僕は、11歳の頃から日本にいる。6歳を過ぎたある日、いつものように目を覚ましたら両親は消えていた。
同居していた祖母が、両親は「二ホン」というところにいると教えてくれた。
そして、学校で勉強を頑張ればまた会えるとも教えてくれた。
当時、僕は中国に暮らしていた。
家族は朝鮮族という少数民族で、北朝鮮や韓国に住んでいた朝鮮人の中でも、半島ではなく大陸に住むことを選んだ人たち。街中では中国語とハングルが並列して表記される。母語といえば朝鮮語だが、母国語は中国語となるために、基本的にコミュニケーションや食事、文化などが、中国と韓国・北朝鮮が混ざり合ったような場所である。
当時は、家ではまだ朝鮮語でしか話していなかった。北朝鮮語とも韓国語とも違うイントネーションだ。
中国の小学生には「三優学生」という肩書きがあった。日本語に置き換えると「文武両道」がしっくりくる。文武に秀で成績を残し、品格と風紀に優れた代表的な人物がクラスで一人選ばれて、「お手本」として表彰されるのだ。
両親が消えてから、11歳で日本に来て両親と再会し、もう一度一緒に家族として住むまで、僕はずっと「お手本」として生きたが難しいことではなかった。
周りの人の表情や空気の流れを深く観察し、相手が好きだと思うことやその場に適したことをやれば良いだけだった。
18歳になるまで日本で家族と暮らし、大学に入るタイミングで家族のもとを、今度は僕から離れ、大学の近くで一人暮らしを始めた。
僕がしっかり家族から離れたことを確認した後、両親は、「今度は上海に行く」と言って消えていった。
一人暮らしが始まった瞬間に心の底から湧きあがった安堵は、今でも時々思い出す。
■普通という贅沢
中国人として、日本で学生をやったことがあった。
顔や体の形、発する言葉、興味・好奇心が向いてる先がみな違うにも関わらず、なぜか僕は、普通の人としてその輪に溶け込まなければならなかった。
でも、そこに溶け込んでいくことが生きていくことに一番安全であると感じたので、いろんな方法で溶け込む努力を行った。
僕はアジア系で顔では判別付きにくいし、口を開けば外国人とは気が付かれないほどに日本語を話すことができる。
しかし、フリーペーパーで普通に応募しているアルバイトに応募の電話をしても、名前を言っただけで電話を切られるし、日本人の保証人が居ても賃貸で家を借りるのは一苦労だし、名札をみて笑われることも多々。
それが嫌で、美容院のような気楽に会話をかけられる場面では、「佐藤」などと名乗ってみるものの、会話が弾めば弾むほどに、心がどんどん削られて行く。
普通にはなれないのだという事実が、ゆっくりと、しかし着実に圧し掛かってくるのがわかった。
朝鮮人として、中国の上海で会社員をやったことがあった。
日系企業だが、日本人は駐在員の二人だけで、他はみな上海人だった。当時の上海には、上海人と外地人という感覚があり、上海人であるということは特別なこととして、外地人であることは少し恥ずかしいこととして扱われていた。
僕とてその扱いは同様だったが、日本での経験というものが、普通に朝鮮人たちよりも、もう少し広いコミュニティで評価され、もう少し多くの𠮟咤激励と裏に渦巻く様々な感情を理解しなければいけないこととなった。
上海にいたときは、子どもとして両親の家で一緒に暮らした。
カンタンだった。
彼らの表情や空気の流れを深く観察し、彼らが好きだと思うことやその場に適したことをやれば良いだけだった。
実家暮らしという響きとは程遠く、「居候」或いは「ペット」という表現が正しいと思った。
気が付くと、いつかどこかで覚えた「お手本」以外のなにものにもなれていなかった。
もう一度日本に、しかも今度は中国人の会社員として戻ってきたあとのことだ。
■理解に救われる
僕には、親がたくさんいる。
両親が消えた間ご飯を食べさせてくれた祖父母。
祖母はメニエールと痴ほうで苦しんだ末に亡くなった。祖母の人生のことはよく知らないが、死ぬ時ぐらいもう少し楽にさせてあげてもいいのではないかと思った。いじわるだとも。
若いときに恋人だった人の両親。
驚くほど仲良くしてくれ、無邪気な友達か或いは自分の子どものように、いまだに変わりなく接してくれる夫婦。変わらない安心感を再認識させてくれる。
体力と気力を削って僕を生んだ二人の男女。
この二人とは、最近打ち解けあい始めている。三人がお互いに歩み寄っているからだ。
僕を愛してくれた人がたくさんいた。
お手本を好いてくれた人も、お手本じゃない部分を好いてくれた人も。なにものでもない僕すら受け入れようとしてくれた人も。
ただ思いを寄せてくれた人も、優しい言葉・厳しい言葉で愛情を表現した人も。
大事な友情で繋がっていると思ってくれる人も、仕事や言動を褒めてくれる人も。
相手の表情や空気の流れを深く観察し、彼らが好きだと思うことやその場に適したことをやれば良いだけだから、この社会で生きていくということは実に簡単で、自由だと思う。
その代わりというわけでもないが、強制的、かつ、唐突に訪れる孤独を、抱えきれず逃げられなくなってしまう時がある。
■孤独を着こなすという選択
僕は思う。
なにじんにもなれず、どこの国の人でもどこの家の子でもなく、いつか帰ることのできるところもないからこそ、愛や自由を体いっぱいに受け止め、感謝をもって歩み寄ることができる。
小さな運の良さ、一輪の素敵な花との出会いに幸福を噛み締め、日々淡々と過ごすことができている。
孤独そのものを、まるで補色のように着こなせたら良い。
過ぎ去った人たち、これから出会う人たちがみな幸福を感じることができたら良い。
「なにものか」への異常な執着を抱えたままでも日々淡々と生き続けることができたら良い。
自分がなにものでもないからこそ、自分より外の世界に意思を強く向けることができるのだ。そっちの世界にいつか帰る場所が作れたら。
帰る場所ができたら、僕でももう少しはなにものかに近づけると思うのだ。
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