャ・グジーさん)に呼ばれる形で、日本での生活を本格的に始めました。

■ 水中で地震に遭遇

2011年3月11日。東日本大震災が起きた瞬間、私は自宅近くのプールで息子と一緒にいました。息子は生後6ヶ月から水泳教室に通わせており、地震発生当時は1歳半でした。その息子と私は、地震が起きた時、プールのど真ん中にいたのです。

その日、私は少し具合が悪くて、プールに行くのをやめようと思いました。でもママ友だちにはこの日プールに行くことを伝えてあるし、私が行くと言ったことで「じゃあ私も久しぶりに行こうかな」と言ってくれた友だちもいたから、行くことにしました。

その日は、いつもより40分くらい早くプールに行きました。余裕があったのでゆっくり着替えていた私は、水泳教室から以前言われたことを思い出しました。「脱いだ服は、きれいに折り畳んでしまって下さい。そうすれば、もし地震が起きた場合でも、すぐ着替えることができますから」。その言葉を、なぜか急に思い出したんです。午後1時45分くらいのことでした。

そして、約1時間後の午後2時46分。「何か少し揺れている。先生、地震でしょうか?」でも先生は「そう?」という感じでした。でも、そのうち揺れがだんだん強くなりました。プールの窓はガラスだし、天井もガラスでした。揺れが激しいから、プールから出たくてもなかなか出られない。それでも息子と一緒に、ゆっくりと前に進みました。

プールから脱出し、壁の手すりにつかまって揺れが収まるのを待ちました。その後ロッカールームに行きました。もし自分だけなら、そのまま水着で外へ出ても良かったのですが、息子もいるからそうもいきません。彼の体をふいて着替えさせて、ようやく外に出ました。

私は一緒にプールに行ったママ友だちを自分の家に連れて行き、彼女たちのご主人が戻るまで一緒に過ごしました。私の家はマンションの2階ですが、彼女たちは揺れが大きい高層階に住んでいました。それに私と息子だけだと怖いから、私自身も誰かと一緒にいたかったのです。しかも、ママ友だちのうちの一人がモルドバ人で、日本語が読めず話せずだったから、情報が入ってきませんでした。

私の夫は職場のある四谷から、歩いて家まで帰って来ました。夜中の1時頃でした。

■ 人生2度目の原発事故

皆さんご存知の通り、地震の直後に原発事故も起きました。その時は、息子と一緒に夫の実家のある大阪に滞在していました。私の人生で、2度目の原発事故でした。

私のパパやママは、私たち子どもをチェルノブイリから遠いところに離そうとしました。そうやって私たちを守ろうとしてくれました。そして20歳の頃から日本で生活を始めて、ようやくチェルノブイリからうんと遠くまで離れることができた。「やっと安全な場所で生活できる」。そう思ったのに、その日本で同じ事故が起きた。今私は、パパやママが私たち子どもにしてくれたように、私も息子を守らなければなりません。

実際、ママには「どこか遠くに引っ越しなさい」とか「ウクライナに帰って来なさい」と言われました。でも私は考えたんです。チェルノブイリから逃れ逃れて、その末にたどり着いた日本で同じような原発事故が起きた。じゃあ、その日本から遠くに離れれば、原発事故に遭わないという保証はどこにあるのか・・・それは誰にも分からないし、私も考えたくなかった。つまり、逃げる場所は無いんです。

それに、私は日本に家族がいる。夫は大阪の人だけど、ここで生活基盤を築いたし、ここで仕事を持っているから、簡単には東京から動けません。それをママに話したら「そうね、それなら家族で決めなさい」と言ってくれました。

私たちが住んでいる場所は放射線量があまり高くないし、お水もきれいなので、とりあえず今は子どもと住める地域です。でももし危険になったら、その時に何か考えると思います。それは夫も同じ意見です。

■ 音楽活動と原発は関係ない

少し話が戻りますが、2004年春に日本で公演した時は、私や姉だけでなく、パパもステージに立ちました。なぜなら、パパはチェルノブイリ原発で働いていたからです。

パパが仕事をしていたのは、あの爆発した棟ではありませんでしたが、原発敷地内でした。コンサートの後半、ステージのバックにチェルノブイリの映像を流しながら、パパは30~40分間、通訳を交えて自らの体験を語りました。それを日本全国で行いました。同じく姉も「チェルノブイリ子ども基金」という団体の後援で日本でコンサートをしました。日本での音楽活動はボランティアで、コンサート会場では募金もしました。

その姉は福島の原発事故後、自らのチェルノブイリでの体験を通して原発の危険性を訴える活動をしています。これからも続けていくでしょう。

でも私自身は、姉と離れてソロ活動を始めて以来、純粋に音楽家として活動してきたので、原発との関わりはナシにしたいのです。コンサートの時も、チェルノブイリの話はしていません。チェルノブイリ事故当時、姉は6歳だったから全部覚えている。でも私には事故の記憶が無いから、お客さんに伝えるべきものはありません。もし私が家族や周りから聞いた話をしても、それは私の体験ではないから、お客さんには伝わらないじゃないですか。

それに、姉と活動内容がかぶってしまうと、姉の活動の邪魔をすることになる。そしてそれ以上に嫌なのは、姉の七光りで仕事をもらうことです。

私は、一人の音楽家として生きていきたい。地震で傷ついた人の心に、私の歌を届ける。それが私の仕事だと思っています。

カテリーナさんにとって、日本って何ですか?

2つ目の故郷です。

チェルノブイリ原発事故により、私は故郷を失いました。でもその

代わり、長年住んでいたキエフが私の故郷になりました。パパやママ、

お姉さんたちと生活していました。

でも今、私はこの日本で私の家族と生活しています。夫と息子ですね。ということは、ここが今の私の故郷なんです。これからもずっと家族で住むし、自分が死ぬ時も、そして死んでからも、私は家族と一緒にいたいのです。

日本は、今の私の故郷です。

【カテリーナさん関連リンク】

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(2012年6月20日「My Eyes Tokyo」に掲載された記事を加筆修正の上で転載)

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