日本から老害を一掃して残業を減らす唯一の方法

「"老害さん"たちと直接コミュニケーションする必要がない強制力で乗り切ろうとする」ことは、「老害さん」への対決ではなくて「逃げ」だった

なんか挑戦的なタイトルになってしまいましたが、ただ最近「老害」っているんだよなァ〜と物凄く実感することがあって、その詳細をそのままは言えませんがそのやるせない思いをより広くて皆様と共有できるテーマとして昇華して書いてみたいと思っているんですが。

あなたは、「老害」って言葉、キライですか?好きですか?

私は最近まであまり好きではなかったです。老害扱いされてる人にも、うまく使ってあげればそれなりの価値やら色々あるんだぜ・・・と言いたい気持ちが結構あって。

ただ、そんなこと言ってると「老害さん本人」が「自分の老害性」を一切意識せずにノウノウと暮らし続ける反面、困ったことにその「老害さん」は権力持ってたりするのでその集団全体の適切な運営がどんどん滞り、直接的には「ヤル気のある若手」さんが、そして結果的には「その組織の人全員」が非常に困った状況にみんなで追い込まれていくことになってしまう。

物凄く大枠での言い方をすると、過去20年にわたる日本の苦境はこの「老害さんをどう扱うか」について、思い切りの良い諸外国のように何のテライもマヨイもなくボコボコに権力を奪って放逐していくような思い切ったマネジメントができなかったから・・・と言ってしまっても悪くないかもしれません。

ただね。

現状の日本は、老害さんたちを腫れ物に触るように扱って捨てずにいたので、社会全体が「トランプvs反トランプ」みたいにどこまで行っても平行線な対立に落ち込んだり、スラム街がどこまでも悲惨なスラムになっていくようなことは避けられたり・・・というプラス面もあったんだろうとは思います。アメリカに比べたらまだ貧富の格差もまあマシなレベルに留まっている。

つまり、なぜ日本が「老害さん」たちを諸外国のようにはボコボコに斬ってしまえないかというと、「その老害さんが代表しているものの中に自分たちの良さの根幹も混ざっている」からだと言えるでしょう。

「混ざっている」っていうのがポイントね。

純度は物凄く低いかもしれない。5%もないかもしれない。95%が「老害成分」で、5%が「日本の良さ」・・というような比率のオッサンがメチャクチャ権力を持っていてあらゆる変化を拒絶しているのが現在の日本の現況かもしれない。

しかし、「5%」の部分、これ捨てちゃっていいのかなあ・・・という躊躇が広範囲の日本人の中にあるのでなかなか捨てられない。

以下の図のようなものだと考えてみたいわけですね。

ゴミの山・・・の中にダイヤが埋まっているので、選り分ける作業がちゃんとできるまでは全部捨ててしまうわけにもいかない。部屋中がゴミだらけになっていても、そのほんの一部でも捨てるわけにいかない。なぜなら「そのほんの一部」の中にこそダイヤが埋まっているかもしれない(という恐怖心が集合無意識的にある)からです。

過去20年、「改革を!」という勇ましい声は日本中に四六時中鳴り響いていましたが、結局我々の集合無意識的な本能レベルでこの図のような拮抗状態にあるので、ちょっと進んではすぐ戻る・・・を繰り返しながら緩やかな衰退の道を歩んできて、「スラム街が諸外国ほど無茶苦茶にはなってない」とはいえその「下層の平均レベル」自体がかなりヤバイ領域にまで落ち込んできてしまっている。

じゃあどうしたらいいのか?というのは、上図の下半分に描いたように持っていくしかないだろう・・・というふうに私は思っています。

これは「会社」単位で何かを変えなくちゃいけない時もそうだし、「社会」「国」レベルで何かを変える時もそうなんで、あなたの置かれた社会的立場とあなた個人の問題意識の置き場なりに、それぞれの「持ち場」において考えてほしいことなんですが。

端的に言うと、私が言いたいことは

「現場の良心さん」と「老害さん」は違う

ということです。そしてあらゆる「改革」は「前者」と結びつくことができれば「後者」を無視することができるようになる。逆に言うと「前者」と結びつかない限り「後者」は永久に排除されずにあらゆる「改革」を拒み続けるということです。

つまり「現場の良心さん」と結びつくことによってのみ、日本社会においては「老害さん」を排除して時代にあった最適な行動を取れるようになる。

(一度流れが動き出せば、今度は場合によっては個人レベルで"老害さんだった人が現場の良心さんに変化したり"すらするかも・・・結構そういう人も実際に見かけます。再雇用期間に入っててワカモノたちから典型的老害だ・・・と思われていた人の意外な洞察力と行動力に気付かされるというような!)

もう少し具体的に考えてみましょう。

ここ数回のブログで以下の図について述べようとしながら本題に入れずにいたんですが。(力作なので細かいセリフまで読んでください。読みづらい場合はクリックで拡大します)

例えば「働き方改革」をしよう!!というトップダウンの動きが起きてきたとして、「組織に共有文脈」がないと、図の左列のようになってしまいます。というか既にそうなってる組織が多いように思います。

こういうことが続くと、本当にもう日本人であること全体が嫌になってくる人もいるでしょう。どうせ建前だけの何かフワフワした意見が横行して、シワヨセは俺たちのところに来るんだろう・・・という恨みを溜め込む人がいて当然です。

それを、我々はなんとか図の右列のような組織に変えていかなくてはならない。そうですよね?

空虚な一般論の罵り合いが吹き荒れる社会から、具体的な目の前の他人と交渉し工夫をし自分たちにとって良い社会に変えていくための協力関係を作ることへと、我々の感情エネルギーをしっかりと振り向けていくことこそが今必要なことなわけです。

で、実際に、右側の例は私が仕事でやってた話をもとにしてるんですが、簡単なように書いていますがこれがなかなか難しいです。実際お前がサラリーマン的に組織の中にいた時はできなかったじゃん!と言われたら全くその通りでゴザイマスと言うしかない。

ただ、コンサル的に外部から関わったり、さらには「その会社の経営者」側からの後押しもあったりするとなお良いわけですが・・・すると、コトッと動き出したりすることはある。

問題は「動き出した後」です。

「ああ、なるほど、これが噂に聞く老害さんかあ〜」

という人に出会うんですよね!!いや老害って言っても年齢的には凄い若かったりする時もあるんだけど(笑)

でもね、そこで怯んだら駄目です。そこで怯まずにいると、「言っていることが本当に善なるもの」であるならば、「組織の良心さん」が助けてくれるからです。

「組織の良心さん」はそんなにエライ人ではないこともある。つまり役職的にはそこのボスではないかもしれないが、ただ「マトモな話をしたらマトモに通る人」っていうのがどこにでもいて、「その話、凄い良いと思うなあ!」的な鶴の一声を大事なタイミングで発してくれたりする・・・そういう人はさすがの悪平等主義の日本の会社でもやっぱり出世してっちゃうので、いつまでもその部署にいて「あの人に頼めば大丈夫」と固定的にわかってたりする状況にはなかなかならないわけですが。

薄くでも、この「善意の輪」が繋がっていくならば、私達の身の回りの現状を一歩ずつ変えていくことができる。ネットに「日本死ね!」とアップするよりも大事な「次の一歩」が踏み出せる。

過去20年の私たちの社会運営のモードの良くないところは、むしろこの「老害さん」たちとの対決を避けていたところにあるんではないかと最近は思っています。

ガチンコでぶつかることを避けて、「どうせあいつらは全員老害だろう」ということで、そもそもコミュニケーションを取る必要がない強制力で乗り切ろうとして、一瞬は乗り越えられたように見えてもいずれ強烈なバックラッシュ(揺り戻し)がやってきて元の木阿弥になってしまう。

つまり、「"老害さん"たちと直接コミュニケーションする必要がない強制力で乗り切ろうとする」ことは、「老害さん」への対決ではなくて「逃げ」だったんだろうと。

ここでの深刻な問題は、

「老害さんとの対決」を根本的には避けてしまって、強制的な権力関係で押し切ってしまおうとすると、「現場の良心さん」との繋がりも切れてしまう

ってことなんですよね。

日本におけるあらゆる意味での「改革派」の人・・・会社において「経営側」に立っている人や、社会における広義の意味での「左派的改革」を目指している人・・・が立ち往生して日本的惰性の中にドロドロに飲み込まれてしまっていった過去20年の過ちがここにあるように私は感じています。

なんかね、老害さんを目の前にした時に、「お前は自分の既得権益を守るためにそんなことを言ってるんだろう」という態度に出るのは良くないです。それはその「老害さん」との対決を避けていることになる。

なぜなら老害さんには老害さんの正義があり、老害さんの主観的にはその組織のための明確な正義心を持ってその反対をしていたりするからです。

そこで「お前は自分のエゴでやってるんだろう」という態度に出ると余計にどんどん相手がそうなっていってしまう。

むしろ「お前のそのチッポケな正義なんか飲み込んで包含してしまうほどの圧倒的な正義で完膚なきまでに押し切ってやる!」という強い気持ち・強い愛が大事ね。

そこで、「本来みんなのためになる形はこっちだろう!?」という青臭い理想主義的態度を決して消さずにいること。そこで皮肉ぶった態度で誤魔化してしまわないこと。

でもその「理想」が本当に「目の前の現実」とちゃんと対応できているリアリティがあるかは真剣に考えること・・・・

それらを備えた「改革への意志」が共有できれば、老害さんにまぎれてしまっている「現場の良心さん」が「こっちの味方」になってくれる。そうすれば「老害さん」を徹底して排除して「本当にみんなのためになる改革」へと踏み出すことができる。

端的に言うと、強制的な権力関係によるトップダウンだけで押し切ってしまうと、

老害さんと現場の良心さんが結託して、改革の動きが現場的な価値観から見て"すべてまるごと敵"扱いされてしまう

ことになります。しかしそこを逃げずにちゃんと立ち向かえば、

「改革」と「現場の良心さん」が手を結ぶことで、「老害さん」だけを排除することが可能になる。

我々はそれを目指していかんといかんな!!と最近思うことが色々あったので書いてみました。

(まあ、人によりますが)日本における「経営側」にいる人・・・特に単なるサラリーマン経営者というだけではない、金融関係やファンドやコンサル的な立場や学者さんや官僚や・・・といった色んな立場を含む人たちは、諸外国に比べてもこういう意味での「全体最適」を目指そうという意志は非常にある方だと思います。(逆にそれゆえに自縄自縛になってしまった過去20年間パフォーマンスを出しづらかったとも言える)

端的に自分だけ天文学的数字を儲けられればいいというような人は非常に少ない。

あらゆる意味で「資本の論理」側に立つ人間を全て「裏切り者」「ハゲタカ」と感じる人も読者の中にはいるかもしれませんが、しかし過去20年の日本企業の無策の蓄積ゆえに産業ごと潰れてしまって多くの失業者を産んだのは「おれたちの代表」だったはずの「経営陣」だったのに対して、適切なタイミングで事業にとって最適な手当をした結果、看板は変わっても国内に残った工場とか・・・そういうのは沢山あることに留意するべきだと思います。

もう取り返しがつかないほど状況が悪化して崩壊してしまってから、泣きながら頭を下げて従業員は悪くありませんッ!!的なこと言うタイプ・・・・ではない人の中にこそ、「本当になんとかしなくちゃ」という真剣さが眠っていたりもするということです。

ただ、広範囲の「立場の違う人」との連携可能性を生み出す文化が壊滅的なので、各人が自分自身の食い扶持を維持するためにあちこちで部分最適的に無駄なタフぶりを発揮して仕事をし続けるしかなく、それがさらに相互理解を難しくしていく不幸を産んでいるんですよね。

結果として「資本側」にしろ「現場側」にしろそれぞれの立場から自分の身の回りだけを見て発せられる「結局何も変わらない掛け声のようなもの」が社会に溢れるので無力感と閉塞感で押しつぶされそうになってしまう。

例えば東芝をどうするか?について、「資本の論理」側に立つ人間と「現場の立場」に立つ人間の対立が続いていくうちに、無策に無策を重ねた惰性の結果の「こんなん出ましたけどぉ?」的な「一番誰のためにもならないグダグダの処理」になってしまったりする。

こういう時に、「資本の論理」側が「現場」側の反応を徹底的に無視してザックザク切りまくれるアメリカのような国は確かにそれなりの利点はありますが、そういう回路を使えば使うほど「現場側」の無力感は高まっていくので、最終的に社会がどうしようもない分断状態になってしまったりする弊害もあるわけですよね。

「どちらからも切りきれずにグダグダになる」のと、「片側からだけ切りきってしまって後々社会が抜き差しならない分断に陥る」のと、どっちがいいのか?と考えるとこりゃまあどっちが良いとも言いづらいです。

でもね、今の日本は過去20年の苦労の結果、この問題への「適切な扱い方」に対してちょっとずつちょっとずつ学んできている実感が私にはあります。

「抵抗勢力をぶっ壊せぇ!!」とか叫んでた時代とは違う、「確かな改革のモード」を自前で立ち上げようという動きは、地味だけどちょっとずつ形成されてきている。

あと一歩です。あと一歩、官僚だったりメディアだったり学者だったりコンサルだったりファンドだったり経営者だったり、そして現場側に立つ色んな人たちが持つ価値観の集成だったり・・・が、うまく噛み合えば、「資本の論理」と「現場の良心さん」がガチッと噛み合って、単なるトップダウンでは生み出せない可能性を、社会の中に安定的に生み出せる構造が生まれるはずです。

グローバリズムのマイナス面に対する手当は世界的にもっと真剣に取り組まれるべきですが、しかしその処方箋があらゆる先進国が自分たちの短期的利益のためだけにブロック化していく・・・というのでは、そのシワヨセが「勢いはあって野心的だけど発展途上ゆえに余裕がない国」に一気に向かうことで暴発的軍事行動を誘発してしまった、20世紀前半の大戦争の原因をなぞっていく超キケンルートになってしまいます。

また再分配をするにしても、「もう成長しなくていいじゃん」では全然原資が足りないのは最近色んな人が指摘するとおりですし、どれだけ無理やり規制しようともだれのせいでもなく千変万化する「需要側」の動きに対しては適切にちゃんと構えを変えていける力を保持することが、「現場の人」が以下の絵みたいな状況に陥らないためにこそ大事なことなんですよね。

諦めずに、焦らずに、単なる相手全否定的な憎悪の暴走に飲み込まれずに(しかしある意味では単なる論争レベルを超えてもう本当に真実的な意味で徹底して老害さんを否定しきってやるというような意志を持って)、理想を失わずにいきましょう。「論争のための論争」からは慎重に距離をおいてね。

また、これって「会社」とか「経営」単位の話だとわかりやすいけど、「社会」「国」レベルで見ると、現在世界的に「あらゆるリベラル的なもの」が陥っている難しさの根本に共通するものがあるように思います。

もしあなたがそういう「リベラル」の人だとして、あなたはあなたが関わっている問題意識の社会との接点において、「現場の良心さん」と「老害さん」を一緒くたに「敵」にしてしまっていないか?を考えてみると良いかもしれません。

自分の「敵」は品性下劣な下等人間で、俺たち輝ける正義の志士によって既得権益が脅かされるのを嫌って抑圧してくる極悪人なんだ・・・・という態度でいると、その「一緒くたな態度」によって、「排除すべき老害さん」だけじゃなく「現場の良心さん」までがあなたの「敵」になってしまいます。

そこで「相手の事情」を知ること。理解すること。しかし理想は諦めないこと。その態度が、「老害さんと現場の良心さん」を選り分けるプロセスへあなたを導くでしょう。

そのプロセスの中から、過去数百年の欧米型のムーブメントの成果には敬意を払いつつ、「その限界」を東洋的に補完するような新しいムーブメントも、今後日本発で生み出していけるはずだと私は考えています。

それではまた、次の記事でお会いしましょう。ブログ更新は不定期なのでツイッターをフォローいただくか、ブログのトップページを時々チェックしていただければと思います。

また、この記事で書いた問題をより深掘りして、日本社会の「課長さんたち」にあたる人々に行動パターンを変えることから経済全体の連動パターンを変え、トランプvs反トランプ的な行き場の無い分断を現地現物に解決する方法について模索した追加文章があります。アメリカ的な経営のあり方が「どこ」で間違いがちなのか。そこで日本が貢献できることがあるとしたら何なのか?「個」と「全体」、「理論」と「現実」との間の新しい関係を取り結ぶことで見えてくる「新しい静かな革命」について、あるいは「文脈や空気を読む力」だけが過剰に「知性」扱いされるここ20年の過ちについてなど、力作なのでぜひお読みください。以下のリンクから↓

上記の追加文章をまとめた図も先にここにも掲げておきます。(クリックで拡大します)

倉本圭造

経済思想家・経営コンサルタント

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