かみ合わせ治療の奥深さに気づいた歯科医師、平沼一良はかつて骨格バランスにまで踏み込んで咬合(こうごう)の勉強をした。たとえ歯の咬合面がスムーズでも、下顎骨が左右均等に動いて真っ直ぐに閉じなければ、上下の歯の正しい接地はできない。上顎骨を含む頭を支える頚椎や背骨、そして、それらを支える骨盤のバランスまで考慮しないといけない。
「開業したのは32年前ですが、3年ほど経ってからカイロプラクティック・スクールに通い始めました。そこで学長のドクター・オブ・カイロプラクティックから"どうして歯医者に行くと体の具合が悪くなるのか?"と指摘されました。」
歯科技工士が補綴物(詰め物)を作成する際は、顎関節の動きを模した咬合器という装置を使いアゴの動きやかみ合わせを再現する。バイオメカニクス(生体力学)を考慮した上で様々な咬合器が開発されている。だが、咬合器はあくまでもガイド役を担うだけに過ぎず、正確に口腔内を再現することは難しい。生きた人間のアゴには舌や頭蓋骨の重みも加わるからだ。また、首や頭から伸びる筋肉の作用も様々なベクトルからアゴのバランスや歯の当たり具合に影響する。人工的にシミュレーションされた条件下、いわゆるin vitro(イン・ヴィトロ)から導かれた基準と、患者の生体内、in vivo(イン・ビボ)の環境下で起こる実際の咬合は違って当然だといえる。
顎関節は、一見、メカニカルに軸運動だけをしているように見える。だが実は上下の顎は3D空間に浮かんだような状態で、3Dで当たったり離れたりしている。顎関節はガイド役としての機能は果たすが、動力は咀嚼筋や舌骨上下筋群であり、下顎骨は四方八方からケーブルで引っ張られながら動いている状態だ。
「かつて...、20年ほど前までは私自身が骨格調整をしていました。骨格調整の直後に透明なシリコンを入れて動かないようにしてかみ合わせを調整したものです。それがままならなくなると、カイロプラクターとの連携を始めました。まず、歯科医院で理想の位置に合わせて型を取リます。そして、患者さんが食事をする前に、その日のうちに骨格調整を施すわけです。なぜなら、食事をしてしまうとかみ合わせの位置が狂ってしまうから。骨格調整を受けた後に、水枕のようなものを噛んで戻ってきてもらい、歯科治療をするわけです。」
咀嚼運動の際に歯にかかる力は食べ物(固形物)の形や固さにも影響される。また、上アゴと下アゴの関節の間をガイドする関節円盤の動きの滑らかさによっても変化する。噛みごたえに違和感が生じれば、神経系統が帳尻あわせをして、咀嚼筋や舌骨上下筋群の補正作用を起こし、上下の歯の接地を調整する。
食事の際に歯や歯根膜にかかる圧力は必ずしも左右均等ではない。誰しも無意識に下顎の位置を補正しながら咀嚼をしているのだ。
歯科治療が難しく経験と勘、高度な職人技を要するのは、この自律コントロールが人体に備わっているが故である。咬合器というメカニカルなガイドを頼りにしてはいるが、歯を削って微調整すると時に脳や体がそれに対して補正し、追えば追うほどつかまえられない。出口のない迷路に迷い込む結果につながることがままある。
そもそも、かみ合わせ治療は、連続する咀嚼運動を長期的にくり返したうえで患者やその体が主観的に評価するものである。数年〜数十年使ってみて、過去の歯科治療の良し悪しや歯科医師の腕が分かる。反復運動による負担の蓄積はボディーブローのように、顎関節や近接する上部頸椎にストレスを与える。
平沼が導き出したメルクマールの一つは頭蓋骨との関係性だ。X線画像に線引きして基準点やそこからの変異を計測する診断法。筆者のように、アメリカでカイロプラクティックを学んだドクターには馴染み深い手法だ。平沼の場合は、側方画像で咬合面に合わせて耳の後ろに延長線を伸ばして分析し、これに基づく治療を繰り返して実証を得た。
「日本人の場合、側頭骨の乳様突起*から1.5mmくらい下がった位置を延長線が通過するのが、かみ合わせの基準値であることがわかりました。」
関節のバイオメカニクス(生体力学)を考慮すると、カイロプラクターの筆者にとっても平沼の言葉には説得力がある。
*筆者注: 頭蓋骨の一部、側頭骨の一部。耳たぶの内後方に位置する骨のランドマーク。
(敬称略)