地方への移住と聞いて、どんなイメージを持つだろうか。田舎暮らし、農業、自然、自給自足、そんな言葉に憧れ、昨今は雑誌でもよく移住特集が組まれている。地方への移住には、「息苦しい都会の日常から離れた桃源郷」のようなイメージがある。しかし、必ずしもそういった憧れから移住を選んだ人ばかりがいるわけではない。例えば、東日本大震災の後、原発の影響で避難せざるを得なかった人たち、自主避難した人たちの中には、自分の故郷から逃げて、新しい場所で一から生活を作り上げていった人も大勢いる。
震災から3年が経過した今、移住した人々の生活はどのようなものだろうか。彼らはそこから何を見出しているのだろうか。
■一人あたり所得ワースト2位の高知県への移住者が増加中?
高知県の県民一人あたり所得は217万8千円(平成22年度、内閣府 県民経済計算)で全国第46位、沖縄県に次いで低い。その経済的には豊かとはいえない高知県への移住者が増えているという。2011年の移住者は120組241人、2012年には121組225人、2013年は270組468人と急増している。(高知県庁 移住促進課)広末涼子を起用した「高知家」キャンペーンで高知の移住促進の取り組みが知られるようになり、それに対応して各市町村が移住相談員を置いたり、体験宿泊ができる場所を整備したりと環境を整えた結果だという。
「最初は、団塊世代のリタイヤメント移住が多いのではないかと思っていましたが、実際は20~40代の移住希望者が多かったです。特に東日本大震災の後、30~40代の方から暮らし方を考え直し、移住したいという問い合わせが増えました。ですので、職場や学校、子育て環境などの情報を充実させてお伝えしています。」(高知県移住・交流コンシェルジュ 長野春子さん)
休日は高知駅前の観光・宿泊案内所に移住相談の窓口が設けられる。
■生き残る力をつける暮らし方
「原発事故が背中を押した、って感じですかね。」妻と2人の子どもを連れて高知県土佐町に移住した渡貫洋介さんは当時を振り返った。千葉県出身、妻は有名なマクロビオティック料理家の長女。千葉県いすみ市で妻の両親の経営する宿と農場で、渡貫さん夫婦も働いていた。農的暮らしの中で子どもを育てるには、絶好の環境ではなかったのだろうか。
「良すぎたっていってもいいですね。」そう言いながら、渡貫さんの顔には笑みがこぼれた。「でも、妻の両親の経営している場所でしたから、いつかは独立して、自分たちの手でやりたいっていう思いはどこかにありました。ただ、そのときがこんなに早く来るとは思っていなかった。」
渡貫さんは、結婚前は野生のイルカと泳ぐツアーガイドを務め、オーストラリアにも5年住んでいた。震災後、海外の友人からまず「日本から出ろ!」というメールが届いたという。「国内メディアと海外の友人の言っていることがあまりにも違う。とりあえず熊本に3週間避難し、戻ってからもガイガーカウンターが手放せなかった。けれど時が経つにつれ、目に見えない放射性物質に慣れていってしまう自分がいました。夢に向かって進もうと移住を決心したんです。」
高知県には全く縁はなかった。西日本で移住できる場所を探していたところ、香川県の知り合いの紹介で、高知県嶺北地方で移住者をサポートするNPO法人、れいほく田舎暮らしネットワークに連絡をとり、土佐町にやって来た。
現在は、渡貫さん自身がれいほく田舎暮らしネットワークのスタッフとして、移住希望者のお手伝いをしている。
「高知以外の場所もいろいろ見に行きました。どこも良いところだけど、パーフェクトな場所はない。土佐町に決めたのは、同じような移住者や子育てをしている仲間がいて、気持ちを分かち合える人たちがいることが大きかった。子どもが将来通う学校を見学させてくれたり、地域の方と繋げてくれたりという、先輩移住者の心遣いもありがたかったです。」
現在は町営住宅に仮住まいしながら、山間部の空き家を住めるように改修している。そこは今まで移住者がいなかった地域なので、新しく一家で入っていくことになる。外から来た人は目立つので、「昨日~にいたでしょう。」と言われて驚くこともしばしばだ。車のナンバープレートで、どこにいたのかわかってしまうのだ。「インターネットより情報が早いですよ。」と渡貫さんは笑う。
渡貫さんと話していて感じられるのは、家族、特に子どもを守ろうという強い意志だ。しかし、それならば、放射能から逃れた先が、なぜ南海トラフ巨大地震が起こった際、大きな被害の予測もある高知になるのだろうか。
「どこに行っても100%安全というのはありえないですよね。海外への移住も考えましたが、原発や地震はなくても、環境や文化の違いからストレスを受ける可能性がある。何を自分たちが選択するかが大事で、僕たちがしっくりきたのがこういう生活です。ここで根を下ろして、地域と共に生きていくつもりです。南海トラフ? 情報収集や勉強はしています。でも、大勢の人が被災したときに国や組織が自分たちの地域に救援に来てくれるまで時間がかかるかもしれない。山奥に住もうと決めたのも、何かあったときに生き残る力をつけるためです。今はまだ来たばかりだし、子どもたちも小さいけれど...だから、南海トラフ、あと5年10年待ってね、という感じですね。」
■福島に戻るために今ここにいる
深谷美徳さんは福島県双葉郡の富岡町出身。今年2月まで10年以上福島第一原発で働いていた。震災後は両親と共にいわき市に避難し、福島第二原発の中で、CADで第一原発の設備の図面を書いたり、メーカーから上がってくる図面の管理をしたりしていたという。
「仕事場までは車で40分ですが、管理上、車での通勤はできなくて、途中で福島第二原発に入域出来るバスに乗り換えなくてはいけない。結果、片道1時間45分くらい通勤にかかるんです。家に帰ると疲れて寝るだけの生活でした。」
元々住んでいた富岡町の自宅付近は、避難指示解除準備区域に指定されている。「帰りたいですよ。自宅も震災の3年前に建てたばかりですしね。でも、避難指示解除っていっても、戻ってもスーパーも病院もないし、いきなり帰れるわけじゃない。富岡町を何とかしたいけれど、このまま仕事をしていても自分には何もできないと思って、思い切って環境を変えることにしました。」
ずっと福島県内で暮らしてきた深谷さん
2014年3月に高知県高知市の土佐山地域へ単身でやって来た。深谷さんと高知を結んだのはよさこいだった。深谷さんは、富岡町と同じ双葉郡の浪江町のよさこいチーム、Wonderなみえで10年近く活動している。震災後、仲間たちは全国にばらばらになったが、2011年の夏にチームの子どもたちに、高知県でサマーキャンプとよさこい祭りに参加できるという招待が来た。子どもたちと一緒に高知に来た深谷さんは、市内から車で20分ほどでありながら、豊かな自然をたたえた土佐山地域に滞在し、その美しさに目を奪われた。
Wonderなみえのメンバーは2011年から3年連続で高知のよさこい祭りに出演
今は高知のNPOの提供しているワークステイという仕組みを使って滞在している。ワークステイとは、NPOが住居を準備、地域の人や資源を紹介してくれるので、それを活用して地域で事業を起こすという移住促進の仕組みだ。しかし、深谷さんの場合は少し事情が違っている。土佐山地域にずっと住み続けるためではなく、福島の復興に役立つ事業を興したいとやってきたからだ。今年11月頃まで、8ヶ月あまり住み、その後は両親の待ついわき市にまずは戻るつもりだ。「ゆくゆくは富岡町に戻って、みんなが集まれるカフェみたいな場所をつくりたいと思っています。今は地域の人から学んでいるところですね。」
自分の故郷はやはり生まれ育った富岡町だという。「高知で何を見ても、福島と比べてしまいますね。子どもたちが遊んでいるのを見ても、福島ではこんな風に遊べないよなぁとか、タケノコを掘っても、福島のタケノコは今、食えないよなぁとか。」新緑の薫る高知の山中で、深谷さんの目は故郷の福島を見据えていた。
■「住み方」を選ぶこととは
この二人のみならず、たくさんの移住者に話を聞く中で共通していたことは、何もわからない中から、自分が大切にしたいことを優先して、住む土地、家、仕事などをひとつずつ獲得していったということである。「住み方」を選ぶことは「生き方」を選ぶことでもある。なんとなく、職場に近いから、便利だから、と住む場所を選んでいないだろうか。それも悪くはないのだが、「住み方」から、仕事、地域のコミュニティ、子どもの教育、余暇、人間関係など、人生の要素を組み替えることもできうるということを考えてほしい。どんなきっかけでの移住であっても、自らの意思で選択し、そのことに責任をとって、選んだ場所で生きていくことで自分自身を自由にすることはいくらでもできる。人は「住み方」を選ぶことで、もっと自由な人生を獲得していくことができるのではないだろうか。
(この記事はジャーナリストキャンプ2014高知の作品です。執筆:吉本紀子、デスク:開沼博)