本当にアラビア語は不思議な言語である

アラビア語というのは、アラブ民族が喋る言葉で22の国と地域にまたがり、実に多くの人々が使う言語の1つで、国連の6つの公用語の1つにもなっている。2000年以上ほぼ変化なしで使われている、世界で本当に珍しい言語でもある。現代の我々アラブ人は2000年前のアラビア語の文章を理解できる。それどころかそのまま今でも使っている。

極端に言えば、2000年前のアラブ人が現代に復活したら、我々現代のアラブ人と難なく会話できるし、新聞、雑誌、本なども読めて理解する。もちろん、2000年の間にできた新しい単語こそ理解できないが、しかし言語そのものの骨格は変わっていないので意味のほとんどがわかる。

本当にアラビア語は実に不思議な言語である。我々アラブ人は、アラビア語を聖なる言葉と思い込んでいる。理由はとても簡単、イスラム教の聖典であるコーランは、アラビア語で書かれているからだ。それが故にアラビア語が変化に抵抗しそのまま生き残れるわけだ。

日本語に比べるとアラビア語はとても変わった言語とも言える。例えば、文章の構造は日本語と真逆で、動詞が一番初めに来る。動詞のあとは主語、そのあとは他の詳細が続く。

それ以外にも、日本語の母音が「アイウエオ」と5つのあるに対し、アラビア語には「アイオ」という3つの母音しかない。そういう事実は日本語を習いたてのアラブ人に、非常な苦労を課す。単語を覚えるとき、いろんな誤解と勘違いが生じる。

そこで、1つの勘違いのエピソードを紹介したい。

僕がエジプトのカイロで、日本語を習いはじめた頃の話である。

日本語の先生の妹さんが旅行のためエジプトに来た。そこで我々生徒の数人がカイロを案内することになった。

我々は一石二鳥の思いで、先生に恩返すると同時に新しい言葉を覚える絶好のチャンスだと考えた。

将来ツアーガイドを目指していた我々生徒たちにとっては貴重な機会だと思ったわけだ。そこで先生と妹さんを連れてカイロの観光名所を歩き回り、身振り手振りで片言の日本語を使って説明し、先生が口にするこれまで聞いたことのない単語を一生懸命にノートに書き込む。

そのうち、私の書いたメモ用紙が先生と妹さんの目に偶然入った。彼女たちは顔を赤くして2人でヒソヒソと我々に聞こえないように話しはじめた。2人は顔を見合わせながら、なぜだろうというような表情をしていた。私はその会話や顔の表情に気付かぬふりをしたが、理由は全くわからなかった。

しばらくしてその場を離れ、次の訪問先を向ったところ、歩きながら先生がさりげなく、私のメモ用紙に記された1つの日本語のひらがなを指しながら、聞いてきた。

「この言葉って何ですか?」

先生は指先で指しただけで、その言葉を読みあげない。

「さっき先生が教えくれた言葉ですよ。」

先生が慌てて質問を続けた。

「何時のどの場面でですか?」

私がもう一度苦労しながら、身振り手振りの片言でこう説明した。

「カイロシタデルの中のモハンマド・アリ・パシャの宮殿に入った時、モハンマド・アリ・パシャがライバルだったマムルークたちを卑怯なやり方で暗殺した部屋を見学した時ですよ、先生。」

1805年にエジプトの王座に就いたアルバニア人の流れ者格のモハンマド・アリ・パシャは、これまで数百年にわたり、事実上エジプトを支配していたマムルークを一番の脅威と感じていた。マムルークというのはエジプト屋中東の武士階級だが、元はアラビア語で奴隷を意味する。主に中央アジアで捕らわれた奴隷たちが武士として育てられ、国家の軍隊と警備隊の役割を担った。彼らはやがて、マムルーク朝を1250年頃から1517年まで築く。

1517年以降もエジプトがオスマン・トルコ帝国の支配下の時でも絶大な力を保ち、実行支配していた。

マムルークたちを一番の敵と考えたハンマド・アリ・パシャは彼らの頭(かしら)や、その取り巻き数名を仲良くしようじゃないかと盛大な宴に誘った。宮殿の特別な部屋でパシャ本人も含めてみんな無防備で食べながら歓談を交わす。マムルークたちは今までどおり王様は自分たちの言いなりだと喜んだ。

ところが、その特別な部屋に設えられたベンチのような形をした椅子には仕掛けがあった。座る部分を上げると収納スペースがあり、パシャと仲間たちはそこに武器を隠していたのだ。

「あ、先生、その言葉ですよ。ぶきです。ぶき。」

「ああ、武器ですね。」

先生はわざわざ私のメモ用紙を取り、

「それなら、書き方が間違っています。こう書きます。」

と言いながら、私が書いた文字を読みあげず、ただその上に線を引いて、代わりに『武器』という単語を漢字とひらがなで書いてくれた。

私は家に帰って、真っ先に辞書を探し、私が書いた文字を調べた。

当時は漢字の勉強は一切しないで、ひらがなとカタカナのみで、日本語を習っていた。

母音の少ないアラビア語が母国語である私は『ぶき』という発音を聞き間違えて、『ぼっき』と書いたのであった。

不思議なもので、当時覚えようとしていた「武器」という言葉より「ぼっき」という単語の方がずっと記憶に焼き付いていて、忘れることができない単語になってしまった。人間というのはそんなもんだよねとつくづく実感する。

マムルークたちの話の続きはこうである。その宴の日に500人ほどが抹殺され、その日逃げきった者らも後日、追いつかれ抹殺された。歴史の中からマムルークという類の武士が消えて二度と出現することはなかった。丁度日本の武士階級が消える半世紀も前のことであった。完

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