記憶というのは不思議なもので、ふとした瞬間、何も関係していないのに、目の前の風景の中にいきなり飛び出してくることがある。
例えば自転車をこいでいる時。目の前の道路に学校帰りの小学生の自分がいる。帰り道に暇つぶしに自分で物語を作って自分に「お話し」しながら帰る姿だ。周りの大人が不思議そうに振り返っていたことも思い出すが、「あ、声に出して話していたから驚かれたんだ」と気づいたりする。小学生のときは気付かなかったこと(「大人が振り返っていたこと」)の理由(「自分が一人でしゃべりながら歩いていたこと」)に気づいたりするのも面白い。
言葉というのは不思議なもので、自分の中にある経験を通じて生まれた感情や思考を紐解き、組み立てるツールであり、そしてそれに意味づけを与えてくれる。同じ意味でも「でも嬉しかった」というのと「嬉しかったけれど」というのでは意味も変わってくる。
私は言葉なしには、私あり得ないのだと、改めて考えさせられる。
体験を語り、他者へ伝える。
こうした経験と言葉の密接な関係は、一歩進めて「他者へ体験を伝達する」とき、さらに別の意味が加わる。
同じ体験をしていない「他者」へどのように自分の体験を語り、伝えるのか。
もちろん同じ経験をしていないので完全に理解はできない。だが、語りを通じて見出した「自分の思いや思考」への共感を求めることは可能だ。この共感の連鎖が、他者と寄り添い、つながりあうことなのだと思う。
体験を語ることは辛い。目の前の風景に自分の体験が浮かび上がる。辛い経験であればあるほど、それを目の前に浮かび上がらせ、語ることは、あの時の自分の経験を追体験し、また痛みを感じなければならない。
他方、語らなければ、その辛さを人に伝えることはできない。
体験を演じる
早稲田大学に体験を語るという取り組みがある。その授業の中ではロールプレイ形式で役割を交代することで、「あの時相手はどう感じたか」を演技を通じて考え、他者の気持ちを知り、自分の気持ちを考え、整理するという回がある。
自分の気持ちだけではなく、演技をすることで、相手の経験を追体験し、その時の相手の感情をなぞってみることで、自分自身が経験したことにももう一つ別の意味を見出し、その時の自分の体験にはどういう意味があったのか、複眼的に考える試みだ。
これは大学の授業だが、さらに広げ、ステージ上で自分たち、そしてコミュニティ全体の経験を語り、共有し、演じる試みがある。
3.11の震災の経験を語る声から生まれた演劇「いのちてんでんこ」だ。
被災地から未来へ、いのちの伝言
体験者の声から生まれた経験を語る試みは、最後に地域における「祭り」の意味の発見につながる。
体験を語ることで、目の前の風景、当たり前だったことの価値を再発見するその流れは、体験を表現するだけにとどまらず、その体験に新たな意味を与える。
自分の経験は他者、そして自分の暮らす身の回りとのつながりなしには成立しない。そんな当たり前のことを教えてくれる作品だ。
同作品は震災から7年を迎える3月、東北から飛び出し神奈川県鎌倉で開催される。
体験をどう体系づけ、身の回りの発見となったのか、足を運んでみるのはいかがだろうか。
被災地から未来へ、いのちの伝言
"いのちてんでんこ" 2018年鎌倉芸術館 公演
- 鎌倉芸術館 小ホール
- 日時:2018年3月10日(土) 昼公演13:00 夜公演17:00 (開場は開演15分前)
- チケット:前売4,200円、当日4,500円
- 25歳以下3,500円(前売のみ/入場時身分証をご提示ください)
- チケット取扱い:楽天チケット http://r-t.jp/inochi