(注:開戦当時の記述です/拙著「小泉政治の正体」/PHP2004年11月刊より)
イラク戦争の大義、正当性を考える時、日本が、いや世界が、原理原則なき、秩序なき、ルールなき社会となりつつあることに、大いなる懸念を有してしまうのは、私一人だけではあるまい。
何も、あの極悪非道のサダムフセインを擁護する気は更々ない。しかし、戦争は双方に、特に罪のない民衆に悲惨な結末をもたらす。本来、ぎりぎりの外交的手段を尽くし、最終最後の手段として行使されるべきものだ。そして、その場合も、国際社会のルールにのっとって行われる必要がある。
サダムフセインは確かに殺人犯だ。過去、イランとの戦争や少数民族のクルド人に、生物化学兵器を使ったこともある。だが、「たとえ殺人犯でも勝手に殺してはいけない」というのが近代刑法、法治社会のルールである。これを許してしまえば、今後、いろいろな国が自分に都合のいい理屈をつけて、他国を攻撃していいということになってしまう。
現に、イスラエル・パレスチナ紛争では、互いをテロリストと呼んで際限なき「自衛戦争」が続いている。世界が無秩序状態になれば、こういった悲劇があちらこちらで起きてくる。今回の問題の処理は、こういう今後の世界秩序形成にあたっても、死活的な重要性を持っていたのだ。
戦後、国連中心に築き上げられてきた国際法秩序では、武力行使が許されるのは、「自衛権の行使(自衛戦争)」か「国連決議による場合」に限られる。
アフガン攻撃の場合は、九.一一テロを計画、実行したアルカイーダへの自衛のための武力行使という正当化もできたであろう。しかし、イラク戦争の場合は、当時、イラクが米国にとって「急迫不正の侵害」をする脅威であったとは言えず、また、イラクが九.一一テロに関与した証拠もなかった。「自衛権の行使」は理由にならないのである。
問題は「国連決議による」と言えるかどうかだが、この点、十年以上も前の、湾岸戦争時のイラクとの停戦決議六八七(大量破壊兵器の破棄命令を含む)、その前提となる国連決議六七八があれば足りるとする、米英や日本政府の立場にはとても賛成できない。その国連決議六七八を国連安保理議長として採択した張本人のベーカー氏自身でさえ、回顧録の中で、「国連決議が多国籍軍に認めていたのはクウェートの解放だけだから、それを尊重すべき」としている。にもかかわらず、米英や日本の政府が、バクダット攻撃、フセイン政権打倒の唯一の正当化理由としているのがこの決議だというのだから、こんな馬鹿げたことはない。
湾岸戦争は、イラクが不法にクウェートを侵略したにもかかわらず、フセインが国連決議を無視し撤退を拒否したため、やむを得ずクウェートを解放するために行った大義ある戦争だった。当時のベーカー米国務長官は、今のブッシュ政権とは異なり、「シャトル外交」と称されるくらいに世界を駆けめぐり、自らが国連安保理議長の時(九〇年十一月)、国際社会の大方の賛成を得て、武力行使を容認するという国連決議を勝ち取ったのである。
その湾岸戦争時とは異なり、イラク戦争では、国際世論は大きく分断されていた。常任理事国のフランス、ロシア、中国、更にはドイツの反対もあったが、特に、アラブ諸国(イスラム諸国)の戦争反対の声にもっと留意すべきだった。まかり間違えば、「イスラム対キリスト」の宗教戦争の危険性も内包していた。それを回避するためには、少なくとも「国際社会の総意」、すなわち、国連安保理の新たな武力行使容認の決議が必要であったのである。アナン国連事務総長も当時、「新たな決議なしの攻撃は違法」と断じていた。
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(2015年10月14日 江田けんじ「シリーズ②「日本には『大義なきイラク戦争』への総括がない」・・・賛成・支持した政治家に安保を語る資格はあるか?」より転載)