朝日新聞社の言論サイトである「WEBRONZA」は今を読み解き、明日を考えるための知的材料を提供する「多様な言論の広場(プラットフォーム)」です。「民主主義をつくる」というテーマのもと、デモクラシーをめぐる対談やインタビューなどの様々な原稿とともに、「女性の『自分らしさ』と『生きやすさ』を考える」イベントも展開していきます。
「民主主義をつくる」は、
①巻頭論文
の三つで構成しています。
「民主主義になりきる以外に道はない」
「今の世の中には、民主主義ということばがはんらんしている。民主主義ということばならば、だれもが知っている。しかし、民主主義のほんとうの意味を知っている人がどれだけあるだろうか」
こんな言葉が巻頭に置かれた二巻本が刊行されたのは、1948(昭和23)年10月から49(同24)年にかけてのことでした。タイトルは「民主主義 文部省著作教科書」。当時の文部省が中学、高校生向けに作った教科書です(復刻した径書房版から引用)。
戦後まもなく文部省が著作、発行した教科書「民主主義」上、下巻
二巻本は「文部省著作」とされ、当時、だれが執筆したのかは明らかにされませんでしたが、アメリカなどの資料を調べた教育学者、片山宗二氏の研究により次のことが判明したと1995年8月21日の朝日新聞記事は伝えています。
1946年、文部省は、連合国軍総司令部(GHQ)からの要請を受け、憲法学者の宮沢俊義氏らを集めて委員会を構成。教科書の本文は、経済学者で後の東大総長・大河内一男氏らが執筆し、東大教授で法哲学者の尾高朝雄氏が全体をまとめた――。
「民主主義は、きわめて幅の広い、奥行きの深いものであり、人生のあらゆる方面で実現されて行かなければならないものである。民主主義は、家庭の中にもあるし、村や町にもある。(中略)複雑で多方面な民主主義の世界をあまねく見わたすためには、よい地図がいるし、親切な案内書がいる。そこで、だれもが信頼できるような地図となり、案内書となることを目的として、この本は生まれた」
「これからの日本にとっては、民主主義になりきる以外に、国として立っていく道はない。これからの日本人としては、民主主義をわがものとする以外に、人間として生きて行く道はない」
いま読むとあまりにもストレートな表現でいささか気恥ずかしさすら覚えるのですが、とはいえ後段の下りからは教科書をつくった当時の人たちの民主主義に対するほとばしるような熱気が伝わってきます。そこには、「国民のすべてが独裁政治によってもたらされた塗炭の苦しみを骨身にしみて味わった」状態からようやく解き放たれたという開放感と、そして「なんじ臣民」に代わって今度こそは「われら国民」が国の主権者になって新しい社会をつくるのだという強い決意があったのでしょう。そんな〝熱い時代〟がこの国にもあったのです。
戦後70年によみがえった問い
そして、多くの歳月が流れました。大勢の人々が国会を取り巻いた1960年の安保闘争、続く70年の安保闘争などを経て、学生運動や社会運動は長い低迷期と衰退期に入り、「デモ」という言葉は多くの人々にとって意識の後景に退いてしまったかにみえました。
そんな眠りを覚ますかのように、2011年3月11日、東日本大震災と東京電力福島第一原発事故が大地と人々を揺さぶって未曽有の被害をもたらし、世界を震撼させました。
津波に襲われ、あちこちで火災が発生する岩手県山田町の市街地=2011年3月12日
山側から見た東京電力福島第一原発の4号機。左奥は3号機=2013年3月
「方舟の善民はみな呑まれけり」/「なぜ生きるこれだけ神に叱られて」/「喪へばうしなふほどに降る雪よ」/「三・一一民は国家に見捨てらる」(岩手県釜石市在住の照井翠さんの句集「龍宮」、角川書店から)
「ろうそくがともされて/いまがむかしのよるにもどった/そよかぜはたちどまり/あおぞらはねむりこんでいる」(谷川俊太郎「ろうそくがともされた」から一部抜粋、「管啓次郎・野崎歓編「ろうそくの炎がささやく言葉」、勁草書房所収)
あのとき感じた衝撃と悲しみ、底なしの不安と怒り、そして言葉がすべてのみこまれてしまったかのようなもどかしい「失語感覚」......。真夜中でも煌々(こうこう)と明かりがついているのがあたりまえだった東京の繁華街や街中も、あれからしばらくの間はほんやりと薄暗く、「今度こそ何かが変わるかもしれない」という淡い期待感のようなものを抱いたのは私だけだったでしょうか?
けれどもそうしたナイーブな思いはほどなく始まった「バックラッシュ(反動)」によって打ち砕かれていきました。原発をめぐる政・官・財の「強固なトライアングル(三角形)」、さらにはこれに学者とメディアが加わった「原子力ムラのペンタゴン(五角形)」は微塵も揺らがなかった上に、原発事故を収束させる見通しも、高濃度の汚染水をコントロールするメドも立たないなか、経済界の要請も受けながら原発の再稼働に向けた動きが始まっていったからです。
3.11ですら日本を変えることはできなかったのかーー。そんな思いにとらわれてから4年後、敗戦から70年が過ぎた2015年に、一つの根源的な問いが突如としてこの国に浮上しました。
「民主主義とは何か?」
集団的自衛権の行使などを可能にする安全保障関連法案が2015年9月19日未明、参院本会議で自民、公明両党などの賛成多数で可決、成立したことが直接のきっかけでした。
国会前を始め、各地では連日のように激しい抗議のデモが繰り広げられました。労働組合など、団体による組織的動員がメーンだったかつての運動形態とは変わり、一人ひとりの個人が自分の意思で参加するスタイルが目立ち、デモの風景も一変しました。
「民主主義って何だ?」「民主主義ってこれだ!」。若者はトラメガ(拡声機)を使ってこの言葉を叫びました。かつてのパターン化されたシュプレヒコールに代わり、ヒップホップを参考にした掛け合いの「コール・アンド・レスポンス」が路上に響いたのは記憶に新しいところです。
学生団体の「SEALDs」(自由と民主主義のための学生緊急行動)を始め、なぜあれだけ多くの若者がデモに参加したのか。この国の不透明で危うい未来を予感した若者たちは、今後「我が身に現実に降りかかる可能性のある危機」を体で感じて声を上げたのではなかったでしょうか。
わき起こった「参加民主主義」の流れを、「代議制民主主義」の現場に環流させていこうという動きでもあった「2015年安保」。デモには参加せずとも、心の中で「民主主義とは何か」という問いと真摯(しんし)に向き合った人々の数は決して少なくなかっただろうと推察します。
国会前で声を上げるSEALDsの奥田愛基さん=2015年9月18日
そして「覚醒」がもたらされた
安保法制をめぐる論議は、民主主義のあり方を始め、いくつかの重要な「覚醒」を人々に迫る引き金となりました。その一つが「立憲主義に対する目覚め」ではなかったか。
過去の歴史を振り返ってみれば、選挙で民主的に選出された政権がいつしか独裁政治を始め、ファシズムがわき起こった末に国を滅ぼしてしまった例は多くあります。このため、国民が権力を縛るための「ルール」(憲法)を定めておき、民主主義の暴走にストップをかける、それが立憲主義という考え方です。学生時代に教科書で習ったとはいえ、身近なものとして身体化され、記憶されてはこなかったこの言葉の持つ重さが、安保法制論議を通じて人々の意識に新鮮な「気づき」を与え、広がっていった――。
安保法制に対する考え方は、賛成、反対、人によって様々でしょう。しかし今改めて問われるべきは、多くの憲法学者から「憲法違反」が指摘されて法案の正当性に疑問符がつけられる中、時間をかけてじっくり議論すべき論点が複数のフェーズにまたがっていたにもかかわらず、11本もの法案が一括で審議された末に「強行採決」されたという事実です。
その結果、保守やリベラルといった考え方や立場の違いとは別に、あるいはそれらの差異を超えて、成立した安保法制が今後具体的にどのように運用され、その結果、何がもたらされるのかをめぐって、いくつもの疑問や不安が宙づりにされたまま、今に至るも解消されていないという事態を生んだのです。
熱かったあの夏の意味
「すべての人が負けたのだ」
東京大学法学部教授(憲法学)の石川健治氏は、昨年11月に早稲田大学で開かれた「立憲デモクラシー講座」(主催:立憲デモクラシーの会)の中でそう強調しました。
東京大学教授の石川健治さん(撮影:吉永考宏)
安保法制論議では、政権を始め成立を強く望んだ推進派と、それを阻止しようとした反対派が激しくぶつかったあげくに成立した、つまりは推進派の「勝利」だったーー。そう理解している人は多いでしょう。しかし、石川氏は「そうではない」と説くのです。
では、一体、誰が負けたのか。
「安保法制に関して反対した人々だけでなく、賛成の考え方を持つ人も、今回負けたのだということを強調したい。反対派も賛成派も、すべての人が『負けた』。これが2015年の夏の出来事の意味だったのではないか」
この「敗北の帰結」はただちに明らかになってきたーー。そういって石川氏が言及したのは憲法53条の問題です。憲法53条には臨時国会の召集に関する規定が定められています。にもかかわらず、政府・与党は「国際会議や安倍首相の外交日程が立て込んでいること」などから昨秋の臨時国会召集を見送りましたが、それは「立憲主義がゆるくなった」帰結なのだという指摘です。
「召集とは、国会の活動能力を立ち上げる行為。召集行為がなければ、国会は活動能力を回復せず、衆議院も参議院も立ち上がらないという構造が、国会の土台をなしています。この重大な召集行為に関して非常に慎重な制度設計を行った結果が、憲法53条です」。政府の行為は、その憲法の明文に反して「自律的」な開会制度を空文化するという決定をしたことになり「大変に深刻な事態だ」。そう指摘した上で、石川氏は語りかけました。
「憲法が認める少数派・反対派のイニシアチブを空文化し、内閣の『他律的』な招集権を最大化しようとする動きは、日本国憲法が想定するよりも『強い政府』になろう、という安倍政権のモーメントを反映しています。現在の<政府のつくられ方>あるいは<統治のありよう>が、そこには非常によく現れている。これはやはり、確実に2015年の夏の『敗北』の帰結なのであって、政府あるいは統治のかたちが、予想された通り、確実に変わりつつある。これは非常に重大な論点なのです」
沖縄にとって憲法は「荒海の中の灯台」だった
そして、沖縄の問題です。
沖縄県の翁長雄志知事
米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の同県名護市への移設計画をめぐり、沖縄県と安倍政権が激突していますが、ここでは別のことを書きたいと思います。
GHQの統治下にあった戦後の日本にとって、民主主義はいわば「与えられた」ものだったのとは対照的に、沖縄には「民主主義を勝ち取った」歴史があるという点について。
沖縄が米軍統治下にあった1967年2月24日のことです。本土の国会にあたる立法院議会は極度の緊迫状態の中にありました。沖縄の大衆運動を先導してきた教職員らの政治活動などに制限をかけようと、当時与党だった沖縄民主党が「教公二法案」の強行採決を試みようとしていたのです。
与党側は、立法院議会のまわりを、警察学校の生徒も含め約980人の警官隊で取り囲みました。これに対し、危機感を募らせた約2万5千人もの県民が法案を阻止しようと集結し、警官隊をごぼう抜きにしていった結果、法案は廃案となりました。
「教公二法闘争史 沖教組編」(1998年、沖縄県教職員組合発行)の中で、沖教組中央執行委員長の石川元平氏は、「当時の為政者は教職員の身分法を口実に(中略)復帰運動の先頭に立って、闘っている教職員を押さえ付けたかった。(中略)仮に大衆運動の先導役を担った教職員会への弾圧を許していたならば、沖縄はどう展開していたか知れません。歴史的事実は、教公二法を阻止した力が、復帰実現の大きな原動力になったのでした」と述べています。また琉球大学名誉教授の比屋根照夫氏も「民主主義のために命をかけて闘い、勝ち取った歴史。それこそが教公二法案の闘争だった」とその歴史的意義を強調しています。
こうして1972年、沖縄は本土復帰をはたしました。しかしながら基地問題は一向に解決しないまま今日まで来てしまった。米軍新型輸送機「オスプレイ」の普天間飛行場への配備などに反対する人々の闘いを追ったドキュメンタリー作品「標的の村」を撮った三上智恵さんは、かつて私のインタビューにこう答えてくれました(朝日新聞発行の月刊誌「Journalism」2013年12月号)。
「本当の意味の復帰というのは、もちろん日本国憲法のもとに沖縄が帰ることで、占領下のあの暗黒の時代、憲法は沖縄にとって『荒海の中の灯台』だと表現する人もいました。真っ暗な嵐の中、たまに見える灯台の光こそが憲法だったのです」
「あそこへたどり着けば、高度成長で息を吹き返している日本へ復帰できるんだーー。そうしたら、今は自分が取られてしまっている土地の財産権が認められて返ってくるだろうし、基地と一緒に生きるのではない、平和的共存権が保証されるような暮らしもできるようになるだろうと、とにかくみんなあこがれました。だけど、72年に本土に復帰しましたが、何も返ってはきませんでした。土地も返ってこない、平和的共存権も返ってこない、法の下の平等も返ってこなかった」
本土では「憲法を変えよう」という動きが加速しているが、との私の問いに、三上さんはこう話しました。
「でも、沖縄の人たちからすれば、『沖縄には憲法がまだ適用されていないのに、なぜ変えるの?』という疑問がある。憲法が機能していることで得られている既得権の重さが、日本本土の人にはわからない。沖縄にはそれがまだないから、逆に大切さがわかる。だからいうのです、『憲法をまずは沖縄で施行せよ、憲法を変えるというのであれば、その前に沖縄の人たち全員に適用してからにしてほしい』、と」
何度でも始めればいい
仮に民主主義が壊れたのであれば、またつくればいい。終わったのであれば、また始めればいい。賛成派と反対派の双方が周囲に高い壁をはりめぐらせ、その内側から相手に向かって批判の言葉を投げつけているのであれば、民主主義を深化させるためにも、壁に風穴を開けて「何が問題なのか」を、壁の向こう側の人々にも届く言葉と論理で伝える努力をしようーー。
戦後71年目の今年、改めて民主主義をつくっていく一助となるべく、リベラルや保守といった考え方の違いや立場の違いを超えて、それぞれが自由に考えを発信できる「開かれた言論プラットフォーム」をネット上に構築したい。そんな願いを込めて、WEBRONZAは通常の活動に加えて、ハフィントンポストに「二つのカオ」を持つブログを開設することにしました。
一つ目のカオである「民主主義をつくる」の方は、第一弾として、安保法制に反対するデモを展開したSEALDsの若者たちと早稲田大学政経学部教授の齋藤純一氏の対談、加えて、熊本県立大理事長でひょうご震災記念21世紀研究機構理事長の五百旗頭真氏へのインタビューで幕を開けます。
現場で活動する若者たちやアクティビストの本音、専門家の冷静な分析、はたまた政府関係者の思惑や市井の人たちの思い......。言論サイトとして、多種多様な言論を紹介していきたいと念じています。
3月以降は、二つ目のカオである「女性の『自分らしさ』と『生きやすさ』を考える」イベントを月1回のペースで展開していく予定です。コラムニストで社会起業家の勝部元気さんや、ネット上で署名を集めて社会問題の解決をめざすオンライン署名サイト「Change.org」の武村若葉さんらと話し合いながら、参加者とともに考えていく試みにチャレンジしたいと思います。それもまた「民主主義をつくる」という作業の一環と位置づけ、ハフィントンポストやWEBRONZAを使って発信していきます。
一人でも多くの未知の読者に届くことを願って。
WEBRONZAは、特定の立場やイデオロギーにもたれかかった声高な論調を排し、落ち着いてじっくり考える人々のための「開かれた広場」でありたいと願っています。ネットメディアならではの「瞬発力」を活かしつつ、政治や国際情勢、経済、社会、文化、スポーツ、エンタメまでを幅広く扱いながら、それぞれのジャンルで奥行きと深みのある論考を集めた「論の饗宴」を目指します。
また、記者クラブ発のニュースに依拠せず、現場の意見や地域に暮らす人々の声に積極的に耳を傾ける「シビック・ジャーナリズム」の一翼を担いたいとも考えています。
歴史家のE・H・カーは「歴史は現在と過去との対話」であるといいました。報道はともすれば日々新たな事象に目を奪われがちですが、ジャーナリズムのもう一つの仕事は「歴史との絶えざる対話」です。そのことを戦後71年目の今、改めて強く意識したいと思います。
過去の歴史から貴重な教訓を学びつつ、「多様な言論」を実践する取り組みを通して「過去・現在・未来を照らす言論サイト」になることに挑戦するとともに、ジャーナリズムの新たなあり方を模索していきます。