テロが当たり前の時代の『あたらしい正義』について

フランスのテロ事件は、今まで「その話は公的には黙殺することで現代社会を成り立たせていた」問題をすべて白日の下に晒しつつあるように思います。

フランスのテロ事件は、今まで「その話は公的には黙殺することで現代社会を成り立たせていた」問題をすべて白日の下に晒しつつあるように思います。

ベイルートの死者は無視なのに、パリで死者が出たら全世界が大騒ぎするってどうなんだ?という話は、事件以前だってずっと「リアルに存在する大問題」でしたが、事件前にこんな話を堂々とフェイスブックで言い出したら「はいはい中二病」扱いで黙殺されていたようなことです。

それが今や、全世界的にホットな話題になり、"キャッチーでファッショナブルな範囲で"堂々と扱える内容になった。(余談ですが私は少年時代"にザ・イエローモンキー"というバンドが好きで、こういう問題を扱った彼らの有名な歌詞をネットで酷評されまくっていたのを見ていたので感慨深いものがあります)

また、「テロをする人間にはテロをする人間の正義(あるいは少なくとも"切実な事情")がある」という話と、「テロリストをちょっとでも擁護することはそれ自体許されないことだ。たとえどんな事情があってもだ!」という立場には、どちらにもかなりの真実性が含まれているように思います。

正義が一元的なものではなくなり、いろんな正義があり、それぞれが必死にその正当性を主張している。その「主張」は、言葉によるものに収まらなくなり、デモならいいけどテロにすらなるようになっている。

こんな時代に、「正義」という言葉を私達はどう考えたらいいのでしょうか?

「正義なんてないんだ。単なる個々の利益同志のパワーゲームがあるだけなんだ!」という、勇ましいニヒリズムに入っていくことが「正解」なのでしょうか?

それとも、さらに細分化されていく「それぞれの正義」を、「もっと熱狂的に主張する小集団たち」に人類が分断されていく世界を、そのまま是認していくしかないのでしょうか?

・・・と、言う本をディスカバー21という出版社で今作ってる最中なんですが、そのメインメッセージとして、「メタ正義」みたいな発想が、今後重要になってくるんじゃないかと考えています。

「メタ」というのは、厳密に考えると難しいですが、日常的な用法の援用で言うと「一段抽象度を上げて物事を考える」・「俯瞰で見て全体像を捉える」というような時に使う言葉です。

「細分化された純粋な正義」がそれぞれに必死の主張をし、それが時に暴力にまでエスカレートしてしまう時代には、「個別の正義自体についてその是非について論争する正義論」ではなくて、「それぞれの個別に純粋な正義を、どう整合性を持って社会に取り込んでいくべきなのか」という、「それぞれの正義の扱い方」について真剣に考える必要が出てきている。

その「それぞれの個別的正義の扱い方の方法論」「メタ正義論」と呼んでも誤用ではないでしょう。

「メタ正義論」的な観点からこの現代の不幸を考えてみると、1つの希望めいたものも見えてくるように思います。

と、言うのは、このテロによって

「何はともあれ、非欧米諸国の現地現物の不幸が、欧米諸国側が提示する"揺るぎない正義の主張"への異議申し立ての手段を手に入れた」

という理解は、道義的問題とかいろんな難しさはありますが、「現実的にはそうなって」いる側面もあるからです。

このテロがなければ、「ベイルートで死んだのとパリで死んだのと価値が違うってどういうことなんだ」などという話題が人類規模で盛り上がるなんてことすらなかったわけですからね。

今後、「戦火」は止めようがないところもあるでしょう。とにかく形だけでも決着を付けなくちゃ収まらないという事情は、どれだけインテリが著書やブログで嘆いてみても世界の現実としてあるからです。

私たちは、それに無闇に反対して「自分だけ良い人ぶる」べきではない・・・と私個人は考えています。

しかし、それを認めた上で、じゃあ「良心」に何ができるのか・・・を問うならば、「ああ、人類はなぜかくも野蛮なのだろう?もっと仲良くできればいいのに!」と自分だけ聖人君子的に嘆いてみせる態度(いやいやあんただって"人類"だぜ!)よりも、もっと重要な「貢献」の道も開けるはずです。

それはつまり、「メタ正義」について考えることから始まります。

「メタ正義」論に、世界のインテリの注意を集中させていくことで、

・「非欧米諸国の現地現物からの異議申し立て」の内容は理解し、取り入れて、現代の欧米的システムの欠陥を補完する試みに昇華させていく

 だけでなく、その一方で

・「とりあえず人類みんなの(非欧米諸国も含めて)毎日の生活を支えている現状のシステムを、ネコソギに否定してかかるようなテロはやはり許されないことだという了解は崩さない」

という二点を片方だけでなくどっちもやりきる両面作戦が可能になるでしょう。

このプロセスの中で、「欧米的価値観の理想を諦めずに、欧米的価値観が絶対無誤謬のドグマ化して非欧米社会の現地現物の人間を抑圧しまくっている現実は回避しようとすること」に集中できるようになります。

というか、今や人類はこの「メタ正義」を考えないかぎり、「あらゆる1階建ての正義」そのものにニヒリスティックになっていく可能性があります。

「欧米的価値観がさらに無誤謬の前提で押し出しすぎると、世界の逆側に"欧米的価値観を丸ごと捨てようとする人々"」が生まれてしまうことになる。

大事なのは、このテロによって開かれた「逆側からのフィードバック回路」の情報を受け取りながら「理想」の実現を目指すことです。

私が子供の頃、私の母親は機械オンチが極まって、ビデオテープをデッキに逆向きに入れてぶっ壊したことがあります。

いやいや、入れ始めたらガツッってぶつかって、入らんってわかるやろ!・・・と子供ごころに思いましたし、父親は呆れてモノも言えないという様子でした。

逆向きにテープを入れようとすれば、あちこちにぶつかってる「フィードバック情報」が帰ってきます。それにちゃんと感性が開かれていれば、「あ、逆やったわ」となって向きを変えてスムーズに入れられます。

現代の欧米社会の理想は、この「無理矢理逆向きにテープを突っ込んだウチの母親」のように、「現地現物からのフィードバック回路」が遮断されたまま独善的な理想だけを押し付けている部分があるのではないでしょうか。

そういう風に考え始めた時に、我々「理想を奉じる側」の人間がどうしても考えるべき点があります。

数日前に、この問題について軽い問題提起のブログをあげました。

ネットに文章上げるのが久々だったこともあって、短くまとめすぎて論旨が混乱してしまった感じもなくはないですが、その中に引用した、現在製作中の本からの挿絵↓には結構な反響がありました。

詳しくは前回の記事を読んで欲しいわけですが、「アラブの春」によって、(英語でよく「Big bad XX」といいますが)そういう「巨悪」っぽい権力者みたいなカンジのヤツが倒される姿に歓声を送っていた世界中の人は(私も勿論含みます)、そうやって地場の責任者の権威をすべてメタクソに叩き潰した結果現地でちゃんと「まとまった行動」のできる集団が宗教過激派ぐらいしかいなくなって、現在の混乱に繋がったことについて「責任」を感じたりしているでしょうか?

私も含めて欧米的に教育をされた知識人というのは、物事を捉える時に「演繹的」すぎて、つまり個々のそこに生きている人のリアリティよりも、その事物の「テーマ性」から判断しすぎるきらいがあるわけです。

結果として、「デモがあって"権力者っぽいヤツ"が引きずり降ろされてればそれは絶対善」みたいなレベルの気分で、かつ「その場(この場合は中東)」のことなんて10分後には全然忘れてるような世界中の人間が火に油を注ぐ結果として、ちゃんとまとまった責任を「その場」に命がけで感じてる人間を果てしなく引きずり下ろしたあげく、「どんなことも結局他人事な人ばっかり」で世界中を埋め尽くしてしまう傾向が、「欧米的知性の癖」として存在します。

で、ここで注意したいことは、本来多くの非欧米諸国の人間の大多数は、「欧米的価値観」を拒否したいと思っているわけではありません。イスラム国の台頭には、現地の普通の住民の多くは「迷惑」してることが多いでしょう。

ただ、この「欧米的知性の癖が持っている欠陥」に無批判すぎる運用が社会に蔓延すると、「その現実的問題をバランスさせるために」、かなり先鋭化したアンチ欧米的理想ムーブメントが巻き起こり、彼らは本来必要なレベル以上に「やりすぎる」ことになってしまいます。

これは、中東やアフリカの正常不安定な国だけの問題ではありません。

東アジアでも、そして欧米そのものの中でも、ボディブローのように効いて来ている問題なのです。

日本における例を出します。

私の普段の仕事は経営コンサルタントなんですが、クライアントに地方の伝統的な優良企業の跡継ぎ経営者がいます。

彼と仕事をしていると、「奇策を次々と打つことではなくて、その"場"に関わるいろんな人やモノにちゃんと目配りを続けて、"良い状態"を保ち続けること」という王道的な経営のあり方について考えさせられます。

それを私は「神主型経営」と呼んでいるんですが、前代から受け継いだ神社の森を毎日メンテナンスして次の世代に繋ぐような、そういう「責任」をちゃんと取る人生を、本人も早い時期から覚悟し、周囲もそれを盛り立てようとすることによって維持される「場の良識」というものがやはりあるわけです。

そういう「場の良識」が生きていれば、例えば報酬の分配においても「縁の下の力持ち」的な存在までちゃんと行き渡らせることができるし、消費者の要求に媚びすぎてムチャをして後から問題になるようなことはしないようにしようという倫理観も維持できる。

さらに言えば、直感に反するようですが、そういう「神主さんの安定」があれば、「時代の流行り」的なものを取り入れる力もむしろ高まるのです。これは、免疫力が安定してないとちょっとした異物にハクション!と過剰反応してしまうメカニズムを考えるとわかりやすいと思います。

勿論、次々と生起して世界中を「まだやってないの?遅れてるゥ!」と席巻する「欧米的理想」の要求水準からすると、どんな「神主」だって完璧ではないですから、やろうと思えば簡単に引きずり下ろしてしまうこともできます。

でもその「欧米的理想の最先端」的なナイフであらゆる神主的存在を刺し殺そうとしている人たちは、1年後も「その森」のことを覚えているでしょうか?

おそらく、1年後には1年後の流行りのテーマに乗っかって、また別の「森」の神主を「倒すべき悪」と認識して引きずり下ろしてやろうと頑張っているでしょう。

今回のテロによって「開かれたフィードバック回路」から流れてくる情報について、我々は「その視点」から、20世紀的なドグマティックな正義の展開を考えなおさねばならない時期に来ているわけです。

そして、現地現物のリアルな人間は「欧米的理想」を全拒否にしたいわけではなく、その「運用」において「現実とのフィードバック回路が途絶した無責任さが横行する現象」への「切実な対応」としてのアンチ欧米ムーブメントがあり、それが極限まで高じるとテロになっているのだという理解が必要です。

最後にさらに余談ですが・・・ここまでの文章に「そうだ!」と思ったあなたはここ以降書いてあることで「印象」を変えないでいて欲しいと思いつつ書くわけですが。

私は以上述べたような世界観によって、「欧米的理屈の外側にあるリアリティ」からのフィードバック情報を、「欧米的理想の中に繰り込む」仕組みを考えない限り、「欧米的理想そのものが廃棄される時代」が来てしまう危機感を持って活動してきました。

現時点での成果物としては、「日本がアメリカに勝つ方法」とか「アメリカの時代の終焉に生まれ変わる日本」などを参照してください。

その立場から言うのですが、私は、極論すると「アベ政権の独善性」よりも「シールズの独善性」の方が嫌いです。嫌いといって悪ければ、やはり現代社会における喫緊の課題として「克服されるべき問題」を抱えていると感じています。

確かに安倍政権の支持者の中には「人権とかいう発想が日本をダメにした」とか堂々と公言する人間がいて、ほんとちょっとどうかと思います。私もね。

しかし、そこで彼らを「人間のクズ」扱いしてあなたの世界から全拒否にしてしまう前に、「彼らがなぜそんなことを言うのか」についての想像力こそが、「メタ正義」の時代には重要になってくるはずです。

そうすると、私には、普段私の仕事で出会う「神主さん」たちが日本の現場でちゃんと根を張っている責任を、「欧米的価値観」がちゃんとバックアップできていないことの現れだと見えてきます。

そういう意味において私には、「欧米的価値観がその"神主さんたち"をバックアップできない状況下では、アベ政権は決して否定されるべきではない」という信念がある。そのプロセスにおいてあまりポリティカリー・コレクトでない要素が含まれていても、それは「ポリティカリー・コレクトさという概念が隠し持っている欧米中心的な抑圧の反映」にすぎないと感じるからです。

勿論、安倍政権がやりすぎないためのバランス要素としてシールズが必要だったという事情はわかります。しかし、 彼らのやり過ぎを是正するためには、彼らを「非人間的な巨悪扱い」するのではなくて、「彼らがどうしても守りたいと考えているもの」を、「欧米的理想の延長」の中に入れ込める算段を考えることに集中するべきなのです。

ずっと私はこの話を言い続けているわけですが、ぜひ「対岸のあなた」にもこの話について耳を傾けていただけたらと思っています。安倍政権の支持率はやはり回復傾向らしいですし、「ワンイシューで相手を巨悪扱いする」論法を超えることなしに、「次の政権交代」は難しい事情があるでしょうしね。

それが可能な時代が、このテロによって幕開けとなったならば、突然の悲劇による行き場のない悲しみにも、「意義」が生まれて希望に変わることでしょう。

へっ、この人類サマは、転んでもタダでは起きないぜ!という結果になることを願っています。

倉本圭造

経済思想家・経営コンサルタント

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