原生林と川と湖と氷河に囲まれた南米チリのパタゴニア地方で暮らす私たちの日常のストーリーを綴っています。今回は、その20回目です。
「シンプル・ライフ・ダイアリー」9月27日の日記から
昨夜、水を汲みに外に出ると、西の空に大きなオレンジ色の月が出て。川面を照らしていた。空には、雲一つなく、月のはるか後ろに雪をかぶったメリモユ火山がくっきりと見えた。
「わあ、きれい!」すぐに、ポールを呼びに行った。
「ポール、オレンジ色の月が出てるよ。外に来て、見てごらんよ」
月は川の真上にあり、オレンジ色の月影が川面に映って、ゆらゆらと揺れていた。夜空は満天の星。あまりの美しさに言葉を失い、しばらく、立ちすくんでいた。
「見晴台に行ってみようか。あそこの方が、もっとよく見えるかも知れないよ」
私たちは、敷地内の一番高い場所に作った見晴台へ行った。でも、見晴台に着いた時には、月はすでに火山の後ろに沈みかけていて、川面に映っていたオレンジ色の影は見えなかった。
「ああ、がっかり。下であのまま月を見ていればよかったね。こんなにあっという間に、月が沈むとは思わなかった」私が言うと、
「まあ、そうがっかりしないで。少なくとも、月を見れたんだから、よかったじゃない」と、ポールが言った。本当にその通りだった。
私は、夜、外へ出るのが好きだ。もし、家の中に水道があって、水を汲みに出る必要がなかったら、オレンジ色の月が出ていることに気づくこともなかっただろう。パタゴニアに来るまでは、こんなにたくさんの星を見たことがなかったし、こんなに何度も夜、外へ出て、空を仰いで、星を眺めることもなかった。
今では、天の川が一年を通してどのように動くのか、南十字星がどの季節には、どこに出るのか、月がどんな風に動くのかが、わかるようになったし、月が満ちて行っているのか、欠けて行っているのかも、わかるようになった。
太陽の動くルートにも、気づくようになった。南半球では、北半球とは逆に、6月が冬至になる。冬至には、太陽は、火山のはるか右側に沈んで行く。太陽が沈むポイントは、徐々に左に動いて行って、11月の初めに、ちょうど、火山の真後ろに沈み、12月の夏至には、火山のずっと左側に太陽が沈む。太陽は、そこから6月の冬至に沈んでいくポイントまで、同じルートをたどって戻っていくのだ。
雲の出方や地球からの距離によって、夕焼けの色が変わることにも気づいた。春の夕焼けは、赤とオレンジと紫のコンビネーション。夏は、ピンクと紫のグラデーョン。ポールが夕焼けを眺めるために、庭の一角に特別にベンチを作ってくれたので、一日の終わりにワイングラスを片手に夕焼けを眺めるのが楽しみになった。
もし、ポールに出会っていなかったら、宝石のように美しい自然からのギフトに気づくこともなかっただろう。
初めてポールの講演会に行った時、木を植えながら世界中を歩いている彼の人生に感動して、彼の物語をブログに書いた。それがきっかけで、ポールが旅の間につけていた日記を和訳し、「木を植える男 ポール・コールマン」という本を出版したのだけれど、その中でポールは、何度も、自然の美しさに触れるたび、「胸が一杯になった」という表現を使っていた。それが、どういうことなのか、今では、よくわかる。信じられないくらい美しい自然の風景を見た時、私の胸も、感動で一杯になるのだ。
思い起こせば、ポールに出会ってから、何度も、私は分岐点に立ち、そのたびに、選択を迫られた。
たとえば、ポールに、結婚してくれないかと言われた時は、大きな決断が必要だった。ポールと結婚するということは、今まで生きていた世界とは全く違う、未知の世界に飛び込むということだ。それが、とても怖かった。
「それまで15年間も世界中を歩いて、木を植えてきた彼の人生に加わるということは、一体、どういうことなのだろう?」
私は、ずっと東京で、ごく普通の生活を送っていたし、ポールに会うまでは、3キロ以上、歩いたこともなかったのだから。
私の中では、「私は、今のままで十分幸せ。この小さな、安全な世界から外に出たくない」と言う自分と、「目をつぶって、思い切って飛び込んでみなさいよ!ポールの生きている世界は、不確かなことだらけだけど、でも、それは、無限の可能性が広がる世界でもあるんだよ!」と言う自分が、せめぎあっていた。もちろん、自分がそれまで生きていた「居心地の良い領域」を出るのは、怖かったけれど、それでも、私は、目をつぶって、「えいや!」と、飛ぶことを選んだのだった。
一旦、決心を固めると、変化は、急激に起こった。ポールが沖縄を歩いて木を植えている間、私は神奈川に、古い木造の家を借りた。ところが、沖縄を歩く旅を終えて、新居にやって来たポールは、その日のうちに、「出たい」と言い出したのだった!
「こんな小さな家に、しかも、両隣の家がくっついているような所には住めない。ましてや、大家さんのおばあさんが、毎日、生垣を刈り込むふりをして、窓から家の中を覗き込むのが耐えられない」と言うのだ。
「沖縄に帰る」とポールは言った。ショックだった。まだ、新しい家に引っ越して来たばかりだったので、沖縄に移るとなると、敷金や礼金は戻って来ないし、トラックで引っ越して来た荷物を全部、輸送するためには、何十万円も引っ越し代を払わなければならない。
「いったい、どうしたら、いいのだろう?」私は悩んだ。でも、冷静になって考えてみると、ポールは、今まで自然の中で暮らし、野宿をしてきた人だ。両隣りが隣接している狭い家に住むのが、息苦しいのは当然のこと。ポールが、沖縄の大きな空と海を恋しく思う気持ちは、よくわかった。
沖縄に引っ越そうと決めるのに、それほど時間はかからなかった。どうやって、荷物を移動しようかと考えていると、ポールが素晴らしい解決法を思いついた。
「荷物を処分したらいいんじゃない?そしたら、引越しの心配をしなくていい。僕は、何年も、バックパック1つで暮らしてるよ」
多少、未練はあったけれど、それが一番いい方法だと私も気づいた。結局、2週間かけて、家具や冷蔵庫、洗濯機、OL時代に買った10足以上の靴や何枚もあった冬用のコート、何足もあったブーツ、数え切れないほどの洋服やハンドバック、いくつもの色違いの傘、何百冊もの本、百枚以上あったCDなど、処分する物のリストは限りなかったけれど、最終的に、売ったり、友達や妹にあげたりして、所有物の9割を処分した。そして、私は、段ボール箱10個を宅急便で送り、ポールと沖縄に引っ越したのだった。
あの時、もし、賃貸契約のために使ったお金や、何年もかけて集めた家具や洋服などに執着して、手放さずにいたら、どんな人生になっていたのだろう。その代償に失ったものは、計り知れないほど大きかったに違いない。でも、手放す作業は、それで終わりではなかった。
それから、数ヵ月後に、私はポールと中国を歩いた。歩き始める前、ポールは私のバックパックの中身を調べ、スキンローションや、クリームや、ファンデーションなどの化粧品を全て取り出して、これらは重すぎるから処分した方がいいと警告したのだが、ブランド品の高価な化粧品を手放すわけにはいかなかった。
「18歳の時から化粧をしていて、すっぴんで人前に出たことはないのだから、そんなことはできない」と、私はポールに言った。ポールは、それでも、「その重さでは、あまり遠くまで歩けないよ」と説得しようとしたのだが、私は、それを無視して、化粧品をバックパックに入れたまま、万里の長城から歩き始めたのだった。
案の定、初日の終わりには、足首が腫れて、痛み始め、翌日は、ベッドから起き上がれなくなった。ポールが言った通り、やはり、バックパックが重過ぎたのだ。ポールの忠告を無視した結果を身に染みて感じた。
翌日、私は、迷いなく、化粧品をすべて捨てた。足の痛みに比べると、化粧品を捨てる痛みは、なんでもないことのように思えた 。それ以来、化粧をしなくなり、すっぴんでも平気になった。そして、私が地球の上に残すフットプリントも軽くなった。
これらの経験のおかげで、私は、少ない物で生きていけるということと、人生を楽しむために多くの物は必要ないということを学んだ。
私たちが、パタゴニアに家を建てるためにやって来た時、持っていた荷物は、バックパック2つと小さなスーツケース2つだけだった。そこから、家を作り、畑を作り、新しい人生を作り上げて行った。
先日、私たちは12年目の結婚記念日を迎えた。この12年間は、私の人生の中で、一番幸せな時間だ。