世界でもっとも有名な巡礼地のひとつである、スペイン北西部のキリスト教の聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラ。
日本人女性と結婚し、ハネムーン代わりにそのサンティアゴを目指して巡礼路を歩くことにした、ドイツ人のマンフレッド・シュテルツ氏の手記をお届けしています。
巡礼3日目、予期せず訪れた小さな村の教会で、思いは"あの日"に飛び......。
3rd day 〈Espinal → Zabaldica, 27.3km〉
冷たくて湿った夜だった。
鳥の声で4時45分に目が覚めてしまった。チュイーーーッチュイチュイチュイ。ああ、うるさい。
6時になって起きだして、濡れたままの服などを再びパッキングし、乾いたパンとクッキー、コーヒーの簡単な朝食をとり、朝もやに濡れる田舎道を歩きだした。
小雨の中をとにかく歩く、歩く、歩く。道を登って、また降りて、登って、降りて、登って登って登って、ずううううううっと降りる。足元はぬかるんで、とても歩きにくい。オリソンの宿で会った旅人たちとまたすれ違って挨拶をする。そしてふたたびアップダウンの激しい道を行く。
ようやく少しマシな道に出ると、ほどなくスビリという少しひらけた村にたどり着いた。
お腹が空いてきたのでなんだかよくわからない軽食を食べ、コーヒーをすすった。
そしてまた歩き出す。まだまだ今日の"前半戦"なのに、すでに脚が疲れてきた。妻も足首が痛むようだ。僕は「ガンバッテ!」と彼女を励ました。とにかく進むしかない。
ララソアーニャという村の入り口にかかっていた石橋で腰を下ろして休憩していると、ボロをまとった老人が長々と話しかけてきた。僕たちは彼が描いたのだというスペインの古い建物のポストカードをもらって、かわりに3ユーロを差し出した。3ユーロだって? 僕はなんでそんなに渡してしまったのかいまでもわからない。
立ち上がって橋を後にすると、後ろでほかの旅人たちが彼の「策略」にはまっているのが見えた。彼はあの橋のたもとに隠れて、旅人たちが腰かけて休むのをいまかいまかと待っているんだろう。これまでも、これからも。
疲労が耐え切れなくなってきたので、地図をチェックして今日は控えめに約20km地点にある村を目指し、もう少しだけ行くことにした。
妻の足が引き続き痛むようだったけれど、僕たちは道端にある感じのよい小さな*アルベルゲを通り過ぎ、先へ進む。
*サンティアゴ巡礼者専用の宿
僕の足も棒みたいだ。どうして今日はこんなに時間がかかっているんだろう? さらに3kmほど進むと、ようやく目的地についた。
このサバルディカという小さな村の古い教会に隣接したアルベルゲを訪ねると、まだスペースがあるとのことだ。よかった! 下駄箱には、湿って泥だらけの旅人たちの靴がずらっと並んでいる。オエッ。
通されたのは、なかなか趣のある屋根裏の共同部屋だ。いつしか天気はすっかりよくなり、気温が上がり、傾きだした太陽が顔を出した。
僕たちは10数台ならんでいるうちの一番端のベッドふたつに居場所を作った。
続いては洗濯へ。洗濯というものは男の仕事だ、と僕は思う。洗うにしても絞るにしても何しろ力がいるし......ただし手洗いの場合はだけど。ということで、妻はその間野良猫と楽しげに遊んでいた。
洗濯を終えると、ふたりで宿の周囲を少し見て回った。いまにも崩れ落ちそうな小さな教会は13世紀に建てられたものだという。塔にはふたつの小さな鐘が下げられていた。これは鳴らしてみなくては。ひとつは壊れていてひどい音だったけど、もうひとつのほうは大丈夫、なかなかよい音で鳴り、夕闇がせまる村に響いた。
アルベルゲに戻り、妻が長々とシャワーを浴びている間に、もう一度今日の道程をガイドブックでチェックしてみた。うん? なんか変だぞ? どうやら僕は距離を数え間違えしていたらしい。
今日僕たちが歩いたのは20kmどころではなく、30km近かったようだ! 妻よ、ごめん! どうりで時間がかかったわけだ。
階下のダイニングルームに夕食の準備が整った。スゴイ!テーブルの上には何種類もの前菜がずらりと並んで、バゲットが焼けるいい匂いも漂っている。
20人程集まった旅人たちが、アルベルゲの女性主人にうながされて、それぞれの国の言葉で食前の祈りの言葉を唱えた。
メインディッシュはスパゲティらしい。旅人たちの半分は賑やかなイタリア人グループで、うちのひとりが女性主人に「アルデンテでね!」と注文をつけた。すると彼女は「じゃああんたがやりなさいよ!」なんて言って彼をキッチンに立たせてしまい、皆で大笑い。すごくいい雰囲気で、食事も本当に美味しかった。
食後、教会でささやかな礼拝が行われるというので、行ってみることにした。教会のなかは少し寒かったけれど、僕らは腰を下ろして音楽と祈りの言葉を聞いた。
シスターの勧めに従って、集まった10人程度の旅人たちがひとりずつなぜカミーノを歩いているかを話し始めた。そして僕の番だ。
「僕は3年間日本で働いていて、そのころに彼女に出会いました。
でもその後、2011年にちょっとした事件があって、僕はドイツに帰ることにして、彼女との別れを決めました。
でも、その後もずっとなんだか僕の中に燃え残っているものがあって、それは彼女も同じだったようで、僕たちはもう一度一緒に歩むことに決めました。
つい最近、僕たちは結婚をして、彼女の希望だったカミーノにハネムーンのかわりにやってきました。
この道を歩いていることでさらに深いつながりを持てているような気がします。僕たちはよけいな"雑音"なしに、もっとお互いを知りたいと思っています」
「2011年のちょっとした事件」についてここでは語らなかったけど、このときのことは一生忘れない。
東日本大震災、そして福島の原発事故。
日本中がパニックになり、僕が働いていたドイツ系企業もそれ以上に大騒ぎになった。ドイツ人の上司たちがどんどん帰国し、家族からも「すぐに帰ってこい」の矢の催促だ。
とりあえず会社はしばらく機能しないみたいだし、もちろん原発事故の経過が恐ろしいのもあって、僕はいったんドイツに帰国することにした。彼女に「一緒に行こう」と言ったけれど、彼女は仕事があるから一緒には行けないと答えた。
ドイツにいた数週間で、僕は考えてしまった。希望を抱いて日本にやって来たけど、日本式で進む仕事はきつく非効率で、解せないことが多かった(例えば、毎日のように夜の10時まで働いたり、土日に出勤しなければならないなんて、僕にとっては考えられないことだ)。
仕事が忙しくて、日本人たちとろくに交わることもできず、日本語も上達せず、このままでは転職もできない。バーに行っても「あ~、ガイジンさん、ダメダメ!」なんて言われたりして... ちっとも日本社会に溶け込めている気がしない。
一方の故郷のミュンヘンには家族や親しい友達がいる。ずっといいポジションが僕を呼んでいる。
そうやって僕は、間接的にではあるが東日本大震災がきっかけとなって日本を去る決意をし、遠距離恋愛は難しいとわかっていたから、話し合いの末彼女との別れを決めた。
でもドイツに戻って数カ月が経つと、大馬鹿な僕はようやく気付いた。少なくとも、彼女と別れたのは間違いだったと。
そのあとはまあ、こんな感じだ。
僕のスピーチを聞いて、妻は泣いていた。
皆で祈りの言葉を唱え、旅の無事を願って、礼拝は終わった。素晴らしい時間だった。さあ、もうベッドに入ろう。灯りを消さなきゃ。
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※この手記は、妻で編集者の溝口シュテルツ真帆が翻訳したものです。妻の手記はnoteで公開しています。