「伝える」こと ~"世界の不条理"と向き合って~

どのようにすれば、自分が現地で見た・聞いた・感じた"世界の不条理"を、受け手の心の奥底まで届けることが出来るのか。

アフリカからアメリカに戻り、早いもので1週間が過ぎました。

今回、Huffington Postに初めてブログ記事を投稿するわけですが、それを始めるにあたって、いやたとえ始めないとしても、この辺りで一度考えておきたいことがあります。それは、「伝える」ということです。

「国際協力」という観点から世界、とりわけ途上国の現状に対して普段から目を向けている一人の人間として、私の前には常に一つの大きな壁が立ちはだかっています。それは、"世界の不条理"を如何にして「伝える」のか、という事です。

これまでフィリピン、バングラデシュ、ルワンダ、ウガンダ...と足を運び、「ストリートチルドレン」「児童労働」「物乞い」「孤児」「スラム」「虐殺」「HIV/AIDs」「子ども兵」など、学生という立場にも関わらず様々な不条理や社会的弱者と接する機会を得てきました。

そして、ただ接するだけではなく、一学生NGOのメンバーとしてその不条理に対する抗い方を考え、紆余曲折しながらも実行に移し、また個人としては「国際協力のプロ」への道筋とそれら不条理との距離感や関係性を常に意識し続けています。

もちろん現地に足を運ぶのみでなく、常日頃世界中のニュースにアンテナを張り、また一日の大半を勉強に捧げる私はそれなりに世界に対して想う事があり、あらゆる事象と自分との連関を考えながら日々生きている次第です。

ポリオを患うも、物乞いに利用される少年。この写真を撮影した時、息を止めたのを今でも覚えている(2014年9月、バングラデシュの首都ダッカにて)。

私にとってこの「伝える」という行為は、常に葛藤を伴うものです。どのようにすれば、自分が現地で見た・聞いた・感じた"世界の不条理"を、受け手の心の奥底まで届けることが出来るのか。いくら伝えたとしても、その先の行動までもたらすことが出来なければ結局は無意味ではないだろうか。そもそも、私のような小さな人間に"世界の不条理"を伝える権利があるのか―。

これまで様々な葛藤を味わってきた私ですが、アフリカからアメリカに戻ってきた今、改めて思う事があります。それは、「私にとってここでの『伝える』という行為は、"世界の不条理"に抗い、それを正していくための必要最低限の行為だ」という事です。

というのも、私が良く口にしている"世界の不条理"は、決して途上国の現状だけに言及したものではありません。日本、それも恵まれた環境で育ってきた私だからこそ、そこと途上国との間にある「格差」を感じてしまう。

お洒落なカフェで友人たちとの会話を楽しみながら、自分の好きな分だけ食べる日本の大学生がいる一方で、その日食べるものを得るために、朝から晩まで駅で荷物運びの仕事に汗を流すバングラデシュの少年がいる。

水泳とピアノを習いながら塾にも通い、クリスマスには親からゲームを買ってもらう日本の小学生がいる一方で、銃を持たされ戦場で人殺しに従事するウガンダの少年兵がいる。

この気の遠くなるような「格差」もまた、私の言う"'世界'の不条理"であります。その両者を肉体的にも精神的にも行き来する私にとって、「伝える」という行為は、この「格差」によって隔たれた両者を繋ぐための必要最低限の行為だと感じるのです。この「伝える」という行為が不十分であるならば、もっと言えばこの「繋がり」が不十分であるならば、両者にまたがって生きる私は、その「格差」に更なる絶望を隠し得ません。いつの日か、股が裂けます。

もちろんそれ以外にも、「自分の考えや経験を整理し、それに対し受け手からのフィードバックを頂くことで、より多様な価値観と広い見識を育む」「一人でも多く、特に同世代の人々に国際協力や世界に関心を持ってほしい」など、様々な意義や願いが込められていますが、ブログ記事という一つの手段を通じ、より一層「伝える」ことに努めていきたいと思います。

(2016年1月23日 「「伝える」こと-ブログを始めるにあたって-」より一部転載)

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