「先生、ルワンダに来て保健医療を手伝ってください」という1本の電話で1994年以来久しぶりにルワンダの首都キガリを訪れた。
この街のように道はきれいに整備され、ゴミが一つもなく、夜も安心して歩くことのできるアフリカの首都はどれだけあるだろうか。なだらかな丘が続き、朝夕は涼しく快適だ。この街は、酷暑と湿気の東京からの来訪者には別世界だ。
人々は温厚で明るく誠実で汚職も少ない。ここで約20年前に史上最悪とも言われる民族虐殺が起きたことが信じられないほどの変貌である。
1994年8月、僕はルワンダとザイール共和国(現コンゴ民主共和国)との国境の街、ゴマにいた。数百万人はいたであろう難民と道路脇に転がる死体の数に言葉を失っていた。
日本人はまだ誰もいなかった。僕のミッションは、医療NGOの一員として欧米のNGOや国連等とコラボをしながらクリニックを設営することであった。
そのキャンプで偶然、マリー・ルイーズさんと出会った。彼女が今回私に電話をかけてきた人だ。
彼女は難民だった。3人の小さい子どもをかかえて何週間もさまよい、命からがらキガリから逃げてきた。彼女の子どもたちは赤痢に罹り重症で死ぬ間際だった。私が抗生剤を処方すると子供たちは、みるみる快復した。
その後、彼女は「先生のクリニックで働かせてください」と申し出てくれた。驚いたことに、彼女は日本に研修に来た経験があった。それから難民の中から看護師や医師、警備に当たるガードや事務員、ドライバー等を探し出し連れてきてくれた。
彼女の前向きであきらめない性格がクリニックの皆を励ました。日本の自衛隊がその後病院を設営した時も、大いに活躍してくれた。
その後、僕は米国に留学し、彼女は日本に再度向かい、その後は全くの音信不通になっていた。
時は流れ2011年。震災後、僕が福島県相馬市の医療支援をしていて、地元のテレビに出演した時に、偶然マリー・ルイーズさんはそれを見て、テレビ局に電話して僕を見つけた。ゴマの難民キャンプ以来、17年ぶりに僕らは再会した。
難民キャンプで別れた後に福島で研修した彼女は、日本の教育制度に感激したという。虐殺で社会がバラバラになり、子ども達の心が荒んだルワンダの将来には日本式の教育が必要だと確信し、自分でキガリに学校を開き、日本とルワンダを行き来していたという。
そして、震災と原発事故が起き、今度は被災した福島の子ども達のために、ルワンダからの支援を届けていたのだった。
マリー・ルイーズさんは、ルワンダの学校教育が軌道に乗った今、次は保健医療をやりたいという。そこで、今回の私のルワンダ行きとなった。
ルワンダでの虐殺、私が医師として難民だったマリー・ルイーズさんと出会い助け、そして福島での震災の時に、マリー・ルイーズさんが福島の子供たちを助けている。
壮絶な混乱と多くの人の命をつなげるための模索の中で、縁というのは不思議なものだと思う。