北方領土問題をめぐる交渉方針を安倍晋三首相が一転させた。日本政府は択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島の4島一括返還を長らくロシア側に求めてきたが、安倍首相は色丹、歯舞の2島先行返還へとかじを切ったのだ。
こうした大転換を受けて、河野太郎外相が1月14日午後(ロシア時間)、ロシアのラブロフ外相と会談する。それに先立ち、ロシア外務省のザハロワ報道官が13日、国営テレビ「ロシア1」のニュース番組で語った内容が気になった。
暴露?
ザハロワ氏は番組の中でこう述べた。
「私たちが最も驚いたのは、外相会談後の共同記者会見を開かないよう日本側が求めてきたことです。会談の前には不安定な状況を作り出しておいて、会談後には記者に語るのを拒否するというのは矛盾しているでしょう」(ノーボスチ通信)
ザハロワ氏が念頭に置いているのは、安倍首相が1月4日の年頭記者会見で次のように述べたことだとみられる。
「北方領土には多数のロシア人が住んでいる。日本に帰属が変わることについて納得していただくことも必要だ」
領土返還を前提としている、とロシア側は受け止めたのだろう。実際、ロシア外務省はすでに上月豊久・駐ロシア大使を呼び出して注意している。
NHKニュースによると、ザハロワ氏の発言に対し、日本の外務省幹部は「今回は通常の外相会談ではなく、交渉であり、交渉の途中で共同記者発表というのは聞いたことがない。日本が拒否をしたことはない」と語ったという。
駆け引きか、深刻な対立か。真相はわからないが、背景に何かがあったことは確かだろう。大胆に推測すれば、ロシア側は明らかにしたいが、日本側は伏せておきたい交渉の焦点かもしれない。
それは、4島や2島といった島の数ではないと私は考える。領土交渉では過去、ロシア側とどう妥協するのかという意味で島の数がクローズアップされてきた。
だが、安倍首相が2島先行返還にかじを切ったのは周知の事実であり、今さら伏せる必要はない。
政権はもはや、方針転換による世論の反発を気にする必要はない。
北方四島の元島民たちからも政府の交渉方針に反発する動きはなさそうだ。2018年12月に東京であった北方領土返還を求めるデモ行進で、例年叫んでいた「領土を返せ」というシュプレヒコールをやめている。ロシア側を刺激するまいという、交渉に取り組む日本政府への配慮がうかがえる。
つまり、安倍政権は今、国民からも元島民からも「2島先行返還」を目指す方針への支持を取り付けているのだ。
禁断の「踏み絵」
では、日本側が伏せておきたいこととはなんだろうか。それはロシア側が長らく日本側に求めてきた「踏み絵」に対する態度なのではないか、と考える。
踏み絵とは「北方領土の主権は第2次世界大戦の結果、合法的にロシア(ソ連)に移った」ことを日本が認めるか否か、ということだ。
安倍首相が2島先行返還へと方針を変更したことが報じられた後、ラブロフ外相はこう述べた。
「平和条約の締結は、日本がまず、第2次世界大戦の結果を認めること。これ以上でもこれ以下でもない」
「合法的に移った」ことの根拠として、ロシアが挙げるのが「ヤルタ協定」だ。
第2次世界大戦中の1944年2月、ソ連がアメリカ、イギリスの各首脳とソ連の保養地ヤルタで会談し、ソ連が対日参戦して日本が負けた場合、千島列島などはソ連に引き渡される、などと取り決めた密約だ。
当事国である日本は参加しておらず、国際法的には無効であると日本政府は主張してきた。だが最近、そんな日本の姿勢に変化が出てきた。
ラブロフ氏が前述のように発言した後、河野外相は日本の記者たちから見解を問われたものの、4回にわたって回答を避けたのだ。
これまでなら「北方領土は日本固有の領土」などと勇ましく反発してみせたが、このときは封印した。
そして今回のザハロワ氏による発言である。日本はひょっとしたら、交渉を進めるために、踏み絵を何らかの形で受け入れる姿勢をロシア側にみせているのではないか。
何らかの形、というのは、日本国民にも「言い訳」が成り立つようなやり方という意味だ。外交上の合意やそれにまつわる文書では、しばしばそうしたことが起きる。
双方の国が自国民向けに都合のいい形で解釈できるような文言を選ぶ。
「玉虫色」と言われるかもしれないが、そもそも立場が違う両国がなんとか接点を見出そうとするわけだから、そうしたすり合わせは外交上の知恵、技術であり、それ自体は否定することではない。
だが、ラブロフ氏の言う「合法性」の踏み絵について日本側が歩み寄ろうとすれば、国内から猛反発を食らうだろう。しかもロシア側は「あいまい」な形ではなく、明確に踏ませようと求めている。
そんなロシア側の意向に答えようとすればするほど、日本の世論の反発は強まる。だからこそ、日本側は今は伏せておきたいのではないか。
ザハロワ氏が「暴露」したのは、そんなあいまいな態度にいら立ち、あるいは日本側を揺さぶるというしたたかな狙いがあったのではないか。
もちろん、現状ではすべて、私の推測にすぎない。だが、筋は通っている、と思っている。
ドミノ倒しに影響拡大
ロシアが言う「合法性」を受け入れれば、もしかしたら領土問題や平和条約交渉は大幅に進展するかもしれない。だが、それは「禁断の果実」だ。というのも、戦後日本がこの問題で主張してきた根幹が揺らぐからだ。
日本はこれまで、ヤルタ密約が無効であること、ソ連の対日参戦が日ソ中立条約に違反し、ポツダム宣言受諾後に北方4島を占領したこと、日本が千島列島などの放棄を受け入れたサンフランシスコ条約にはソ連は参加しなかったことなどを根拠に北方領土が自国のものであると訴えてきた。
それは政府の公式見解として国内外に表明されてきただけでなく、教科書に記載されるなど、世代をまたいで広く国民の認識として定着している。
確かに日本側の主張で弱い部分もある。戦後直後、日本は択捉、国後を放棄したことを認めたのに、その後、アメリカの「圧力」もあるなどして主張を変更、両島を含めた4島を「固有の領土」として返還を求めるようになったことなどだ。
だからといって、ロシア側が言う「合法性」を受けれてしまえば、日本がこれまで訴えてきた一連の主張はことごとく否定されることになる。
プーチン大統領は領土問題において、ロシアと日本双方が妥協をする「引き分け」でしか解決できないと述べている。
島の数で折り合うならまだしも、ロシア側の「合法性」をめぐる主張を受け入れることはもはや引き分けではなく、一本負けだ。
というのも、ことは北方領土問題にとどまらないからだ。ロシアの主張を受け入れるならば、竹島をめぐって対立が続く韓国や、尖閣諸島の領有権を言い始めた中国、台湾も「第2次大戦の結果」という主張を付け加える可能性がある。
「第2次大戦の結果」というフレーズが「ドミノ倒し」のように影響するのは確実だろう。
実際、ロシアと中国は第2次世界大戦の「価値観」を共有する動きをみせており、最近の日韓関係の悪化を考えれば韓国も乗ってくる可能性は十分ある。
戦後ロシア人の価値観
「第2次世界大戦の結果......」というロシア側の主張は、プーチン氏が大統領に就任してから多く見られるようになった。
それは、プーチン氏がロシアを世界の大国へと復活させようとした試みと無縁ではないだろう。
ロシアの前身ソ連はかつて、アメリカと世界を二分する超大国だった。だがアメリカとの冷戦によって軍事費が巨額になるなどして経済が立ち行かなくり、1991年にソ連は崩壊。超大国は分裂した。
最も国力のあったロシアでさえ社会経済は混乱、内戦やテロ事件なども相次ぎ、ロシア人は自信を失った。そうした中、登場したのがプーチン氏だった。
国の基幹産業である石油やガスの価格が上昇したことに助けられ、経済が回復。前任のエリツィン大統領時代は周辺の富豪らに握られていた権力を一気に取り戻し、「強いロシア」の復活を体現した。
そうした中、プーチン政権が国民の精神的な拠り所としたのが、第2次世界大戦での勝利だった。ロシア(ソ連)は西はナチス・ドイツからヨーロッパを、東は全体主義の大日本帝国からアジアをそれぞれ開放したのだ、という認識を国内外にアピールした。
北方領土問題におけるロシア側の主張は、こうした戦後ロシアの価値観と結びついている。ロシアは領土問題を通じて、歴史認識や戦後の価値観をめぐって日本に挑戦していると言える。