【パリ同時多発テロ】爆発の瞬間、私はスタジアムにいた

そして私たちは気づき始めた。これは、本当に深刻な事態だと。

あの「攻撃」が起こったとき - 私はスタッド・ドゥ・フランスにいた。サッカーフランス代表を応援するためだった。頬に青・白・赤のフェイスペイントをし、1998年のフランス・ワールドカップで優勝の栄光に浴したあのスタジアムにいたのだ。

21時15分までは、なにもかもがうまくいっていた。最初の爆発のあと、スタッフは事情聴取のためにラウンジに集められていたようだった。「すぐに会場から出られるようになりますから」と、彼らは観客に説明していた。全ては突然だった。2度目の爆発を聞いたのは、最初の爆発の1分後だったように思う。ただもうその時点で、時間の感覚は狂っていた。何か壁のような圧迫感を感じ、私たちがいた場所では地震のような揺れも感じた。試合の運営を担当していたチームは、私たちを安心させた方がいいと感じたのか、「これは花火です」と説明した。ただ私たちは「何か深刻なことが起こったのだ」と感じた。

5分から10分経ったころだろうか、私たちは警察のサイレンを聴いた。私はニュースをみたいとTwitterを開いたが、多くの接続がなされていたのだろう、インターネットにはつながらなかった。最終的に、インターネットテレビのiTeleからいくつかの情報を得ることができた。そして、パリ市内も同様に攻撃を受けていることを知った。そして私たちは気づき始めた。これは、本当に深刻な事態だと。

ただ、スタジアムにいたサポーターたちは、応援するチームの活躍を再び応援し始めた。フランス代表が得点を挙げると、スタジアムは熱狂的に振動した。私たちに、何も変化はなかった。最初の爆発のあと、誰もスタジアムに入ることも出ることもできなくなっていたのだ。

少しあとで、誰かがスタジアムにGIPN(フランス国家警察介入部隊:テロ対策を主要任務とする特殊部隊)が現れたと言い始めた。最初の2つの爆発から30分経ったころ、同じように強い3度目の爆発音がした。観客は皆ソーシャルネットワークに接続しだした、と同時に、オランド大統領が会場を去ったことが知らされた。会場の人々は、スタジアムに残り続けなければならないことに興奮しだした。会場は広かったので息が苦しいということにまではならなかったが、気温は華氏100度(摂氏37.7度)まであがり、とても暑かった。

人々は口々に、パリで連続テロが起こっていることを話し始めた。

試合終了の笛が鳴る少し前に、スタジアムを出てよい、と言われた。スタジアムの周りは、全てが封鎖されていた。(フランス鉄道の)RERの駅に向かうための橋に差し掛かると、20メートルほど先に2人の警察官が1人の若い男に銃を向けている光景を見た。若い男は自分はジャーナリストだと主張していたが、警官たちは信じていないようで、片膝をつく姿勢になるよう命令していた。

周囲では、皆がパニックになり始めていた。我々は、RERの駅には違う道を使って行けと指示され、別の道へと向かった。2人の友人と共に、RERの駅へと走った。パリ12区、ベルシーの駅へ避難するつもりだが、どうやら今晩は一晩中動けなさそうだ。

この記事はハフポストフランス版に掲載されたものを翻訳しました。

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