ソーシャルメディアを使っていなくても、誰かに情報を流されてしまえばどうしようもない。企業などに電話で問い合わせる「電凸(でんとつ)」と呼ばれる行為がある。電話は、本来相手との1対1のコミュニケーションだが、知らない間に生中継されて会話が「だだ漏れ」になり、炎上することすらある。匿名ユーザーの電凸生中継は、ジャーナリズム活動なのか、迷惑行為なのか。
■流す側は匿名、流される側は実名の非対称性
前回取り上げた「グーグルグラス」(グーグルグラスですれ違った女性の情報がだだ漏れに? )のようなメガネ型のウェアラブル(着用型)端末を活用すれば、撮られている側が気付かれずに、写真や動画を撮影してネット上に公開することが可能になる。メガネ型のような近未来端末に限らず、スマートフォンでも、無音アプリなどを使えば、こっそり撮影してアップロードすることは可能だ。特に匿名ユーザーによる場合、撮られる側と撮る側の非対称性が大きな問題となる。元ニコニコニュース編集長で、フリージャーナリストの亀松太郎氏はこう指摘する。
ニコニコ生放送(ニコ生)には、一般ユーザーがネット中継する「ユーザー生放送」というサービスがありますが、生中継する側は匿名のケースが多くなっています。「生中継される側」はプライバシーがさらされることになりますが、「生中継する側」は匿名の影に隠れているという非対称性が生じます。そこで摩擦が起きます。
(亀松太郎氏)
こういった状況を放置すれば、プライバシー侵害が相次ぐことにもなりかねない。さらに亀松氏は続ける。
ニコ生では「電凸の生中継」というのもあります。例えば、去年の大津市のいじめ自殺事件のとき、教育委員会や警察に電話で突撃して、その様子を生中継するケースがありました。なかには生中継していることを告げないまま、相手に質問しているケースもあります。そんな場合、電話を受けている「向こう側の人」は、電話の内容がネットで中継されているとは知らずに話をすることになります。そういうことが現に起きているし、これから広がっていく兆しがあります。
ニコニコ動画で電凸のタグを検索してみると、500件近くが見つかる。最近投稿されたものの中には、消費税増税に関して政党に電話した際のやりとりや、報道内容に関するマスメディアへの問い合わせなどがある。架空請求とみられる企業とのバトルなども公開されている。タイトルや説明文には個人名とみられる相手先の名前が記載されているものもある。
亀松氏が言及した大津市の事件に関する電凸のやり取りは今でも公開されている(【電凸】大津市で起きた中2いじめ自殺事件 大津警察署から意外な返答が)。情報を十分出さない企業や行政に対して、匿名ユーザーが取材し、情報を人々に開示する、アクティブジャーナリズム活動とも言えるが、一方で、電話が公開されていることを知らせないことが良いのかという倫理問題も浮上する。
電凸生中継が当たり前になってしまえば、あらゆるコミュニケーションが公開されることを前提として行われる窮屈な社会となりかねない。
■発信力をどうスコア化するか
ソーシャルメディアの登場によって、「誰もが情報発信者」時代と呼べる状況になっているが、そんな時代の権利と責任について、法政大学の藤代裕之准教授が指摘する。
ジャーナリストを広義の記録者としてとらえ、一般のブロガーやツイッター利用者も含めて定義しています。「誰もがジャーナリスト」であることを前提に、それぞれの「発信力」に応じて、権利と責任を規定すべきなのではないかと考えています。誰もが情報発信できる状態があるにもかかわらず、今は責任の範囲があいまいになっています。
少人数にしか届いてなくても、発信する以上は、その影響力に応じて、責任を負うべきという考えだ。しかし、その発信力をどうやって計るのかは難しい。
従来は情報発信の責任は大きな影響力を持つマスメディアに限った話だったが、マスメディアとオーディエンスという区分も溶けています。ソーシャルメディアで瞬間的に影響力を持つメディアも生まれるなど流動的なので、責任と権限は発信者に対して一律に適用するというわけにはいかないでしょう。発信力をどうスコア化するべきなのか、スコアの認定は人がするのか、機械なのか、基準をつくる団体はどのようなものなのか、考えるべき事はたくさんあります。
発信力をどう測定すればいいだろうか。冒頭の生中継の場合であれば視聴者数になるだろうか。サイトへのアクセス数やツイッターのフォロワー数、リツイート数など、様々なデータがありうる。ソーシャルメディアでの影響力をはかるKlout(ツイッター、フェイスブック、グーグルプラス、リンクトインなどの利用状況を基に数値化)も知られるが、まだ定まったものはない。また、匿名でゲリラ的に発信を行った者への責任をどう問えばいいのか、という課題もある。
■表現の敵は私人や企業
発信者の責任を明確化しなければ、被害を訴える人が出てきた場合に、どのように回復するか対応が難しい。区分をあいまいにしたままであれば「ネットの発信は危険」という声とともに新たな規制を求める動きが出てくるかもしれない。しかし、安易な規制は表現の自由を縛ることにもつながりかねない。その状況を打開するために、国立情報学研究所の生貝直人氏は、従来の組織や業界の枠組みを超えて、新たな自主規制を実施することの必要性を訴える。
1人1人がジャーナリストである時に、従来の業界団体あるいはメディア企業内部による倫理の担保という手段は機能し難くなっています。新しい分散的な環境の中で、プレスカウンシル(報道協議会)のような組織・手段をどのように設計し、自主規制をしていくかが重要になってきます。
この「プレスカウンシル」がどんなものになるのか、議論を重ねることが必要だろう。従来型の報道機関から匿名アカウントまで多種多様な表現者がいるが、どこまでを対象とすればいいのだろうか。そして、表現の自由に関しては、なるべく規制を避けようというのがこれまでメディア業界でも散々主張されてきたが、そんなに単純な話でもなさそうだ。
表現の自由の敵は国家だけではなく、実はむしろ私人や企業だったりする。たとえば特定の企業が保有するオンライン・プラットフォームが支配的になった時には、特定の思想をもったジャーナリストを閉め出すような可能性も考えなければなりません。自主規制のメリットとデメリット、そして言論の自由を守り続けるために政府がやるべきこと、やるべきでないことは何なのかということを、考えねばなりません。
つまり、誰もがジャーナリストの時代には、個人レベルの問題だけでなく、企業や国家などのレベルでも、情報操作のような事態が生じうるということだ。問題は「表現の自由を制限するかどうか」という従来型の官と民の問題ではなく、個人や組織が混在する情報環境において、情報だだ漏れ時代へのボーダレスな対応なのだが、新たな仕組みはまだ見えていない。
(編集:新志有裕)
※「誰もが情報発信者時代」の課題解決策や制度設計を提案する情報ネットワーク法学会の連続討議「ソーシャルメディア社会における情報流通と制度設計」の第1回討議(13年4月開催)を基に、記事を構成しています。