ここ数年、日本でも抗議デモが行われることが増えました。
今回は、ブログCaracas Chroniclesに寄せられたベネズエラの学生による抗議デモの様子を伝えるレポートを紹介したいと思います。
(以下は2014年3月13日にCaracas Chroniclesに投稿された記事"One Bottle, Then This: My Afternoon at UCV"を翻訳したものです。)
一本のビン、そしてこれ
:私のベネズエラ中央大学での午後
これは匿名希望の読者により送られてきた昨日(3月12日)ベネズエラ中央大学(UCV)で行われたデモ行進および混戦の目撃談である。
それはいつもながらの出発地点とルートの混乱から始まった。
ここ数週間のデモ行進では、情報が紆余曲折するのは当たり前になっていた。この手のイベントに関する洗練された告知や、開催数日前から大々的に行う宣伝など、もはや過去のものでしかない。デッキを組み立てたり、音響設備を借りたりする時間もお金もないのだ。
それどころか、近場で必要最低限のものだけを使った急ごしらえのデモ行進なので、土壇場で予定が変わることも珍しくない。
政党、集会と抗議運動に関する法律の第43条は、明白に、共和国のあらゆる住人には自由に集まる権利があるとしており、それが実施される24時間前までにその集会の計画を自治体に通知するだけでよいとなっている。
集会を開こうとする際に通知することは、許可を求めることとは大きく異なる。
だからこそ、3人の命が犠牲になり数十人が負傷したあの運命的な抗議デモのちょうど1ヶ月後に、カラカスの学生達は再び表通りに出て、例の人権オンブズマンの辞職を求め、*1彼女の事務所までデモ行進を行うことを呼びかけた。
当初から次のような噂が飛び交っていた。
「マドゥーロは私たちがベネズエラ広場を通り抜けることはできない、と言った」
「チャベス派がブリオン広場に集結すると発表された」
「地下鉄がとめられると言ってるのを聞いた」などだ。
だから、このデモ行進にはぼんやりとした挑戦という雰囲気がありありとしていた。全体的に「通り抜けてやろう」という感じであった。
11時頃私たちは、最終的にはオンブズマン(Defensoría del Pueblo)事務所に通じる全く別の全然まっすぐでないルートで行進を始めた。トランシーバーや拡声器で最新の状況報告を受けつつ、私たちはベジョ・モンテからロスチャガラモスまで進んだ。
そして若者の反逆者たちの伝説的な本拠地、ベネズエラ中央大学(UCV)を通り抜けた。
中央大学を半分ほど通り過ぎた頃、行進は止まった。
「暴動鎮圧のための機動隊に止められたぞ」
先頭集団からの情報を伝えている学生が知らせた。
「警察の責任者と交渉中です。行進は続けます。どうか座って待って下さい。通してもらえるはずです。」
抗議デモ参加者が待っている間、厳重に道路封鎖された方に進むことにした。
集団の前方に行けば行くほど参加する人の特徴は変化していく。白いTシャツを着て旗を持った年配の市民、主婦や学生から、徐々に戦闘服に近いタイプ、シュノーケルやペットボトルで作った呼吸するための装置といった、有り合わせのもので作った催涙ガスマスクを身につけた人が増えていった。
バックパックの中には催涙ガスの効果の緩和剤という貴重な発見が入っている。酢に漬けたハンカチ、マーロックス液の入ったスプレー缶、催涙ガス弾を投げ返すための軍手だ。
学生と治安部隊の衝突は言葉のやり取りに限定されているので、まだこの時点ではそのどれも出番がなさそうだ。
「私たちの目的が正当なもので、私たちにはこうして通りを歩く権利があるってよく分かってるんでしょ」
と若い女の子が分厚いプレクシグラスの盾の後ろの警官に向かって言った。
その警官と共に400人ほどが人間バリケードのように並んでおり、その後には7台の鎮圧用の軽装甲車(抗議デモ参加の用語ではサイと呼ばれている)と高圧放水砲(対デモ初心者用でクジラと呼ばれるもの)が控えていた。
学生の主催者たちはこの抵抗運動が暴れ出さないよう、本当によくやっていた。
私たちが通してもらえるまでおとなしくしているようにと呼びかけられ、私たちはその指示通りにしていた。みんなは国家を歌っていた。
そのとき、スローモーションで、一本のガラス瓶が完璧な軌道、完璧な放物線を描きながら空中をすうっと飛んでいくのを見た。
アビラ山とカラカスのきらめく太陽を背後にしてその物体が優雅に飛んでいき、ヘルメットと盾の海に落ちていく、その1秒に満たない間、時は止まったようだった。
あぁぁぁぁ
終わった。通してもらえるわけがない。
その直後、催涙ガス弾が空から雨のように降ってきて、放水砲からは水がすごい勢いで放出された。
それから機動警察隊と学生の間の激しいやり取りが始まった。
それはある意味、無意味に容赦なく続く応酬だった。
一瞬でも及び腰になろうものなら確実に蹴散らされ、また次の一瞬には抵抗する学生が再び集まってきた。ヒリヒリするような苦い催涙ガスの煙に包まれ、学生たちは嘔吐したり、ヒイヒイと声をあげキャンパス内に走っていき、息をするために地面にうつぶせに倒れこんだ。そして、別の学生が交代で出て行っては、私たちの方に向けて撃たれた催涙ガス弾を投げ返した。常に一人は守備体制にある学生がいて、キャンパスの背後の方にいる人達を守っていた。
前線を境にしてこっち側にいる人は、誰もがすぐに戦友となった。
「マーロックス!誰かマーロックス持ってる人っ!」
涙で目が見えなくなった医学部の学生が叫んだ。即座に十数人のデモ参加者が彼を助けに来ては、緩和剤のスプレーを渡し、
「口から息を吸っちゃダメ、痛みがもっとひどくなるよ」
など、経験から得た知識を一所懸命アドバイスしたりした。
いくつかの盾が機動隊から奪い取られ、キャンパスで声援を送る学生たちの元にトロフィーのように運ばれた。
中央大学の入り口の屋根にいた大胆な新聞のカメラマン達のシルエットが、灰色のガスの霞の中に頻繁に浮き上がった。それは、あたかも機動警察隊がその不運な見物人めがけて催涙ガス弾を投げる練習をしているかのようだった。
一人の人が私の目前で倒れた。近くで発砲があった。
この一見混乱状態の背後には、ちゃんとした秩序があった。
顔面に催涙ガスがびゅっと飛んできたので、目が見えなくなってよろめきながら、私はいわゆる生産ラインの中に走っていった。
そこはコンクリートの厚い板の石切り場になっていて、別の人がそれをより小さな塊に砕き、さらにそれを念入りにみんなが共通で使う石の保管場所に積み上げていった。さらに別の人は、ゴミや瓦礫を集め、石を投げる人達のためにその場しのぎのシェルターを作っていた。
デモ行進をさせてもらえないことに私はまだ腹が立っていたが、同時に、自分の周りが戦場となってしまい足がすくんでしまっていた。そして、ふと、もはやそこは私が割って入れるような戦いの場ではなくなっていることに気付き、そこから引き上げることにした。
戦闘に加わっていない他のデモ参加者の集団と一緒に、私がちょうど出口に近づいたときだった。バイクに乗った民兵のコレクティボスと赤い覆面の集団が中央大学のキャンパスになだれ込んできた。ちなみに、忘れないように言っておくと、中央大学キャンパスはユネスコの世界遺産である。
そこでコレクティボスは彼らの棒やバットの恐怖から逃れた学生たちを追いかけ回し始めた。
私はこの包囲作戦の結果を見届けるまで長くはその場に止まらなかった。でも、あのならず者たちが誰からの制裁を受けることもなく、学生をおびえさせ、傷つけるのを見たときの、その場にいた人全員が感じたあの恐怖と無力感については証言できる。
私たちを守ってくれていた学生たちが暴力的ではなかったと言うのは事実に反するだろう。
実際、彼らは石を投げていたし、ゴミを燃やしていた。そして実際に、一人の卑劣な奴が、今日の大混乱のきっかけとなったあのビンを投げたのだ。
しかし、政府は恥知らずにも、私たちの正当な抗議する権利を否定するという戦略を使っている。そして、このようにフラストレーションを掻き立てながら、嬉々として暴力を誘発しているのも事実だ。
どちらが先に尽きてしまうかはまだ分からない。
自分達の路上を取り返そうとする国民の意志が先か、ここのとこの物不足にも関わらず唯一供給の途切れることのない催涙ガス弾が先か。
訳注*1)この抗議デモの背景
ベネズエラでは抗議運動に参加した学生などが拷問を受けているという報告があり、それを受けて、2014年3月8日ベネズエラの人権オンブズマンのガブリエラ・ラミレスは、「拷問について情報を得たり自白を得る目的で人を故意に傷つけたり苦しめることが拷問であり、自白などを強要する目的でない場合については拷問ではなくただの虐待である」という旨のコメントを行い、政府の行いを正当化した。
本来であれば中立であるべき立場の人権オンブズマンが拷問の定義をゆがめて解釈し、あからさまに政府の肩をもつ態度に批判が集まり、今回の抗議デモが起こった。