私は今まで、ゴシップに反応したことはありません。噓で成り立つ世界のために、エネルギーを費やすつもりはないからです。
だけど、以前から大きな問題になっている議論について、自分の意見を述べたいと思いました。私はソーシャルメディアで発信していないので、ここで自分の考えを書きます。
まず最初に言っておくと、私は妊娠していません。正直、うんざりしています。「ジャーナリズム」「合衆国憲法第1条」「セレブニュース」という名の下に、毎日自分のことを調べられ、身体についてあれこれ言われることに。
私の自宅の外には、写真を撮るためにどんなことでもする人たちが、カメラを持って毎日張り付いています。夫と私は、本当に迷惑しています。私たちや、不幸にも偶然近くを通りかかった人を危険にさらすような行為も、おかまいなしです。だけどここでは、安全の問題ではなく、「ゴシップ誌が私たちにどんな影響を与えているか」という大きな問題について書きたいと思います。
もし私が、ある人たちにとって象徴的な存在であるなら、それは母親、娘、姉妹、妻、同性の友人でしょう。
私がメディアにどう描かれるのかは、一般に女性をどう見られるかを反映しています。そしてそこには、歪んだ美の基準があります。「かなり細くなければ綺麗ではない」とか「雑誌の表紙を飾るスーパーモデルや女優のような見た目でなければ、注目されない」といったメッセージが、社会全体に、暗黙のうちに受け入れられています。
その暗黙の同意に対して、私たちは責任があります。受動的であれ、それ以外の方法であれ、女の子たちは、幼い頃からこの暗黙の同意を理解するようになります。そしてこの条件を受け入れながら大人になります。
だけどゴシップ誌は、「有名人のニュース」という形を使って、女性の外見だけを重視する考えを広めています。憶測にすぎないことを、競い合って伝えています。「彼女は妊娠しているらしい。過食症なんじゃないか。理性を失ってしまったのか。美しさにかげりが出てきたようだけれど、結婚生活が危機に瀕しているのか」
私はこれまで、ゴシップ誌はコミック本のようなものだと自分に言い聞かせてきました。真面目に受け止めるものじゃない。気晴らしが必要な人のためのメロドラマだ、と。だけどこれ以上そうやってごまかすことはできません。なぜなら、私が何十年もで体験してきた現実は、ストーカー行為であり、女性を消費する対象として扱うものだからです。
「有名人のニュース」という形を使って、女性の外見だけを重視する考えを広めている
特にこの一カ月「女性の価値が結婚や子供がいるかどうかで、決められている」と強く感じています。今、私が妊娠しているかどうかを知るためだけに、ものすごい時間を費やしている人たちがいます。その間に、銃撃事件や山火事、重要な最高裁の判決、大統領選など、「ジャーナリスト」が時間を割くべきをニュースが山ほどあったのに。
根底には「結婚して子供がいなければ、女性は完璧ではないし、成功していなし、幸せでない」といった考えがあると感じます。
私がこのブログで一番伝えたいのは「パートナーや子供がいてもいなくても人は完璧になれる。美しいかどうかは自分たちで決めるものだ」ということです。判断は他人ではなく自分でするものです。自分自身や私たちを基準と見ている若い女性のために、ゴシップ誌を無視して自分で決めましょう。完璧になるために、結婚したり母親になったりする必要はありません。「幸福な未来」は自分で決めるべきものですから。
パートナーや子供がいてもいなくても人は完璧になれる。美しいかどうかは自分たちで決めるものだ
私はいつか母親になるかもしれません。もし妊娠したら、自分の口で公表するつもりです。だけど、今は母親になりたいという気持ちはありません。セレブのニュース報道に、幸せな気持ちになれないから。私の体は変化しますし、ランチにハンバーガーを食べたり、不自然な角度から撮影された写真が「劣化している」かのように受け止められます。それに憤りを感じます。そして「妊娠している」か「太っている」と書かれて、友人や同僚、時には他人から(1日に何十回も)妊娠についての祝福を受けるという気まずい状態になるのです。
これまでの経験から、ゴシップ誌がすぐには変わらないことを学びました。でも、ゴシップ誌に対する私たちの意識、そして反応の仕方は変えられます。ゴシップ誌のストーリーは、まるで本当のことであるかのように書かれています。そして、私たちの考えや私たち自身に影響を与えるのです。だけど私たちは、何を信じるかを、自分で決められます。
私たちが自分で決めれば、いつかゴシップ誌は、もっと人間味のある伝え方をしなければならなくなるかもしれません。そうしなければ、消費者が嘘だらけのストーリーを買わなくなるのです。
ハフポストUS版に掲載された記事を翻訳しました。
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