「南三陸町へようこそ たくさんのご支援どうもありがとう」
国道398号線でトンネルを超えると、こんな看板が見えてきた。山を下りていくにつれて、沿道を工事車両やトラックが激しく行き交う。
3月14日、震災直後から約4年ぶりに訪れた南三陸町の沿岸部は、以前の記憶と全く違う風景が広がっていた。津波で損傷した建物やガレキの山は消え、高さ約10mほどの盛り土が、平野を埋め尽くす万里の長城のように連なっていた。津波に耐える新しい市街地を、この上に建設するためだ。
この盛り土の谷間に、赤い骨組みだけの建物が見えてきた。旧南三陸町役場の防災対策庁舎だ。この庁舎をめぐり「保存」か「解体」かで、町が真っ二つに割れている。「被害を伝えるために震災遺構として残すべきだ」という声もあれば、「震災を思い出してしまう」という声もある。津波被害のシンボルをどうすべきか、人口1万4000人の小さな町が揺れている現場を訪ねた。
■町役場は解体を決めたが、県が保存要請
東日本大震災が発生した2011年3月11日、災害対策本部が設置されたのは、この防災庁舎だった。「津波が襲来しています。高台に避難してください」。24歳の女性職員が、防災無線で懸命にアナウンスしていた。
震度7の地震にも耐える防災拠点として建てられた鉄骨3階建ての建物を、高さ15.5mの津波はやすやすと乗り越えていき、屋上に避難した町職員ら計43人が犠牲となった。アンテナによじ登るなどして生存できたのは、佐藤仁町長ら10人のみ。最後まで避難を呼びかけていた女性職員も帰らぬ人となった。
震災後、庁舎の保存か解体かをめぐって、地元の声は分かれた。町と町議会には「解体の一時延期」「保存」「早期解体」と3種類の陳情書が地元住民らから提出された。震災直後、佐藤町長は保存に前向きだったが町長選を前にした2013年9月、「復興事業への支障と財政負担が問題」として解体する方針を表明した。
しかし、宮城県が保存に向けて動き出した。県の有識者会議は「広島の原爆ドームにも劣らない強い発信力」と高く評価。これを受けて、村井嘉浩知事は2015年1月、震災から20年間(2031年3月まで)は県有化して保存し、その後に最終決定するよう町に提案。佐藤町長は3月15日現在、回答を保留している。
■防災庁舎を訪れた人々の声
赤い骨組みの防災庁舎の周囲の建物は、盛り土の間の低地にポツンと立っていた。周囲の建物は、すっかり取り壊されている。まるで津波の犠牲者を悼む巨大な墓標のようだ。庁舎前につながる狭い道路を自動車が次々とやってくる。そのほとんどは、震災ボランティアと旅行者だ。
庁舎の前で拝む人、写真を撮る人。献花台で線香や花を捧げる人。行為はさまざまだが、津波がもたらした破壊力の大きさに圧倒されているようだった。
東京都からボランティア活動のために訪れた21歳の女子大生は「地元の人にとっては、つらいと思うのは当然。ただ、解体することで見えなくするのは簡単だけど、あえてこれを残すことで震災を乗り越えていく思いをつなげられるのでは」と話した。
同じくボランティアをしている千葉県内の大学教員の女性も「残すか残さないかは難しい。ただ、3階のあの高さまで津波が来たという教訓が語り継ぐには、非常に分かりやすいシンボルなのは確かです」と、言葉を選びながら話していた。
献花台の掃除をしていた83歳の男性は、南三陸町在住だ。震災の3カ月後からほぼ毎日、献花台の周りを掃除するのを日課にしているという。「ここで亡くなった人が何人もいるんだよ。壊してしまったら、その人達の居場所がなくなるし、お参りもできなくなる。残した方がいい」と打ち明けた。
寒風が吹きすさぶ中、20人近くに話を聞いたが、コメントを拒否した人は誰もいなかった。その多くは保存を求める意見だった。
「防災庁舎解体を望む遺族会」の副代表を務める千葉みよ子さん
■「人が亡くなったところを見世物にしていいのか」痛切な遺族の思い
ただ、実際にこの防災庁舎で身内を亡くした遺族らの胸中は複雑だ。一部の遺族でつくる「防災庁舎解体を望む遺族会」は1月19日、佐藤町長に、町の責任で庁舎を早期解体するよう求めた。
遺族会の副代表、千葉みよ子さん(68)に話を聞くことができた。町職員だった当時40歳の義理の息子を防災庁舎で亡くした。自身の家も津波で流され、現在は「平成の森」というスポーツ施設のサッカー場に立ち並ぶ仮設住宅に住んでいる。3月15日、突然の訪問だったにも関わらず部屋に招き入れてくれた。
――なぜ残さない方がいいと考えていますか?
「テレビも新聞も防災庁舎だけを取り上げますよね。町民の方々は一生懸命やってるのに、南三陸町は毎日、あれだけが取り上げられています。それで復興が進んでいるんでしょうか。
2013年11月、防災庁舎の前で行われた慰霊祭で町長は「苦渋の決断だったが、解体するしかない」とはっきり言っていたんです。『これでやっと肩の荷が下りた』と遺族は涙を流して喜びました。それなのに県からの提案を拒否せず、なぜ未だに曖昧ではっきりとしない態度をとっているんでしょうか。町民と約束したことを守り、責任を果たして欲しいんです」
――町民の中には「残して欲しい」という意見の人もいますが?
「今すぐにでも解体にしてほしいっていうのが私たちの立場だけど、もちろん『残して欲しい』って人もいます。でも、それは観光で人が来るからです。防災庁舎の写真をビールのラベルにして商売した人がいて騒ぎになったこともあったくらいです。観光名所になって潤うのは一部の人達だけで、町そのものはいくら経っても自立していかない。多くの人が亡くなったところを、見世物にして商売をするのは私たち遺族にとっては許されないことです」
――震災のシンボルとして分かりやすいモニュメントになるという意見については?
「私たちは『見たくないものは、見たくない』という立場です。ただ、町のみんなからは住民投票でアンケートを採る方がいいという意見も出ています。南三陸町の人口は、震災前から4000人近く減って、現在は1万4000人まで減ってしまいました。その中で、町が二分化してしまいそうなんですよ。みんなお互いに顔を知っていますんで、あっちが解体、あっちが保存となると、腹の探り合いになってしまう。それを一番心配しているんですよ。封書で匿名にしたアンケートで、決めるのがいいんではないでしょうか。そうでないと、このままゴタゴタしてたら、いつまで経ってもみんな嫌な思いをすることになります」
■住民投票で「未来の南三陸町」の姿を
このほかにも遺族の男性に取材を申し込んだが「町議会や役場の知り合いも多いし、自分からコメントを出すのは控えたい」と断られた。「解体」か「保存」か、町を二分する問題をそう簡単には言及できない雰囲気を感じた。ある観光業の男性からは「狭い町で、みんな顔見知りだし、どこかで遺族と血が繋がってるんだ。自分の意見をはっきり言うと、知人や親戚の顔を潰しかねない」と打ち明けた。それは、防災庁舎を訪れる県外の人間が率直に意見を述べる姿と対照的だった。
私も今回、南三陸町に来るまでは「震災の被害を後世に伝えるのに、これほど分かりやすいモニュメントはない」と思っていた。しかし、実際に親族を亡くした人の痛切な思いを聞くと、町外の人間が簡単に口出せる問題ではないように感じた。
南三陸町に隣接する自治体にも、同様に津波の被害を伝える「震災遺構」がある。それらは、存廃の是非を問う住民投票を行っている。気仙沼市では陸地に残った大型漁船「第18共徳丸」の解体を望む意見が過半数になったことを受けて、2013年9月に解体した。児童・教職員84人が犠牲となった大川小学校(石巻市)では3月8日のアンケートで、保存を求める意見が多数を占めた。
これらの自治体のように、「県が決めたから」「町が決めたから」ではなく、町民自らの意志をはっきりさせて、防災庁舎の存廃を決めるべきではないだろうか。それは南三陸町をどういう町に育てていくかという、復興のビジョンを描くことにも繋がるはずだ。
今回の取材で、町内で民宿を営む女性のこんな言葉が、印象に残った。
「私の宿も津波に流されて再建したけど、震災以後はお客さんも減って経営は大変です。『震災で大変だろうから行かない』ではなくて、むしろ遊びに来てもらった方がいいし、復興につながる。町ではみんな、これからの自分の生活をどうするかという問題の方が切迫しているから、防災庁舎のことにはあまり触れたがらないんです。未来に向けて南三陸をどんな町にしていくか、そのことを考えることが大事なんじゃないかな」
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