先日、西オアフのクニア地区にある日系人収容所、ホノウリウリの跡地を訪れました。
ここはハワイ最大の日系人収容所。第二次世界大戦時、日系アメリカ人以外にも、ヨーロッパ系アメリカ人、ハワイの在留外国人が収容されていた場所です。
by R. H. Lodge. Courtesy of Japanese Cultural Center of
Hawai'i / Hawaii's Plantation Village Collection
現在は荒れ果てた土地となっていますが、当時は約400人の民間人と4000人の戦争捕虜を収容し、175の建物、400以上のテントがあったそうです。
収容されていた民間人は大多数がアメリカ人。アメリカで生まれ、母国に忠誠を誓っていた人たちが、日系アメリカ人というだけで自国の政府から強制収容されたのです。
驚くことに第二次世界大戦前、アメリカ政府は日本が勢力を拡大していることを懸念し、すでに日系アメリカ人のリストを作っていました。
1941年12月7日早朝(日本時間8日)、日本軍による真珠湾攻撃の後、午後には戒厳令がしかれ、その日のうちに黒い車で日系人を捕まえ始めました。捕らえられたのは、多くがコミュニティのリーダーや先生、教職者、日系人社会の有識者でした。
1941年12月7日早朝(日本時間8日)、真珠湾 (by State Archives of Hawaii )
日本軍の攻撃を伝える新聞 (by State Archives of Hawaii )
因みに本土に住んでいた12万人もの日系人は収容所に送られましたが、ハワイでの日系人は総人口の約三分の一を占めていたため、一部の日系人の収容に留められました。ハワイでは日系アメリカ人の労働力がなければ、生活が成り立たなかったからです。
ホノウリウリは家族の訪問が認められていましたが、その場所はオアフ島のどこにあるのか明かされておらず、家族が訪れる際には途中目隠しをされたと言います。
ホノウリウリとはハワイ語で、「暗い入江」という意味。暑さと蚊の多さに苦しめられたその場所を人々は「Hell Valley, 地獄谷」と呼びました。第二次世界大戦終了後、建物は壊され、跡地はすぐに草地に覆われてしまいました。
収容された日系人が作ったエプロン(レプリカ)
このような状況下の中でも、心温まる話もあります。アメリカにはクリスマスカードを贈る習慣があります。収容者たちは、カードはもちろん現金を持つことも許されていませんでした。
監視するのもアメリカ人、監視されるのもアメリカ人。中には監視官が自費でクリスマスカードを買って、収容者から家族へカードを送らせてあげた事もあったそうです。心配する家族にとって、クリスマスカードが送られてきたことは、どんなに嬉しくて安心したことでしょう。
国に忠誠を誓っていながら収容された人たちは、さぞかし悔しかったはずです。収容者たちはお互いに助け合っていたそうです。
国への忠誠を表す為に、アメリカ軍に入隊する若者も多かった (by State Archives of Hawaii )
当時のホノルルの様子 (by State Archives of Hawaii )
何の罪もない民間人が、自国政府からこのような仕打ちを受けたホノウリウリ日系人収容所。1988年、ロナルド・レーガン大統領はこの事実を謝罪し、2015年2月バラク・オバマ大統領は、ホノウリウリ日系人収容所跡地を国定史跡に指定しました。
今、日本でも多くの人たちが戦争という言葉を身近に感じるようになりました。ホノウリウリ収容所は、[戒厳令下では自国の政府が民間人を監視する恐ろしさと、人権の尊さ]を、私たちに示しているような気がしてなりません。
ハワイ在住のアルヴィン・オカミさんが、収容された日系アメリカ人の気持ちを歌にしました。ホノウリウリの跡地の映像を見ながら、"ホノウリウリの歌"を聞いてください。
その他の写真撮影 : 塩沢淳子
Hawaii Web TVより転載