「世界でいちばん可愛いバリアフリーマークを多くの人に知ってほしい。」 - ディック・ブルーナ&BOOFOOWOO ユニバーサルデザイン バリアフリープロジェクト 水戸川真由美

「ミッフィー展」が全国7都道府県で開催中。物販コーナーで、世界初のバリアフリーグッズの企画から関わっている水戸川真由美さんにお話をうかがいました。

水戸川 真由美(みとがわ まゆみ)

オランダのグラフィックデザイナー、絵本作家のディック・ブルーナが描いた絵本『ちいさなロッテ』(現在絶版)の主人公ロッテ・ライルを起用した「ディック・ブルーナ・ジャパン&BOOFOOWOO ユニバーサルデザイン バリアフリープロジェクト」プロジェクトマネージャー。(公財)日本ダウン症協会理事。産後ドゥーラ。映像製作等のコーディネーター&プロデューサーとしてもフリーランスで活躍。 www.bruna-barrierfree.net/

今年、60回目の誕生日を迎えた"ちいさなうさこちゃん"ミッフィー。それを記念した「ミッフィー展」が現在、東京、青森、大阪、福岡など全国7都道府県で開催中です(2016年10月まで)。その物販コーナーで、今年、世界初のバリアフリーグッズも販売されているのですが、その企画から関わっているのが水戸川真由美さん。25年越しの夢でもあったというこのプロジェクトについて、お話をうかがいました。

OYAZINE(以下、Oと略記):昨年10月にスタートしたバリアフリープロジェクト。こちらは企業とのコラボでバリアフリーマークを生み出しました。一方でドキュメンタリー映画等の制作にも携わっていらっしゃる。どちらも「作る」仕事ですね。

水戸川さん(以下、水戸川と略記):「ものを作るということが好きで。小・中学生の頃は、手芸をよくしていました。かぎ編みっていうんですけど、母は四季おりおりいつも編み物をやっていたんです。よく母のそんな姿をみていました。

O:高校卒業のち上京されたとか。何かきっかけがあったのですか?

水戸川:「親元を離れたい」「とにかく東京に出よう」と思って(笑)。寮のある東京にあるスポーツ用品の卸問屋に就職口を見つけて上京しました。それから放送業界の制作会社に転職して。今で言う放送業界のリサーチャーという仕事等をしていました。いわゆる取材先への事前の調整や、番組制作に向けた情報整理などです。でもそれに限らず、プロデュースすることや、衣装、小道具の手配もしていました。何でも屋みたいですね。

O:会社にはどれくらい在籍していたのでしょうか?

水戸川:制作会社に入ってすぐ、23歳の時に結婚したんです。それですぐ、妊娠がわかって。さらに、私とペアで動いていた上司も妊娠していることがわかって、上司の産休期間中には、子どもを抱えたまま職場に戻らなくちゃいけない状況になってしまいました。

O:入社してすぐに妊娠。そしてまたすぐに復帰、めまぐるしい中、ご長女の出産(1984年)が今の転機になったとうかがっています。

水戸川:そう。長女の出産では、原因はわからないけれど、生まれたときには"くも膜下出血"の跡がありました。出産後全身けいれんも起こしました、すぐにNICU(新生児特定集中治療室)に入ったんです。先に私が退院して、子どもはそのあと1ヶ月くらい入院していました。その時点でお医者さんからは、「脳性麻痺、もしかすると知的な遅れと身体の不自由を抱るかもしれない」と言われました。

O:出産してすぐに復帰しなければならない状況の中、ご長女に障がいがある可能性を聞いたということですね。

水戸川:そうですね。当初はまだ、知的な遅れと言われてもイメージができませんでしたが、長女が育っていくうちに、「まわりの子と比べて笑わないな」「遅れているな」と感じるようになりました。這ったりもしないし、彼女の場合、立つこともなかったので、長女はそのまま、車いすの生活になりました。

O:なるほど。車いす生活のご長女を育てながら、仕事に復帰したんですね。

水戸川:いえ、いったん、会社は辞めました。高山(岐阜県)から上京していた母も実家に帰って、完全に長女と1対1の生活がはじまりました。でも、食べないし、泣いてばかり、という状態なので、長女が1歳を過ぎた頃には、お医者さんに「私もう無理です」とギブアップしました。そしたらお医者さんが、「ちょっと離れてみたらどうですか」とおっしゃって。それで娘を入院型の療育センターの長期プログラムにあずけて、仕事に復帰しました。

O:抱え込んで共倒れになるよりも、ギブアップが宣言できてよかったかもしれませんね。

水戸川:いろいろ悩みを抱えて入った本屋さんで、ふと目にした本があって、それが『ハンディキャップをもつ赤ちゃん―心配しているママとパパへの贈り物』(中村安秀著/主婦の友社/1986年※絶版)という本だったんです。本の内容ではなく、最初は表紙にひかれて手にとったんですが、そこには、いろいろなハンディキャップをもつ子どものことが書かれていました。当時はインターネットもなかったので、子どもの病気について知ろう思ったら、本を読むというのが手段でした。どんな本があるかということすら情報が入りにくいので本の存在自体わからない。でも偶然この本に出会って目について手にとってという流れでした。この本の巻末には、その親、保護者の声が載っていて、同じ思いは私だけではないんだとわかって、その本にあった言葉にすごく救われました。

O:情報源が書籍くらいしかなかったとすると、当時は同じハンディキャップをもつ子どもや、その親同士がつながる場も敷居が高かったのでしょうか。

そうですね。敷居が高いというより当時は身近な情報が本だったと思います。それと、救われたという意味でもうひとつ大きかったのが、長女が入所した、センターで長く入所していた重度障がいのかたとの出会いです。

O:どんな出会いだったのでしょうか?

水戸川:成人の女性だったんですが、意識もなく、気管切開もしていて、でもお母さんが彼女の手を触ると、顔の表情が変わることに気がついたんです。彼女の目から、ポロッと涙がこぼれるのを見たことがあって、それを見た時に、証拠は何もないんだけど、身体で感じるものとか、気持ちで感じるものがあるんだと思うようになったんです。だってお腹の中で育まれたわけでしょ。五感で覚えているんだなって感じました。

O:一筋の光が指すような出来事ですね。

水戸川:一筋の光もそうですが、娘に申し訳ないなと思いました。これまで、自分の娘に対してそういうふうに思っていなかったなと。それから、生死をさまよっていた時「あなたが生きるも死ぬのも、あなたの好きなようにしなさい」と投げてしまっていたなあ、なんだろう、彼女の気持ちや想いはちゃんとあるわけで、そこを自分だけのもの、という感覚になってた、申し訳ないと思ったんです。退院してから、区の通所施設に親子で通うようになりました。

O:娘との時間をもっと作ろう、と。

水戸川:そういう面もありますね。その頃から、狭い世界を抜けだしたような感じというか、可能性っていうものは絶対にないわけじゃないなと思うようになりました。「いろいろ言ってたって、やってみなくちゃわかんない。絶対こうしなきゃならないっていうものはないんだ。元気で生まれなきゃならないとか、そういうこともないんだ。」と。そういうことを思うようになった背景には、やっぱり「私がかわいそう」だと思っていたっていうのがあるんです、結局。子どもがかわいそうと言いながら、自分がかわいそうだと思っている。そこから抜けたかなとは思います。

O:本当に大きい変化だったんですね。ロッテちゃんをあしらった車いすマークを作ろうということだって、まさに、やってみなくちゃわからないという、その考え方の延長線上だと感じます。

水戸川:そうですね。とにかく当時、福祉のイメージが本当に暗くて、そこから脱却したいと思っていました。色で言ったら限りなくグレーな感じ。こどもだって、お母さんだってオシャレもしたいし、楽しみたいって思っていたし。でもその当時、障害のこどもがいて、母親が働くこと自体、ありえないことのように思われていて。ハンディキャップのある子どもをもつ親の中では変わり者とみられていたかもしれないです。

O:車いすに乗っていることだって、楽しみたいですね。

水戸川:娘が大きくなると、車いす型のバギーに乗るようになって。そうすると、見た目があまり他の子どもと変わらないので、「どうしてそんなに身体が大きいのに、大きなベビーカーに乗っているの?」って聞かれたりするようになりました。そういうことを聞かれるたびに、その度に説明して、手間がかかるなと思っていて、それで可愛らしい車椅子ですよっていうマークがほしいと思うようになったんですね、。

O:ロッテちゃんのことはどこで知ったんですか?

水戸川:たまたまテレビを見ていたら、ロッテちゃんの絵本が動画で流れたんです。こんな可愛いキャラクターがブルーナさんの作品にいるんだと嬉しくなりました。その絵本を探したんですが、まだその頃は日本では出版されてなくて、たまたまオランダに行く知人がいたので、探して買ってきてもらいました。

O:すごい偶然が重なったんですね。

水戸川:それで、ロッテちゃんをあしらったハンディキャップのグッズがあればいいのにと思ったまま、何年も経って。でも、忘れずに、あったらいいなとはいつも思い続けていました。そしたら、インターネットで、同じように「かわいいハンディキャップのグッズがあればいいな」と言ってるお母さんがちらほらいることもわかったんですね。そんなとき、たまたま知人の紹介で、子供服のブーフーウーという会社の顧問/クリエイティブディレクターで当時、代表取締役だった岩橋麻男さんに出会って、その思いを打ち合わせの場でぽろっと言ったんです。

O:なるほど。同じ想いをもったお母さんが多いことを知ったタイミングで、岩橋社長と出会ったんですね。

水戸川:早々にディック・ブルーナ・ジャパンにライセンスの問い合わせをしてくださいました。ロッテちゃんはあまり陽の目を見てきたキャラクターじゃなかったみたいなんですが、「オランダに聞いてみよう」っていうことになって、オランダの本社に聞いたら、承諾が得られたということです。結果的に、ロッテちゃんのグッズを、世界ではじめて発売することになったんです。ディック・ブルーナ・ジャパンさんにもいろいろとお骨折りいただいて。ブーフーウーさんの「笑顔とありがとうを未来へ広げてゆく」という理念が繋がり、素人の私の話に耳を傾けて実現に導いてくれた岩橋さんに感謝です。子どもたちが誕生したから生まれた夢ですが、それがカタチになったことに喜びを感じていて、母にしてくれた子どもたちにも感謝です。

O:すごいですね。たまたまテレビ局で見たアニメから、偶然が重なって。

水戸川:ほんとにそうですね。最近わかったんですけど、あの時に私が買った育児書は1986年の発刊で、そこには車いすに乗った子どものイラストが1カットありました。それは「ロッテ」ちゃんとして登録されていたたデザインです。それから4年後の1990年、ロッテちゃんが絵本になってオランダで発売されています。日本語版のロッテちゃんの絵本は2000年に発売になりました。残念ながら絶版になってます。最初に買った育児書の中の、登録されたロッテちゃんのイラストが使われている本は、非常に貴重だということを聞きました。

O:まるでロッテちゃんが、水戸川さんにお願いしたみたいですね。

水戸川:ロッテちゃんのグッズづくりをきかっけに、ディック・ブルーナさんが描いた、様々なバリアフリー的なキャラクターやストーリーが存在していることも改めて知りました。たとえば『うさこちゃんと たれみみくん』(ディック・ブルーナ著・イラスト/松岡享子翻訳/福音館書店/2008年)というお話は、片方の耳がたれている男の子の話です。人と違うところがあっても、受け入れいれらる社会を目指そうとというメッセージがこめられています。ほかにも、『ぼくのだいじな あおいふね』(ピーター・ジョーンズ著/ディック・ブルーナ:イラスト/なかがわけんぞう翻訳/偕成社/1986年)は耳があまりよく聞こえない少年ベンを主人公にしたお話もあります。ほかにも、入院するときのおはなし、「死」や「誕生」をテーマにしたお話など、いのちに関するお話がたくさんあるんです。

▲『ちいさなロッテ』との出会いから広がっていった、バリアフリーの作品やグッズ。

O:ディック・ブルーナさんのやさしい眼差しが現れているようなエピソードですね。今後の展開についても教えて下さい。

水戸川:ひとつは、グッズを通してハンディキャップについての理解を広げていきたいと思っています。娘が31歳で、息子が17歳なのですが、どちらもハンディキャップを抱えているので。あとは、オシャレに可愛く快適に! それから2020年、日本でパラリンピックが開催される前に、生活しやすい日本であること、「こころのボーダレス」が浸透すること。せっかく絵本があるので、背景にストーリーがあることも含めて、理解が深まるといいなと思っています。

(この記事は、2015年4月のインタビューをもとに構成されています。)

インタビュアー/撮影 川辺 洋平

編集/ライター たかなし まき