誰が福島第一原発を収束させるのか―見えない人間(2)

小学生向けに原発作業員の講演会を行った時のことだ。話を始める前に、子ども達に質問を投げかけた。「福島第一原発で働く人たちはどんな人たちだと思う?」と。一番先に元気よく手を挙げてくれた男の子が「貧しい人!」と答えた。そして、もっとも多い答えも「貧しい人!」だった。ちなみに、2番目に回答してくれた少年の答えは、「無理矢理働かされている人」だった。子どもは大人の鏡とはよく言ったものだ。

このブログの執筆中に吉田所長の訃報を知った。Bloomberg英字版では訃報を伝える記事の最後を門田隆将氏の著作から引用しこう締めくくっている。

"If Yoshida hadn't been plant manager, Tokyo would be a no-man's land right now."

(もし吉田氏が福島第一原発の所長でなかったなら、東京は不毛の地となっていた。)

吉田所長のご冥福を心からお祈り申し上げる。所長の死因の真相は誰にも分からないのかもしれないが、問題は70mSv被曝した人間の死を被曝とは関係ないとする東京電力とそれに対して何も言わない国の姿勢である。この発言が現場で働く人間にどれだけ不安を与えるのか。東電は作業員を守る気がないのかもしれないが、国は一企業の判断に委ねて良いのか。国民を守ろうとはしないのか。

ブログに戻らせて頂く。

小学生向けに原発作業員の講演会を行った時のことだ。話を始める前に、子ども達に質問を投げかけた。「福島第一原発で働く人たちはどんな人たちだと思う?」と。一番先に元気よく手を挙げてくれた男の子が「貧しい人!」と答えた。そして、もっとも多い答えも「貧しい人!」だった。ちなみに、2番目に回答してくれた少年の答えは、「無理矢理働かされている人」だった。子どもは大人の鏡とはよく言ったものだ。

先日、知り合いの作業員にこの話をしたら、「まあ、あながち間違ってないんじゃないか」と、大笑いしていた。

下記は、昨年京都で原発作業員の写真展を行った時の女性の感想だ。

福島第一原発なんて怖い場所で働いている人たちは、よほどヒーローみたいな人か、本当に無理矢理、否応なく働かされている人かと思っていました。でも、インタビューを読んでいたら、自分の兄や友人でもおかしくない普通の人なので余計悲しくなりました。

まずは、彼らの言葉に耳を傾けたい。福島から作業に向かう人、県外から作業に向かう人、様々な立場、様々な状況。混沌とした状況を無理矢理まとめるのではなく、混沌としたまま、お伝えしたい。「見えない人間」の人間性に出会い、彼らのモザイクを1ピクセルずつ消し去っていきたい。

前回のブログから早一ヵ月経ってしまったが、今月はもう少し、アップの回数を増やしていきたい。今回アップする内容は今年の1月に福島でインタビューさせて頂いた内容だ。

なお、肖像権の問題でインターネット上では公開していない福島第一原発作業員の写真やインタビュー動画を写真展や報告会でお伝えしているので、興味の有る方は是非足を運んで頂きたい。



【2013年1月インタビュー東京都出身30代男性】

2011年5月に会社にアンケートが来たんです。すぐに手を上げれば身元も何も関係ない、早く行ってくれって言う感じで。それから7月ぐらいに元請業者の教育を受けて、8月のお盆休みが終わるぐらいに福島第一原発に入りました。原発に関する教育は、A教育、B教育っていうのを受けたんですけど、それは綺麗な原発に入る為の教育でした。あとは現地で元請のルールに従ってくれということで。福島第一原子力発電所には該当しないから、今は関係ない、関係ないって。そういう説明の仕方でした。とりあえず、教育受けている時は皆無言でしたね。それで、福島に来たら、新規入場者教育とかやるんですけど、それも皆静かでした。

1F(福島第一原発の略称)に向かう時は話す人もいますけど、だいたい皆無言になります。バスには30人、40人乗ってるんですけど、行きも帰りも基本は無言でした。帰りは疲れて寝ちゃってるんですけど。警戒区域の中はずーっと人もいないし、これが本当は自然のままの姿なんかなとか思ったり。でも人がいないから不思議な感覚だなって思ったり。思い思い、一人の世界に入ってますね。

作業を始めてからもう1年半が経ちます。1Fの中での作業は現場に行く人と、免震重要棟の中にいる人がいるわけですが、僕は外。現場監督のように指示を出す立場でもありますが、作業も行います。うちの会社はプラントメーカとは違って建築なんで、進捗状況によってぬけたり、入ったりです。線量はトータルで約80mSvです。私の会社の基準では限界ギリギリですね。

元請の現場監督はルールがあって3ヵ月の勤務が限度です。東電もそうなんですけど。だから、結局現場を知ってるのは協力会社。末端の作業員は3ヵ月では変わらないで、ずっといるわけですが、若い子なんて、一ヵ月半で変わったりしてましたね。東電はほとんど現場にはいないです。東電は、元請ゼネコンとの打ち合わせとか、そういう話し合いだけですね。そういうのがあるんで、僕みたいな末端の協力会社の人たちが、最後までいなければいけない。長くて3ヵ月でいなくなる人よりもずっといる人の方が現場を知っているわけですから。現場監督にも一応引き継ぎ期間はあるんですけど、結局来る人は収束現場に関して素人だから。今の装備とかルールとかを教えてもらうだけで、仕事は入って覚えろっていう。東電もくるくる変わるし。現場に出ない上の人は変わらないですけど。

作業現場でもっとも線量が高い所は3号機でしたね。オペフロの上は線量が高すぎてあがれないんですけど、オペフロの東側。タービン建屋の屋上を瓦礫を撤去しながら、カバーリング鉄骨をつけた時です。場所によって放射線量が全く違うんですが、2mSvのAPD(警報付きポケット線量計:2mSvに達したら退避するように警報音で随時知らせる)をつけて、15分でパンク(線量限度に達すること)しないように戻ってきます。ラディアックって言うガイガーカウンターを見ると、100mSv/時とか炉心に近づくとそういうところもあって。そこはもう人海戦術でした。

色んな人たちがそこで散っていきました。どこの馬の骨か分からないような人たちを集めて、撒水部隊が水でビューって瓦礫をとばしたりとか。はじめ、屋上では無人重機で作業をしてました。下に水が漏れないように、アスファルト防水っていってコールタールを何層もやって底に水が漏れないようにコンクリートの上にそれをかけてたんですけど、それを無人重機でガリって傷つけると防水層の下に水が漏れるんです。結局、漏れる=汚染水として扱われるから東電に止めろって言われて無人重機がダメになりました。それから有人になったんですよ。でも線量が高くてそこにずっといられないわけです。よくブルトーザーがガガガガッって瓦礫を集めたりするんですけど、あれを3回やってオペレーターを交代する。オペレーターはタングステンベストを着て、重機の中に入ったらもう一枚着て、そこがある程度片付いたら、そこにある高線量の瓦礫とかを水で飛ばして、ある程度除染してって。

そこでの作業は原発に入ってから間もない2011年11月から去年の春先までの半年間でした。僕の場合はそれで40mSv食いましたね。四月になると不思議な事にリセットされて0に戻りましたけど。(法令で放射線業務従事社に定められている被曝限度は1年間で50mSv、5年間で100mSv。年度毎に被爆線量を計算するので、新しい年度になると0から被爆線量を積算する。)

僕は震災の前に大病を患って、足の中にボルトが入ってるんですよ。障害者手帳を持ってるんですけど、大腿骨頭壊死症ってやつです。一応、難病なんですよ。3年近く一人では歩けない状況が続いて。それで入院してリハビリをして復活しました。退院して普通の仕事を初めて1年半経った時に、3.11がありました。入院した時は、看護婦さんたちにすごく支えられましたね。だって歩けないんですもん。もともと歩けたのに歩けなくて。ちょっと前まで車いすで迷惑かけっぱなしだった人間が、今なら、自分で出来る。恩返しではないけど、そういうのもあって、原発での仕事に手を挙げました。

嫁にはじめて原発作業の話した時は、冗談だと思ってたみたいですね。本気で行くわけじゃないだろうからと思ってたみたいです。それで、はじめて、書類を見せたら大泣きされて。よく東京の人から言われたのは、何であなたが行かなきゃいけないのって。でも、結局その仕事が必要とされていたり、自分しか出来ない事だったり、誰も人がやらない事をやってこそ、自分の役割なのかなって。ましてや国難なわけですし。その話をしたら納得してくれました。あとは、うまくだましだまし。一週間、2週間で帰ってくるよ。って。

はじめの時の想いと、今の想いは一緒ですよ。中だるみした時期もありましたけど、今は初心を思い出してやってます。始めの時は年齢とか関係無しに、例えば工事現場で言えば、鳶職とか怖い雰囲気の人たちがいたんですけど、怖いのは見た目であって、皆同じ白い服とマスクをかぶると話が出来るわけですよ。仕事の事に関しては、こうこうこういう風にやりたいんでって言うと、分かったって。皆プライドを持ってやってました。でも、放射能の怖さに慣れてくるのと同じで、だんだん現場に慣れてくると、なあなあになってきたところがありました。それじゃいけないなって。現場ではコロコロ、コロコロ元請の職員は変わるのに、威張ったりされるのは嫌だとかはありましたけど、初心を忘れないようにしようと思って。そうしたらやっぱり、皆分かってくれました。

東京にいた時はお金を稼ぐ事しか考えてなかったですよ。利己的な考えしかなかったんですけど、3.11の時からホント変わりました。震災直後はボランティア団体を支援していたんですけど、どこにお金が行ってるか分からない。本当に必要とされているところに行っているか分からないですし。それだったらボランティアじゃなくて、自分で直接行っちゃえと。自分の仕事も含めて。

当初、原発での仕事について、うちの会社は5人説明を受けて、一人辞退しました。今、4人働いているんですけど、一人は線量の問題でぬけて、他の皆は僕と同じぐらいのギリギリの線量の中でやってるます。今後は皆が行ってるから行きましょうね、それが嫌だったら辞めて下さいねっていう感覚じゃないと、会社で作業員を確保するのは難しいでしょうね、本当に。今、少し言われている徴兵制じゃないですけど。東京電力は徴兵制みたいな感じででもやらないといけないんでしょうね。戦争に行くのとは違いますけど。

僕の建築グループの企業体の中では5割の人間が志を持って、3割は会社の命令で、2割はお金のために来る。そんな感じだと思います。僕は建築系でまだ終わっても次の仕事が有るから、他の現場に行けば良いんですけど、皆わざわざ福島まで来たくないよ、と。なんでそんなところに行かなくちゃ行けないの、と。賃金も他の仕事と変わらない状況で。

プラント屋さんは致命的じゃないですか。5年で100mSvが被曝限度なんで。1年の被曝限度が単純計算で20mSv/年なんですが、余裕をもたして、18mSv/年ぐらい。そこまで達したら、来させないということをやってます。そうするとこっちに来ると仕事ができないということになるので。プラント屋さんが足りなくなった状況でどうするのかというのは、大きな問題でしょうね。

話は変わりますが、びっくりするくらい元自衛隊の人が多いんですよ。自衛隊やめちゃったけど、でも個々には絶対来たくてきたとか。8年前にイラクに行ってたよとか。硫黄島に仕事で行ってた人とか。自分の仕事に誇りをもって来ているんだなって思います。実際、お金も関係無しに来ている人もいますし。

実際の作業内容を詳しくは話せませんが、大きな工事では規制調、東電の監視員、モニター室など、作業現場以外でも様々なセクターの人間が関わってきます。なので、事故やそれに近い事が起きた時に、それぞれの思惑がぶつかります。想定外のことが起きても、現場で大きな事故につながらなければ、それが発表されない事もあります。そういうことは一杯あるみたいです。

それと、おもしろいことに今、プールの中に生き物がいるんですよ。タガメ。タガメが泳いでるんですよ。よくプールの中に落ちたら死ぬとか言われるけど、生き物は生きてるって言う。多分飛んで入ってきたと思うんですけど。

収束については4号機だけは30年、40年で更地に戻せるかなって。3、2、1は僕はうーんって。思います。まだ人も入れない状況じゃないですか。でも、不思議に思うのは、建屋の中は入れないけど、建屋の外は普通に歩けてるから、なんか不思議な感覚ですよね。素人感覚ですけど。

内部被曝のカウントはだいたい2500cpmぐらい。最高で4000cpmぐらいだったんですけど、こないだ2000弱まで下がりました。でも、実際現場で減ってるのは少しの核種だけであって、調べられていない各種もありますからね。

仕事がオフの時は地元の人と話したりしますよ。だいたい飲み屋で。こちらの人は理解してくれてると思います。飽きと感謝の気持ちとこれからもお願いしますって言う気持ちと。東京で帰った時に、福島で仕事してきたって言うと。ええーって、未だに半分冗談で、ちょっと近寄らないでとか、まあそれは、そういう風に報道してるから仕方ないですよ。

僕は去年の一月に子どもが生まれました。被曝2世。原発ベイビーが。今、6ヵ月ですね。振り返ると、13mSvぐらい被曝した時に出来た子どもだと思うんですけど、世間一般で言うと、こういう子どもが生まれてきたら嫌だなって言われるかもしれないですね。最近は、放射能の「能」を脳味噌の「脳」で言う人がいますけど、今、嫁と子どもに対しては異常な程に気を使ってます。粉ミルクはドイツの有機農法のものを取り寄せて、野菜の産地も気をつけています。ある意味、僕と正反対。生まれる時は心配で、厚生労働省の原発で働いた人の相談窓口に問い合わせたら、子どもの子ども、孫の方が心配だって言われて。

子どもには始めの頃はすごい泣かれてましたけど、最近ちょくちょく帰るようになったら、やっと覚えてくれて。

ある日、3号機の建屋の壁の近くまで行って、壁とか触ってた日があるんですけどね。そういうのは僕自身は気にしないんですけど、それからスクリーニング受けて、そのまま東京に向かって、家に帰ってたら、嫁に子どもを抱いてって言われたんですよ。その時にちょっと待ってって。シャワーだけ浴びさせてって。だって原子炉建屋の壁を触った後に子どもは触れないよって。

(次回は、仕事を終え、東京に戻ってきた男性とその妻のインタビューを掲載予定。)

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