アメリカの最近の研究によると、さまざまな食物を試してみる傾向の強い人は、そうでない人より肥満度が低いという。こういった研究に信頼性がどの程度あるのかは、しばらく待つ必要があるし、そもそも肥満大国のアメリカ人女性500人を対象にした意識調査なので、日本人に当てはまるかどうかはわからない。
ただ、その研究に出てきた言葉、「アドベンチャラス・イーター(adventurous eater)」という言葉をいたく気に入ってしまった。
子供のころ、母親に、「好き嫌いをやめなさい」と叱られて育ったが、ひょっとしたら、子どもたちにはそう叱るのではなく、「アドベンチャラス・イーターになりたくはないの?」とそれがいかにカッコいいのか教えていくほうが、効果的なのではないかと思った。もちろん、「アドベンチャラス・イーター」そのままでは子供には伝わらないので、うまく翻訳する必要があるけれど。
コンフォートゾーンから出ていろいろな体験をすることが、創造性のアップにつながるという話は耳にタコができるほど聞いているし、自分でもそうだと思っている。どちらかと言えば、自分はそういうチャレンジをしているほうだと思っていたが、食に関して「アドベンチャラス」だったかなと考えてみると、ほとんど冒険をしたことがないことに気がついた。
体に害がないとわかっているもので、食べたことをないものを食べてみることは、100%に近い安全を確保された行為である。せいぜい、飲み下すまでの何十秒間の間、その味と舌触りを我慢すればすむ話だ。
なのに、僕は、ついつい尻込みしてしまい、そういった冒険を楽しむことが少ない。
ああ、どうせ人生ももうすぐ終わりだから、食べたことないものを食べてみなきゃ、と思った。
だけど、もうひとつ感じたことがある。
たとえば、食に関してこんなにも臆病な僕だけど、たとえば、こうやって実名で毎日のようにブログを書いている。実名で書くブログというのは、喜びもあるけれど、リスクもある。
そのリスクを僕は甘受している。
あるいは、会社を辞めて自分でビジネスを始めた。
中年期に会社を辞めることには、大きなリスクがあった。だけど、やむにやまれぬ動機に突き動かされて、僕はそのリスクをとった。
きっと、人間は、いくらアドベンチャラスでいようとしても、全方向にそうであることはできないのだ。
僕は文章を書くのが好きだし、ビジネスも好きだ。
好きで仕方がないからこそ、その分野ではリスクがとれる。「とれる」というか、おさえきれない衝動に「とらざるをえない」ところへ導かれるのだと思う。
僕は食べることにはあまり強い興味がない。
きっと、そうだから、「アドベンチャラス・イーター」にもなれないのである。また、無理に「アドベンチャラス・イーター」になる必要もないのではないかと思えてきた。
逆に言うと、こういうことも言えると思う。
自分の好きなこと、ほんとうにやりたいことがわからないという人が多い。だが、きっと多くの人は、自分がほんとうに好きなものには「アドベンチャラス」で、リスク許容度が高くなっているのではないだろうか。
自分が「アドベンチャラス」でいる分野、ほかの人が尻込みするようなことなのに、自分はついやってしまうようなこと、そこにこそ、もっとも強いパッションが宿っているのではないだろうか。
ところで、あなたは「アドベンチャラス・イーター」ですか?
僕も不得手分野とはいえ、食べたことがないけど、美味しいと言われるものは、(多少は)積極的に(?)食べていきたいと思っている。
(20157月28日「ICHIROYAのブログ」より転載)