多くの尊い命を奪った、あの東日本大震災から4年が過ぎました。遺族や被災者の皆様はこの4年間、大切な人や財産を失った悲しみの中、日々必死に過ごされてきたことと思います。そのご苦労や心痛は計り知れません。
津波被害や原発事故の収束は終わってはいません。全国では今も23万近くの人々が避難生活を余儀なくされています。
「仕事や買い物の店舗など、地域の生活環境が落ち着くには、あと10年くらいかかるかもしれない」。宮城県南三陸町に隣接する登米(とめ)市津山町柳津の仮設住宅で暮らす阿部一郎さん(68)は3月14日、電話取材に対し、こう話しました。
阿部さんは、23メートルにも達する大津波で南三陸町戸倉にある自宅を跡形もなく流されました。震災直後は同市登米(とよま)町の公民館に避難しました。2011年5月初旬に初めて会った時、阿部さんは「一番、今、望んでいることは、仮設住宅を早く自分たちの要望地域に作ってほしいこと。将来の自分の住宅については、まだ、それからの考えです」と話していました。あれからほぼ4年。仮設住宅へは入居できたものの、自宅の所持については今も厳しい見通しを示していました。
「自宅建築の自己資金を調達することが難しい。息子夫婦と隣接する別々の仮設住宅に住んでいて、光熱費といった生活費用がかさんでしまっている」。阿部さんは将来、息子夫婦ら家族7人で一軒家で暮らすことを希望しています。
■ 被災者に空き家を貸せないつらさ
東日本大震災には取材者としてだけでなく、個人的にも様々な思いを寄せてきました。私の母の実家は、南三陸町の西隣の登米市登米町にあります。幼い頃からほぼ毎年お盆の時期に訪れています。見慣れていた三陸沿岸が津波で一変し、多くの住民が亡くなったことに深い悲しみと激しい衝撃を受けました。
2011年5月初旬に取材で訪れた南三陸町では、見渡す限りがれきの山に唖然として、しばらく立ちすくんだままでした。辺り一帯ではがれきを燃やす焦げ臭い匂いが充満し、空気の汚さも体全体で感じました。
しかし、2年後の2013年7月に再訪すると、すでにがれきも片付き、辺り一面がきれいになっていました。
母の実家は祖母が36年前に他界してから空き家になっています。このため、震災後は被災者の方に貸し出して利用してほしいと思ったものの、叔父や近縁が震災前後に亡くなったため、一周忌や三周忌などの法事を行うことを考慮し、被災者に貸したくても貸し出せないという、いたたまれない思いになりました。登米市は、被災者支援のために、こうした空き家を「みなし仮設住宅」として活用する制度を設けていましたが、空き家提供の登録を申し込めずにいました。
親類が高齢化し、他界する身内が増えているだけに、母や私が法事で宮城に帰省する回数も増えています。
被災者を苦しめているのがこうした高齢化と人口流出の問題です。例えば、母の実家のある集落は現在は約100人しかいない小さな村。昨年夏のお盆時期に1年ぶりに帰省したときには、そのうちの10人が他界していました。1年間で、村の人口の1割が亡くなっていたわけです。そして、その集落の最年少が56歳。私が幼い頃は、都会育ちの私と一緒に遊んでくれる子供たちがたくさんいた集落でしたが、その後、若い世代は仙台などに移り、今はお年寄りばかり。あと20年、30年もすれば、集落そのものがなくなってしまう恐れがあります。限界集落の典型です。
そんな人口減や高齢化の地域社会では、被災者を含めた住民の生活の見通しがなかなか立たないでしょう。震災対策に加え、仕事や子供の教育、医療、買い物等の面で、安心のできる地域を取り戻さなくてはいけません。
阿部さんは希望を失っていませんでした。養蚕の指導者として長年生き物を使った産業に関わった経験を生かし、故郷の南三陸町で養蜂業を興すことを目指しています。津波被災地である南三陸町で植栽が進んで花が返り咲き、日本蜂がやってくることに期待を込めています。
「初めての体験で、勉強しながらやっています。ハチミツをとって売ることになるのはまだまだ先のことになるかもしれないが、これまでにない新たな産業として養蜂業で南三陸ブランドを創出したい。津波被災地域の復興モデルとして雇用を生み出したい」。阿部さんはこう力強く抱負を述べていました。
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