『ソウル・キッチン』などで知られる、ドイツの名匠ファティ・アキン監督が、ダイアン・クルーガーを主演に迎えて制作された『女は二度決断する』が4月14日より公開となる。
近年、欧州は移民増加と、それに呼応するかのような社会の右傾化の問題に直面しており、欧州映画にもそれらを題材にした作品が増加している。トルコ系移民を両親に持つファティ・アキン監督にとってこのテーマは他人事ではない。以前から移民の視点でドイツ社会を描いてきた同監督。今回は、2000年代にドイツで起こったネオナチ組織NSU(国家社会主義地下組織)による連続テロ事件に着想を得た作品だ。
クルド系トルコ人のルーツを持つ夫と息子と幸せに暮らしている白人女性のカティヤはある日、夫と息子がネオナチのテロに巻き込まれてことを知り、悲嘆にくれる。夫はかつて麻薬の売買に手を染めて収監されていたこともあるが、今は足を洗い真面目に働いていた。そうした経歴もあってか、警察は外国人同士の裏組織の抗争を疑うが、カティヤの証言により白人カップルが容疑者として浮上。裁判が始まるが、司法の場でも、被害者であるはずの夫の人種や前科をあげつらわれることになる。
本作をいかなる思いで作り上げたのか、ファティ・アキン監督に話を伺った。
多数のドイツ人に関係ないことだと思ってほしくなかった
――NSUの事件を知った時、トルコ系移民の血を引く一人としてどのように感じましたか。
ファティ・アキン(以下アキン):一番心を乱されたのは、殺害という事実よりも、10年という長い間、被害者たちが責められ、捜査の対象になったことです。警察だけでなくメディアも被害者側を非難しました。たとえば、被害者がトルコ系の移民というだけでマフィア関係者だったのではと言われたりとか。
つまり、ドイツ社会の中に広く人種差別があり、被害者が被害者であることを許されなかったのです。
――この題材で差別を描くのであれば、主人公をトルコ人などの移民にするというアイデアもあったと思います。主人公を白人の女性にしたのはなぜでしょうか。
アキン:移民などのマイノリティへの攻撃を描くのは簡単なことです。しかし、それでは多数のドイツ人は、攻撃されているのは移民であって、自分たちは関係ないことだと感じてしまうかもしれないと思いました。
そうではなく、この事件で、ネオナチの攻撃対象となったのはドイツ人なんです。ドイツ人がドイツ人を殺しているのです。移民の両親がいたとしても、ドイツで生まれ、ドイツ文化で育った人が殺されているのです。そのことをしっかりと受け止めてほしいと思い、白人の主人公に設定しました。
――監督はこの映画の舞台ハンブルク出身で、監督の子供の頃と今を比べて、移民のバックグラウンドを持つ人々にとってどちらが暮らしやすい社会でしょうか。
アキン:それはもちろん今ですね。
――この映画で描かれる現実はとても厳しいものですが、それでもかつてよりは前進していると?
アキン:ええ、ネオナチは80年代にも人を殺していたし、第二次世界大戦の頃のドイツは世界で最も恐ろしい場所でしょう。その頃に比べればドイツ社会は進歩しています。例えば移民系の人々も、ドイツ人であると認識されるようになってきました。ただ、移民の人たちが自分自身をドイツ人だと自覚できているかどうかという問題もあります。自分たちもドイツ社会の一員だと自覚しなければ、受け入れてもらうことは困難でしょう。トルコ系移民は、なかなか母国を忘れずにいて、自分たちをドイツ人だと自覚しない人も多いんです。
――反イスラム運動「ベギーダ」などはどのように感じていますか。
アキン:愚かな運動だと言いたいところですが、それでは社会は何も変わりません。そうした運動に携わる人々に暴力的な人が多いことは確かですが。
私の兄が郊外に住んでいて、近所の若者がバイキングのタトゥーをしているんでが、かつてネオナチだったそうです。彼は私の兄に出会ってネオナチをやめたそうです。彼はそれまでトルコ人に会ったことがなかったんです。それぞれの子どもが同じ学校に通っていてクラスメイトだし、兄もよくしてくれたからと。
この問題も同じことだと思います。対話によって彼らの恐怖心を理解することができるかもしれない。お互いの考えに共感できる部分、理解できる部分を見つけられるかもしれません。
――この映画を作るにあたって、たくさん取材していると思いますが、ネオナチにも取材を試みたのでしょうか。
アキン:元ネオナチの人々に話を聞きに行きました。ドイツには「EXIT」という、ネオナチ活動から足を洗いたい人向けのプログラムがあるんですが、それに参加した人たちにどんな服装だったのかとか、当時の思考や思想などの話を聞きました。
一番興味深かったのは、ネオナチは映画が好きで、ナチスが出てくるものならなんでも好きなんだと言っていたことです。それこそシンドラーのリストでさえも。(笑) 鉤十字が出てくればとにかくそれで満足で、自分たちの広告のように感じるそうです。なので私は、ネオナチの映画を作るにあたって、そういうシンボルを出すまいと決めました。
主人公の決断の瞬間、映画の神様からの贈り物があった
――ギリシャのシーンでキャンピングカーに鳥が止まっているカットがありました。あれは脚本段階で予定していたのでしょうか。
アキン:いえ。カメラ2台で撮影していて、ダイアン・クルーガーを撮ろうとしていたんですが、たまたま鳥が飛んできたので、助手に鳥を撮影しておくように言ったんです。その時点では、実際にその映像を使うかわからなかったし、使えるかどうかもわかりませんでした。本当にあれは神様からの贈り物と呼べるような何かだったと思います。映画の神様が私の撮ってきたものに満足してくれて、ご褒美をくれたかのような、そんな感覚になりましたね。
――その偶然の鳥が、映画の中でカティヤの重大な決断に影響を及ぼしています。ということは脚本段階ではカティヤの決断理由は別のものだったということですか。
アキン:キャラクターの内なる世界を描くというのは、とてもむずかしいことで、あの瞬間、彼女は自身のことを振り返ったのだと思います。
もし誰かの命を奪ってしまったら、その後は良心の呵責とともに生き続けねばならない、それは耐えられないことだと。しかし、その内面の変化を観客に伝えるのは難しい。脚本を書いている時も、どう表現しようかいろいろ考えましたが、あのカットによってそれを力強く伝えることができたと思います。