今も昔も、そしてこれからもエネルギー問題は人類最大の難問でありつづける。一方、現在の気象災害や予想される影響規模を考えると温暖化問題も人類にとって非常に深刻な問題である。そして具体的な対応、すなわち国民にとって安全で安価なエネルギーの確保および温室効果ガス(GHG)の排出削減という意味では、エネルギー問題と温暖化問題は同じコインの表と裏だと言える。それは、主な対策が、再生可能エネルギーと省エネの推進であってほぼ一致するからだ(残念ながら、この事を判っていない人は非常に多い)。
しかし、その実施は容易ではなく、技術的あるいは経済的というよりも、多くの政治的な障害が存在する。そして、福島原発事故を経てもなお再生可能エネルギーや省エネの導入を嫌い、原発依存を続けたい人たちが日本での政治的実権を握り、経済界をコントロールしている。
本稿では、このような絶望的な状況のもと、1)温暖化対策が進まない理由、2)日本のGHG排出削減数値目標、3)社会正義運動と結びつく米国での温暖化問題、の3つについて説明しながら、現状における絶望と状況改善への希望について筆者なりに考えてみたい。
最大の理由は、単純に言えば、温暖化対策の推進はエネルギー・システムの構造改革に直結するため、大手電力会社、石油や石炭を売る化石燃料会社、エネルギー多消費企業などの既得権益が大きな反対勢力となって立ちはだかるからである。この事自体は、ある程度はしようがないと言える。なぜなら、企業にとっては自らの利益拡大が最重要であり、国益や地球益の追求や環境の保全は、結局は建前論でしかないからだ。これは世界共通の問題であり、社会経済システムの問題である。
ただし日本の場合、原発神話と同様に、日本政府と産業界が作った様々な神話に、かなりうまく国民がだまされた。すなわち、政府や産業界は、いわゆる御用学者を使って「日本は温暖化対策で優等生」「京都議定書がアンフェア」「中国と米国が悪くて、日本は悪くない」「温暖化対策で空洞化が進む」「原発は温暖化対策に必要」「エネルギー・システムは変えられない」などといった神話を築き上げてきた。
メディアの責任も大きい。内容の正誤に関係なくみんなと違うことを言う人を面白おかしく取り上げることによって、「温暖化していない」「COは関係ない」「温暖化した方がいい」と主張する温暖化懐疑論者がテレビのバラエティ番組や雑誌に頻繁に登場した。そのことが温暖化の科学に関する不信感を醸成し、前述の政府と産業界が作った神話をより神格化し、国民が対策を実施する必然性や気持ちを貶めた。
経済的側面、特にエネルギー・システム改革や温暖化対策の費用便益に関する正確な情報の欠如も深く影響している。多くの国民が、「特定企業の経営に対する悪影響」「日本経済全体に対する悪影響」「自分の生活に対する悪影響」の3つの違いを判断できていない。逆に言えば、多くの人が、省エネや再生可能エネルギーの導入が自分と日本経済全体の両方に悪影響を与えると信じ込んでいる。これは、主に経済学者に責任がある。
自然地理的に日本が恵まれているという事実も影響している。例えば、今、欧州では、アフリカ大陸からの大量の移民が押し寄せてきていて大きな社会問題になっている。もちろん、全員が環境難民では無いものの、アフリカでの干ばつや洪水などの環境悪化が影響していることは明白である。このような現実に立ち向かわなければならない欧州やアフリカと、気候が安定している島国の日本とは、温暖化問題に関する認識が違うのは、ある程度はしようがないのかもしれない。
さらに、日本特有の原発に反対するゆえに温暖化に懐疑的な人々、特に反原発に積極的に関わった活動家の少なからぬ人たちが、ただ単に「原発憎し」の一心から温暖化の科学や対策を批判する。温暖化対策推進者の多くが原発に対するポジションを明確にしなかったという経緯を考えれば、反原発で温暖化懐疑派の人々の心情はある程度は理解できる。しかし前述のように、本来であれば、様々な点でそれぞれ敵対関係にあるはずの日本政府、エネルギー産業、反原発・温暖化懐疑論者によって「日本は温暖化対策ですでに頑張っている」「日本はこれ以上頑張らなくてよい」という神話が作られ、事実上の「共闘」が行われてきた。それは、結果的に再生可能エネルギーや省エネの導入を遅らせて原発推進派の権力維持に役だってしまったと思う。
いずれにしろ、多くの国民が「地球にやさしい」という甘ったるい曖昧な言葉でしか温暖化問題を理解してこなかった。温暖化問題は、温室効果ガスの排出によって多くの人命が奪われるという、いわば大量殺人を未然に防ぐかどうかの「正義」の問題だという認識を持ち得なかった。誰が加害者で誰が被害者か、誰が利益を得て誰が殺されるのか、などを深く考えなかった。これは、政治家、官僚、メディア、企業、教育関係者、研究者など全てに責任がある。
2013年10月に気候変動に関する政府間パネル(IPCC)が公表した第5次評価報告書では、地球温暖化を一定のレベルに抑制するためのGHG累積排出量の上限である「カーボン・バジェット」の概念が明確に示された。現在、気候変動枠組条約(UNFCCC)の下、条約締約国は、全球平均気温上昇を産業革命以前比で2℃以内に抑えることを目指すことに合意している(いわゆる2℃目標)。この合意は、論理的に考えれば、各国のGHG排出量削減数値目標をカーボン・バジェットとの整合性に照らし合わせて策定・評価することの重要性を示している。
2℃目標達成と整合する世界全体でのカーボン・バジェットを設定し、その中で一定のルールの下に国毎のカーボン・バジェットを割り当てて各国のGHG排出削減努力の分担の大きさを決めるアプローチは、すでに複数の研究グループや政府が提案している。日本でも、GHG排出削減努力の各国分担において広く参照される公平性基準に基づいた努力分担方法を用いて、日本に「公平」に割り当てられるカーボン・バジェットの算出がなされている(明日香ほか2014)。それによると、2℃目標達成に十分かつ「公平」な日本のGHG排出量は、2014年からただちにGHG排出削減を開始する場合、少なくとも2020年においては1990年比-22~-27%、2030年においては1990年比-54~-66%となる。しかし、現在、安倍政権が掲げるGHG排出削減数値目標は2020年に1990年比で+3.1%である。国際社会の要請と日本政府の対応のギャップは天と地ほどの差がある。
さらに、ほぼすべての先進国が石炭火力発電所の建設や使用の抑制を進める中、現在、日本では政府主導のもと多数の石炭火力発電所の新規建設が計画されている(2014年7月時点で計11.4GW)。これがすべて建設されると、40年間の稼働年数の間に排出するGHG総量は年間で1990年排出量の約5%にも相当する。GHG排出削減の先延ばしは、GHG排出の固定化を招いて将来の選択肢を狭める。温暖化対策という意味では全く非合理的で世界の流れに完全に逆行する政策を日本政府は実施している。この石炭火力発電所新設に関しては国内での議論は乏しく、国際社会においてはほとんど認識されていない。しかし、いずれは国際社会が知ることになり、そうなれば「日本は温暖化政策を完全に放棄した」という批判は必至である。
GHG排出削減数値目標に関しては、原子力発電の割合を含めたエネルギー・ミックスが確定できないために、GHG排出削減数値目標も策定できないという議論も聞く。しかし、仮に2014年8月時点で運転再開の申請が行われている13発電所の原子炉19基すべてが再稼働したとしても、CO排出回避量は、日本の1990年CO排出量の約5%である。日本に求められている削減が数十%であることを考えると誤差範囲を少し超えるレベルにすぎない。
9月21日にニューヨークで、筆者も偶然に参加した温暖化対策への取り組みを訴える史上最大規模のデモ(People's Climate March)が開催された。約40万人が6番街などの目抜き通りを埋め尽くした様子は壮観であり、感動的でさえあった(写真参照)。
写真1. 2014年9月21日ニューヨークでの温暖化マーチ:6番街を埋めつくす人々
写真2. 「Climate Justice(気候正義)」を訴える若者グループ
写真3. 「No War No Warming(戦争も温暖化もNO!)」と訴える女性グループ
写真4. 原子力発電反対を訴えるグループ
写真5. 温暖化懐疑論を否定する科学者のグループ
世界の他の都市でも同時にデモが行われ、ロンドンでは約4万人が参加した。一方、日本では、準備不足もあって参加者はわずか数十人だった。残念ながら、これが日本と世界との彼我差である。
このニューヨークでのデモの参加者は多岐にわたり、それぞれのグループが掲げるテーマでデモの隊列での場所が分けられていた。そのグループ分けは、1)温暖化被害者、2)労働者、家族、学生、シニアなど、3)解決策主張(再生可能エネルギー、省エネ、炭素税、安全な食物や水の希求、菜食主義、自転車愛好家)、4)企業糾弾、5)温暖化懐疑論に対抗する科学者、6)その他(地方自治体、コミュニティグループ、マイノリティ、シェールガス採掘のための水圧破砕工法であるフラッキング反対、戦争反対など)などであり、本当に多様な人たちだった。
以下では、デモにおいて最も頻雑に叫ばれた "What we want is climate justice!"というチャントのキーワードであり、共通の問題意識として通奏低音のように流れていた「正義(Justice)」という言葉に関して、米国において使われている背景や文脈を紹介したい。
米国は、周知のように、共和党と民主党による二大政党政治が続いている。そして、温暖化問題に関しては、主に共和党関係者が対策に消極的、民主党関係者が対策に積極的という二項対立的な構図が固定されている。ニューヨークでのデモにおいても、参加者が批判する対象は「大企業・独占企業」「差別・格差」「貧困」「資本主義」「ウォール・ストリート」「戦争」「先住民・マイノリティ」「原子力」などの社会経済システムに関わる問題であり、デモ参加者は「正義」に基づいた是正を強く求めていた。参加者の一部(約3,000人)は、翌日、ウォール・ストリートへのデモも敢行し100人が逮捕された。当然、これらの要求や行動は、現状を是認して大きな政府を嫌って自らの既得権益を守ろうとする保守や共和党支持者の立場とは鋭く対立する。共和党に近いシンクタンクやメディアが流す温暖化懐疑論の背景にも絶大な力を持つ利益集団がいる。具体的に言えば、世界第二の売り上げ規模を持つエクソン・モービル社や全米第三の大富豪であるコーク兄弟によるコーク産業などの石炭・石油産業が大量の資金を投じて温暖化懐疑論を広めている。
このような米国において「正義」を求める運動の中心人物の一人が、ジャーナリスト兼作家のナオミ・クライン(Naomi Cline)だ。彼女は、2007年の『ショック・ドクトリン―惨事便乗型資本主義の正体を暴く("Shock Doctrine: the Rise of Disaster Capitalism")(上・下)』(岩波書店)という著書で、戦争、インフレ、自然災害などの危機を利用して市場原理主義を推進や福祉国家の解体を唱える新自由主義思想(ネオリベラリズム)への批判を展開した。
このナオミ・クラインの最新作が、9月のニューヨークでのデモのわずか数週間前に発表された『これが全てを変える:資本主義対気候("This Changes Everything: Capitalism vs. the Climate")』であり、一冊丸ごと温暖化問題を真正面から取り上げている。彼女は、社会経済システムの問題として温暖化問題を論じ、「制御されない資本主義」が温暖化対策の最大の障害だとして糾弾する。そして、ドイツで見られるような政府の適切な政策に基づいた省エネと再生可能エネルギーの導入は、既得権益と戦うという意味で市民が新自由主義思想信奉者から「正義」を取り戻そうとする運動と直結し、それは苦行というよりも機会(チャンス)であって民主主義の再生にもつながると主張する。
もう一つの米国で注目すべき活動としては、米国の大学生が始めた投資撤退(Divest)運動がある。これは、大学基金の石炭、石油、ガス関連事業への投資を止めるよう要求する運動で、スタンフォード大学で始まり全米の大学に広まった。最近、石油で財を成したロックフェラー財団もDivest運動に賛同することを決めたことが、時代の変化を感じさせる象徴的な出来事として米メディアで大きく取り上げられた。この運動も、基本的には社会経済システムを変えようとする政治的な色彩を持つものであり、エネルギー会社という巨大な敵と戦っている。
冒頭で述べたように、日本においては、今の自民党安倍政権のもと、エネルギー問題でも温暖化問題でも状況は絶望的である。ただし、前の民主党政権の時でも、電力会社を支持基盤とする民主党議員が、実質的に再生可能エネルギーや省エネの進展を阻んだ。したがって、今の自民党よりははるかに期待できるものの決して過大な期待はできない。
また、米国も、市民やオバマ大統領の努力にも関わらず、米国が2015年のパリでの気候変動枠組条約第21回締約国会議(COP21)で野心的な数値目標を提示する可能性は高くない。逆に、共和党が両院で多数派となった現状においては、京都議定書と同様に、パリでの合意を米国議会が批准しない可能性は高い。なぜなら、米国では温暖化対策も含めて、内政に影響を及ぼすようないかなる国際条約も、共和党議員の反対などによって米国議会を通すのが極めて難しいからだ。
そういう意味では、どこでも状況は絶望的である。しかし、どんな絶望的な状況においても希望はある。それは、日本で停電も電気代高騰もないまま原発が停止しているという事実であり、原発に対してネガティブな感情を持つ人が多数を占めるという日本の民意だ。また、脱原発と脱温暖化の両立をめざすロール・モデルとしてのドイツであり、発電コストが低下し続ける再生可能エネルギーだ。
本稿で紹介したニューヨークでのデモも希望だと思う。この40万人もが参加したデモからは、温暖化問題の本質論という面でも問題解決のための運動論という面でも学ぶべき点は多い。繰り返しになるが、日本ではあまりにも多くの人が「エネルギーや温暖化の問題は、既得権益が絶大な権力を持つ社会経済システムをどう変えていくかという問題」とは認識していない。洪水、干ばつ、台風などの温暖化による悪影響を受ける人々にとっては、生き延びるか、あるいは殺されるかの問題だという認識も日本には希薄だ。
もちろん、「正義」を語るのは容易ではなく、絶対的な「正義」というのは存在しないのかもしれない。前出のナオミ・クラインの議論も単純すぎる部分はある。しかし、まず日本では何よりも「地球にやさしい」といった曖昧な言葉が浮遊する状況から離脱しない限り何も変わらないと思う。その場合、具体的な責任関係や「不正義」を明らかにする事が、対立を助長して日本的な「和」や「空気」を乱す場合もあるだろう。既得権益側からの攻撃や政治的なレッテル貼りがより強くなる可能性もある。しかし、現在の絶望的な状況から抜け出すには、何が「正義」で誰が敵かを明らかにすることは不可欠だと思う。
実は、ニューヨークでのデモでは、政治行動として先鋭化する部分(例:ウォール・ストリート占拠)、いわば縦に広がるベクトルとは別に、横に広がるベクトルもあった。それは、菜食主義者、自転車愛好家、有機農家、平和主義者、子の健康や安全を願う母親などのいわゆる「普通の人々」の存在だ。彼ら、あるいは彼女らは、右とか左、保守とか革新ではなく、単に自分たちの生き方や普段の行動の延長で温暖化問題やエネルギー問題を自分の問題と考えて行動していると思う。それは、ほんの少しでも自分と自分の周りと自分の子供たちの生き方を良くしたいという素朴な希求に基づいているように感じる。それも、彼ら彼女なりの「正義」の実践なのだろう。
今の日本は、エネルギーの問題でも、温暖化の問題でも、多くの人が状況を変えようと努力している。しかし残念ながらそれが国民全体や政権を動かすまでには至っていない。状況を変えるためには、まず「地球にやさしい」という誰にも責任を問わない言葉ではなく、「正義」という白黒をはっきりせざるを得ない言葉をキーワードとすることを提言したい。そして、このキーワードを媒介にして、エネルギーでも温暖化でも、国民に問題の本質をきちんと理解してもらって意識を一つ上のレベルに上げる。そして様々なグループの人々との連携によって横方向にも広げていく。それが今の絶望から抜け出すために必要であり、希望への一歩でもあると思う。
参考文献
・明日香壽川, 倉持壮, Fekete Hanna, 田村堅太郎, Hohne Niklas(2014)「カーボン・バジェット・アプローチに基づく日本の中長期的な温室効果ガス排出経路」IGES Working Paper 2014-02
・People's Climate Marchに関しては、下記の記事やビデオが参考になる。
○ NY Climate Justice March into the Street
○ The New Yorker誌の記事 The Wisdom of the Crowd
(2014年11月28日「Energy Democracy」より転載)
Energy Democracy <http://www.energy-democracy.jp> は、左右でもなく市場原理主義でも市場否定でもない「プログレッシブ」を場のエートスとする、創造的で未来志向の言論を積み重ね、新しい時代・新しい社会の知的コモンセンスを積み上げていくメディアです。
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