考えてみれば、こと、"差別・偏見"という感情に関して、私はかなり幸運な出会い方をしていたのかもしれません。
「カズコちゃんはチョウセンジンなんだよ。何でカズコちゃんと遊ぶの?」
と、囁かれた私は当時小学5年生。
そこは東京の郊外の田舎町。転校した小学校に入学してほどなくしてこんなことを数人の女の子に伝えられたのです。
その時、私はただ、平気な顔をして、「ふ~ん」と言ったはずです。
不思議なことなのですが、私にはこの頃よりももっと幼い頃から、どういう理由で備わったのかは確かではありませんが、「小さい声で囁かれる情報は変なものが多い」という、ぼんやりしてはいるものの、かなり確固とした"知恵"のようなものがありました。
でも、その時の自分の心臓の激しい動悸は記憶に鮮明です。
「これ、何かがおかしい。何かが変だ」
と、根拠ははっきりしないものの自分の中に怒りの感情が湧き上がってきました。
学校が終わって駆け足で家に帰り、母が仕事から戻るのを待ちました。帰宅した母にこのことを告げると、母は時間をおかず、静かにこう言いました。
「カズコちゃんはみいちゃんのお友達でしょう。これまでどおり、まったく普通にあそびなさいね」
母は、実直な性格で働き者でした。この頃の母は、何かを口で言い含めるようなことはあまりせず、黙々と自分の仕事をこなし、母の信条であった決めたことをきちんとする、ということを自分の身を持って教える人でした。
昼間は片道一時間以上かけて八王子の呉服屋さんで働きながら、当時移り住んだ土地の閉鎖的なしきたりとも戦っていたようでした。
母は、昭和一桁の東京生まれで、第二次世界大戦を東京で経験した人でした。もちろん、日本がこれまでしてきた韓国・朝鮮籍の方々への差別をたくさん見てきたはずです。が、新しい土地に移り住むことで、いわれのない偏見や誤解ともに自分たち夫婦が戦っていたこともあって、子どもたちの噂話からさえも分かるカズコちゃん一家への偏見は、非常に好ましくないもの、と判断したのでしょう。
思い返してみれば、父も母も、韓国・朝鮮籍の人たちのことを悪く言ったり、差別したり、ということを家庭に一切持ち込みませんでした。よって、私も妹たちもそういった感情に触れたことも向き合ったこともなかったのです。
「どうして、トモコちゃんたちはそんなことを言うの?」
という私の質問に、母はこう言いました。
「トモコちゃんたちも可哀想だね。周りの大人にそんなことを言う人がいるのかな。大人はいろいろあるからね。でも、子どもはそんなこと関係ないでしょう。子どもは大人とは違うんだよ」
私はこの母の言葉に安心し、納得し、次の日もその次の日も、カズコちゃんとどんどん仲良くなっていきました。カズコちゃんのお母さんの作ってくれるおやつや食事が大好きだった私は、放課後、本当によく彼女のお家に遊びに行きました。
ただ、早熟な本の虫だった私は、島崎藤村などの文学から、カズコちゃんやカズコちゃんの家族が国籍の違いが原因で差別され、就職や結婚などでも大変理不尽なことを強いられていることをそれから時を経ずに学んでいきました。
文学の中で繰り広げられる惨酷な人種差別の実態を知れば知るほど、私は憤りに震えました。そして、自分は決してこういうことを広めない大人になろう、と真剣に思いました。
ただ、カズコちゃんとの仲は、別にこういった"義憤"によって成り立っていた、という訳ではなく、ただただお互いに気があった、ということが大きかったのです。
私が冒頭で、「"差別・偏見"という感情に関して、私はかなり幸運な出会い方をしていたのかもしれません」と書いたのは、10歳前後の私の心に、このカズコちゃん事件は、国籍が違うだけで、人を卑下したり、差別したりすることが、いかに下賤で下品で知性のかけらもない行動であるか、ということを明確に指し示してくれたからです。
その後の私の人生に大きく影響を与える人種差別の愚かさを学んだのです。
私の耳にそんなことをささやいた数人の女の子たちがその後どんな人生を送ったかは知りませんが、カズコちゃんと私は大人になり、社会人になり、結婚し、母親になり、といった人生の節目節目に関わり続けています。
カズコちゃんはいまは帰化して日本人になっていますが、在日韓国人として、日本に生まれ育ちました。ご両親、特にお母様が韓国の伝統的な価値観を大切にされる方で、一族の絆をそれはそれは大切にされていました。
カズコちゃんは昔から、そのおっとりとした性格がそのまま顔に出ているような人で、結婚前の一時期、白無垢の花嫁さんのモデルをしていたこともあります。
写真を通してもそのまま伝わってくるような彼女の素直で優しい性格は、正に一昔前の従順で無垢な花嫁さんでした。
彼女の家族よりもやや近代的な価値観で育てられた私には、彼女が高校を卒業して家の飲食店のお手伝いをさせられて、お小遣い程度の"給料"をもらっていることなどにも違和感を覚えたことを覚えています。
若い小娘だった私がその時想像さえできなかったのは、家族を守るためには、時間をかけて、幾世代もかけて自分たちの地位を確立させていく、という考え方だったのかもしれません。差別がひしめく日本社会で娘を働かせて、必要のない差別を受けることから守ることだって親だったら当然考えていたことでしょう。
その伝統的な家族観にしっかり守られていたからこそ、彼女の鷹揚とした性格がそのまま生き延びたとも言えるでしょう。
そして、次世代の親となったカズコちゃんの子育てを見ればあの時のお母さんの選択が正解だったことがよくわかります。
同じ韓国籍の男性と結婚し、三人のお子さんにも恵まれましたが、残念ながらお連れ合いは病気で早逝されました。カズコちゃんの三人の子どもたちは、家業を継ぐわけでもなく、自分の選択したそれぞれの道を歩き始めようとしています。
昨年の暮れ、彼女の家族と何十年かぶりで再会しお食事を楽しむ機会がありました。カズコちゃんとは何回も会っているのですが、お姉さんご一家とはそれこそ、50年近く時を経た再会でした。
そしてその時、私の文章を前から読んでいてくれていると言う、カズコちゃんの姪の20代の娘さんから、大変意外なことを教えてもらったのです。
「峰子さんのこと、聞いていました。昭和40年代の差別がたくさんあった時代に、何の偏見もなく付き合ってくれたんだと。お母さんも一緒に一切の差別なくお付き合いしてくれたって」
不意を突かれて、泣いてしまいそうでした。
差別する、偏見を持つ側が一方的に悪いのに、こんな思いで私と私の母を見てくれていたんだ、という思いに胸が詰まりました。
50年前のあの土地の思い出が目の前に戻ってきました。
現在、南アフリカで、仕事にも恵まれ、友人にも恵まれ、二人の子どもたちもそれぞれが自分の道を歩き始めて、幸せに暮らす私の芯を支えるのは、こういった人とのつながりなんだと、つくづく思いました。
しかし、出自、出身国、または肌の色などで、人を差別し、迫害を加える人たちが世界には、そして日本にも大勢います。
私は日本に生まれ、日本、米国、欧州で教育を受け、大人になってからは人生の大半をアフリカで過ごしています。
もちろん、アフリカにも、特に南アフリカにはまだまだ人種差別は存在します。私がその差別の被害者になることもあります。
が、それがいかに何の意味もないものであるか、という事をどう伝えていけばいいのでしょう。人種、宗教に関係なく、気の合う人は気が合うし、合わない人は日本人同士だって合いません。
街頭で、
「朝鮮人は出ていけ」
「外国人は日本に住むな」
と人種差別を支持する人たちが叫ぶたびに、彼らが大事にしたいはずの"日本"のイメージが世界中に汚されて発信されます。
ヘイトスピーチの解消に向けた推進法が2016年5月24日、衆院本会議で可決、成立したのはたとえ現在罰則規定がなくても、大きな前進だと思います。
ただ、私は、ヘイトスピーチに賛同する人たち、その周辺の子どもたちに、推進法以前の問題として、出自、国籍って何なんだろう、人を攻撃してまで守りたいものというのは何なんだろう、と考えて欲しいのです。
私が常に思うのは、さて、500年後、私たちは何をしているのだろう、ということです。
国境はあるのかな?
パスポートは?
言葉は?
こう考えるとワクワクしてきませんか?
あと500年待たなくても、私たちは現在でもかなりいろいろな文化から刺激を受けて暮らしています。どうせなら、喧嘩するより、仲良く暮らせないのかな、と単純に思うわけです。
せっかく何かの縁があって出会った人たちとのつながりを大切にしてこそ、の毎日であり、人生です。
(2016年5月29日「空色庵にようこそ」より転載)