16日付け朝日新聞記事は、広島での被爆体験を描いた、漫画家の故中沢啓治さんの代表作「はだしのゲン」(全10巻)が、昨年12月から松江市内の市立小中学校の図書館で子どもたちが自由に見ることができない閉架の状態になっていることを報じています。
「はだしのゲン」閲覧を制限 松江市教委「描写過激」
http://www.asahi.com/national/update/0816/OSK201308160095.html
記事によれば、「市教委によると、描写が残虐と判断したのは、旧日本軍がアジアの人々の首を切り落としたり、銃剣術の的にしたりする場面。子どもたちが自由に見られる状態で図書館に置くのは不適切として、昨年12月の校長会で全巻を書庫などに納める閉架図書にするよう指示した」としています。
73年の週刊誌掲載からすでに40年過ぎた今、なぜ今更「はだしのゲン」閲覧を制限なのか、たいへん興味深い「事件」であります。
今回はこの「はだしのゲン」閲覧制限事件について、徹底的にその背景を検証してみましょう。
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まずこの漫画「はだしのゲン」が如何に誕生して世の中に広まっていったのか、作者である漫画家の故中沢啓治さんの足跡と、この作品が世に広まる切っ掛けになった当時の集英社・週刊少年ジャンプの販売戦略を押さえておきましょう。
中沢啓治(1939年3月14日~2012年12月19日(満73歳没))は、1945年(昭和20年)8月6日、広島市立神崎国民学校(現在の広島市立神崎小学校)1年生だった時に広島で被爆します。
中学卒業後に看板屋で勤め、昼間は看板修行、夜は漫画修行、漫画家を目指し、漫画の投稿を何度も行い、『おもしろブック』に時代劇の読みきりを描いて応募した作品が入選作となります。
1961年(昭和36年)に一峰大二のアシスタントになるために上京、漫画家デビューは2年後の1963年(昭和38年)、レースカーと産業スパイをからめた『スパーク1』(『少年画報』)でデビュー。
その後、辻なおきのアシスタントになり、『週刊少年キング』では『宇宙ジラフ』を連載します。
この頃までの中沢啓治は当時流行っていたスパイものを中心にメジャーデビューは果たすもヒット作には恵まれてはいませんでした。
ひとつの転機は1966年(昭和41年)の母の死だと本人は後に語っています、広島に戻り火葬した際に放射能のために母の骨がすべて灰となり遺骨がひとかけらも残らなかった事に怒りを覚えたのだと述懐しています。
まだまだ世間に被爆者に対する根拠なき偏見があった当時、彼は自身が原爆被爆者であることを隠していました、東京で漫画家としてスタートを切ったころの彼は"原爆"という言葉を思い出すことさえ避けていました。
後にインタビューで彼はこう語っています。
「その言葉だけであの惨状と、人が焼けた匂いや、死体の腐臭が蘇る。それに当時は被爆者に対して一種の偏見もあった。上京してできた新しい友人たちに自分が被爆者だと打ち明けたとき、彼らの顔が変わったのは忘れられない。そんなこともあって、戦争の記憶から逃げていたのだと思う」
母の葬儀から、中沢は1週間で『黒い雨にうたれて』を描き上げます。
これは、広島で被爆し、外国人の暗殺のみを請け負う殺し屋の物語で、スパイ物の体裁ながら、全編に異様な雰囲気が漂うこの劇画には、その後『ゲン』で描かれるテーマの原型が見られます。
原爆とアメリカ、そして戦局をそこまで追い込み、戦後も被爆者たちに惨めな思いをさせた日本国家や社会への怒り。あの日に広島にいたというだけで人生を狂わされた人々の、やり場のない気持ち。しかし、作品が背負っている政治的・思想的側面(中沢の真意はもっと普遍的なものだったにしても)から、大手の出版社はどこも掲載に慎重になります。
唯一、青年誌『漫画パンチ』がこの作品を受け入れます、完成から2年後のことです。
「ただし」、と当時の編集長は中沢に告げたとされます。「俺も君もCIAに捕まる覚悟でないといけない」。中沢は了承したが、幸いそういう事態にはなりませんでした。
さらに1972年、中沢は『月刊少年ジャンプ』の漫画家自叙伝シリーズに自らの戦争体験を描いた『おれは見た』を執筆します。
この72年作品『おれは見た』こそ、『はだしのゲン』の原型をなす作品となっています。
これを読んだ『週刊少年ジャンプ』初代編集長・長野規(ながの ただす)は、中沢にこの漫画をもとにした連載を依頼します、そして、翌1973年、『はだしのゲン』が誕生、週刊少年ジャンプでの連載が始まるのです。
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さて、作品が背負っている政治的・思想的側面から、大手の出版社はどこも掲載に慎重になった中沢の一連の被爆体験作品ですが、なぜ『週刊少年ジャンプ』初代編集長・長野規は、リスクを犯して『はだしのゲン』の連載に踏み切ったのでしょうか。
『はだしのゲン』の『週刊少年ジャンプ』連載、実はそこには当時の集英社・週刊少年ジャンプの販売戦略が強く影響していたと、当ブログは推測しています。
当時の週刊少年誌界は59年に創刊した先行する2強『少年サンデー(小学館)』『少年マガジン(講談社)』を、後発の3誌『少年キング(少年画報社)』(63年創刊)、『少年ジャンプ(集英社)』(68年創刊)、『少年チャンピオン(秋田書店)』(69年創刊)が猛追するという過激なサバイバル競争のさなかにありました。
なかでも後発の『少年ジャンプ(集英社)』は、隔週発行から「ハレンチ学園(永井豪)」と「男一匹ガキ大将(本宮ひろ志)」の人気漫画を擁し、一気に週刊化、発行部数を急速に伸ばして、サンデー・マガジンの2強に迫っていました。
「おそ松くん」「天才バカボン」の赤塚不二夫、「ハリスの風」「あしたのジョー」のちばてつや、「伊賀の影丸」の横山光輝、「オバケのQ太郎」「パーマン」の藤子不二雄、「サイボーグOO9」の石森章太郎など、サンデー・マガジンの2強に連載をしていた当時の売れっ子漫画家は、小学館・講談社により後発誌への連載を事実上禁じられます。
後発のジャンプは10万5千部で創刊、人気作家を先発2誌が囲い込む中、『週刊少年ジャンプ』初代編集長・長野は新人作家発掘に力を入れ新機軸を打ち立てていきます。
マガジン・サンデーの購読者層が高学年化(中学・高校以上)する中、ジャンプはあえて小学生高学年にターゲットをしぼり、「友情と努力と勝利」を編集方針に据えて成功「ハレンチ学園」・「男一匹ガキ大将」(1968年 -)などがまずヒット、1971年には公称発行部数が100万部を突破、1973年8月に『週刊少年マガジン』を抜いて雑誌発行部数で首位、さらに「ど根性ガエル」・「トイレット博士」(1970年 -)、「侍ジャイアンツ」・「荒野の少年イサム」(1971年 -)、「アストロ球団」・「マジンガーZ」(1972年 -)、「包丁人味平」・「プレイボール」(1973年 -)とヒット作品が連発、その後も続くジャンプ黄金時代を築くことになります。
つまり中沢の『はだしのゲン』が編集長・長野の英断により『週刊少年ジャンプ』に連載開始された73年は、後発の集英社ジャンプが小学館サンデー・講談社マガジンを抑えて、発行部数で首位を奪取する、まさに歴史的転換期だったのであります。
この飛ぶ鳥を落とす勢いのカリスマ編集長でなければ、話題性があればリスクを抱えてチャレンジしてみようという当時の集英社の販売戦略がなければ、『はだしのゲン』がここまで世の中に広まるチャンスはなかったのかもしれません。
中沢自身も『週刊少年ジャンプ』の『はだしのゲン』連載は異例であることを自覚しています。
「『マジンガーZ』や『ど根性ガエル』と一緒にゲンが掲載されたことで、"出版界七不思議の一つ"だと言われた。連載を決めたとき女房に、これから玄関を開けるときには気をつけろと伝えたのを憶えている。ゲンの内容に反発して、必ず嫌がらせが出てくると思ったから」
長野は早稲田大学政治経済学部に在学中学徒動員で召集の経験があり、このことから彼は反戦漫画へのこだわりがあったのだとも言われていますがこのあたりの詳細は今となってはわかりません。
さて連載が開始された『はだしのゲン』ですが、作者中沢を悩ませたのは「読者からの嫌がらせ」ではありませんでした、それは人気のなさでした。
当時のジャンプでは毎週読者アンケートで連載漫画はその人気度で厳しくランキング、人気のない作品は容赦なく連載打ち切りとなっていました。
連載当初こそ「広島の原爆投下下の被爆擬似体験」という衝撃的なその内容で話題になりましたが、いかにもその後の内容は『マジンガーZ』や『ど根性ガエル』などに人気で勝てるわけもありません。
こうして『はだしのゲン』は、連載期間1年半で、編集長・長野の退陣と同時に連載が打ち切られます。
連載後半は編集長・長野の思い入れだけが頼りだったことが理解できます。
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さて集英社の連載が打ち切られた『はだしのゲン』ですが、その後いくつかの雑誌で掲載されていきます。
1973年 - 1974年 - 週刊少年ジャンプ
1975年 - 1976年 - 市民(オピニオン雑誌)
1977年 - 1980年 - 文化評論
1982年 - 1985年 - 教育評論
さて、その後『はだしのゲン』は『市民』『文化評論』『教育評論』と三つの媒体を転々としながら発表されていくわけですが、『文化評論』は日本共産党、『教育評論』は日本教職員組合(日教組)が刊行母体の雑誌であります。
実はここに、『はだしのゲン』は日教組を中心とする教員たちに広くプッシュされていた事実と符合します。
なるほど、全国の学校図書室に漫画やアニメのDVDが並んでいるわけであります。
『はだしのゲン』は、ジャンプ連載時の第一部と、その後の第二部に分かれるのですが、その内容が事実に即していない、偏向しているとの批判が一部から起きます、以下は昨年11月高知県教育委員会に活動家から提出された陳情書です。
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陳情書
嘘出鱈目反日極左漫画「はだしのゲン」を高知市の小中学校から撤去を求める
陳情理由
このマンガ本は日本共産党系の論壇誌である「文化評論」に於いて連載、その後、原水禁と原水協の対立により打ち切り。その後は日教組の機関紙「教育評論」に於いて連載を続行する。このマンガ本は間違った歴史認識を持った作者が執筆し、それを日教組の教師が小中学校の図書室に置いております。なお、県の教育委員会はこのマンガ本を推奨図書としております。 もし、このマンガ本が優良図書であるならば、なぜ共産党と社会党が対立したことにより、連載打ち切りとなるのでしょうか?このことにより、当マンガ本が非常に特定の政治色の強いものであるということが伺えます。 具体的な内容として、別紙1 日本軍が妊婦の腹を切り裂き胎児を引っ張り出したり、女性の性器の中に一升瓶がどれだけ入るのかということを調べるために、女性の下腹部に一升瓶を叩き込んで砕いて殺した等という描写がありますが、このような蛮行をはたらいていたのは、中国人であり、日本兵がそのような行為を行ったという一次資料はございません。 1937年に中国人が起こした通州事件のことをあたかも日本人がアジアの人々にしたというような内容になっております。
次に、当マンガ本の主人公の卒業式における描写に於いて主人公のゲンのセリフに「君が代なんか誰が歌うもんか!クソ食らえじゃ君が代なんか国家じゃないワイ云々」というものが有りますが、平成11年8月13日に国旗、国歌法、日の丸君が代法が制定されております。児童たちがこれを鵜呑みにしたらどうなるのでしょうか? 私は先日、高知市教育委員会学校教育課課長の土居英一氏とこの件について話し合いをしましたが、当マンガ本を撤去することはおろか、児童の目に触れないような場所に一時的に保管するという意向も無いということでした。土居課長は、以前日教組の組織員でした。確かになるほど、日教組が推奨する本を、元日教組の組織員が撤去するとは思えません。 また森一正教育環境支援課課長補佐に関しては、もしこのマンガ本を撤去したら国際問題に発展するとおっしゃっておりました。森氏もまた元日教組の組織員です。 教育委員会に所属しておりながら、完全に教育者の立場からは甚だ逸脱した行為であります。教育者というものは、自分の所属する組合団体のために働くのではなく、第一に児童の事を考えて行動しなければなりません。
そして、土居課長はこの「はだしのゲン」はフィクションであるとおっしゃっていました。であるならば、なぜこのマンガ本だけを特別扱いし、小中学校の図書室に置いているのでしょうか? 次に広島と長崎に原爆を落とされたのは事実ですが、その原爆を落とされた理由について「まずは最高の殺人者天皇じゃ!あいつの戦争命令でどれだけ多くの日本人アジア諸国の人間が殺されたのか」というとんでもない描写があります。(別紙資料) 平成5年の教科書ではこのような記述ですが、平成23年の教科書では正しい歴史の事実に基づいた記述に、改訂されているのです。図書室の書籍も嘘出鱈目の特定の思想に傾いたマンガ本ではなく、このように事実に基づいて速やかに、変わっていくべきであると考えます。 当陳情の採択に際し、全教組、日教組を支持母体とする、日本共産党、民主党などが阻もうとすることは想像に難くないですが、偏ったイデオロギーのためでなく、児童の正しい歴史認識のためにも良識ある議員の方々どうかよろしくお願いします。
以上。
採択されることを望みます。
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さてまとめです。
私は少年時代ひとつの作品として『はだしのゲン』を少年ジャンプで直接読んだ世代です。
正直、そのときにこの作品がイデオロギー的に偏向しているとかは解釈していませんでした。
原爆は悲惨だと感じながら、当時の多くの読者と同様、申し訳ないですがこの作品に対して関心はあまり持てませんでした。
おそらく私より若い世代は、リアルに読んだのではなく、図書館や学校の平和教育でこの作品を知った人が多数だと思います。
で、これはおそらくですが、この作品を知って上記の「陳情書」にあるように「反日」教育が施されているという指摘は、少しばかり大げさでしょう、今日の共産党支持率や日教組組織率の低落を見ても、少なくとも「反日」教育などは成功はしていないでしょう。
この作品は全編を通じて差別的記述や天皇制などへの過激な発言が見られるのは事実ですが、それをもって閲覧制限を求めるのは賛成しかねます。
本作品の内容に反論するような別の素晴らしい作品を両論併記のような形で平和教育に活用する、可能ならそのような建設的な策を希望します。
当の昔から記述に「偏向」が見られるのは読者はみな気づいています『はだしのゲン』を今更閲覧制限するとは・・・
最近の保守派の一部はどうも度量が狭くなってきた、そう感じてしまいます。
<参考サイト>
■2011-12-04 「メディアミックス」市場の寵児~ONEPIECE(ワンピース)
■週刊少年ジャンプ連載作品の一覧
■長野規
■中沢啓治
■[本][妄想][漫画]『はだしのゲン』はなぜみんなに読まれているのか
■中沢啓治(漫画『はだしのゲン』作者)インタビュー|Dazed Japan
■教育評論 : 日本教職員組合機関誌
■文化評論
■はだしのゲン
■はだしのゲン問題
(木走まさみず)
(※2013年8月18日の「木走日記」より転載しました)