巨人軍創立80周年企画 多摩川グラウンドフォーエヴァー

巨人軍の歴史を語るうえで、外せないのが多摩川グラウンドだ。練習の場として、多くの選手が切磋琢磨した。
時事通信社

巨人軍の歴史を語るうえで、外せないのが多摩川グラウンドだ。練習の場として、多くの選手が切磋琢磨した。現在は設備も充実した読売ジャイアンツ球場(2軍の本拠地でもある)に移行し、"常勝巨人"の宿命を背負い続ける。

■巨人軍の聖地のひとつ、多摩川グラウンド

多摩川グラウンドは1965年6月、巨人軍専用の練習用グラウンドとして完成し、「一流」と言われる選手が育った場所である。ONなどのV9戦士はもちろんのこと、江川卓投手、中畑清選手、西本聖(にしもとたかし)投手、定岡正二投手、新浦壽夫(にうらひさお)投手、篠塚利夫(現・和典)選手、鹿取義隆投手、角三男(すみみつお)(現・盈男(みつお))投手、槙原寛巳投手、桑田真澄投手、斎藤雅樹投手などがここで汗をかき、巨人軍栄光の歴史に名を残した。また、『月刊ジャイアンツ』誌(報知新聞社刊)で、「多摩川の青春」というコーナーがあり、毎号多摩川グラウンドで汗を流すファームの選手を紹介していた。

しかし、1985年、よみうりランドの近くにジャイアンツ球場が完成すると、練習場所や環境は徐々に変わってゆき、ここ2年(1996・1997年)は多摩川グラウンドで、1度も練習を実施しなかったという。河川敷のせいか、天候に左右されやすく、1991年秋には1週間の長雨で水没してしまった。

現役選手が最後の練習をしたのは、1998年3月中旬で、この日はP-KAN(晴天)。約1,000人のファンが多摩川グラウンドに目を焼きつけていた。

■多摩川のOB(レジェンド)たちが続々登場!!

同年3月22日10時過ぎ、東京急行電鉄東横線多摩川園(現・多摩川)で下車し、多摩川グラウンドに向かう。前夜の天気予報では、雨とアナウンスされていたが、さいわいハズレた。ただし、いつ雨が降ってもおかしくない。

多摩川園駅を出て、徒歩10分以上かかり、多摩川グラウンドに到着。すでにたくさんのファンが集まっていた。この日をもって、43年の歴史にピリオドを打つ。最後は"巨人軍多摩川のOB"による紅白戦で締めくくる。

多摩川グラウンドを歩く江川投手(左側)と新浦投手(右側)。

多摩川グラウンドには多くのOB、江川投手、柴田勲選手、宮本和知投手、岡崎郁選手、大久保博元捕手、中畑選手などが久しぶりに土や芝を踏み、感触が感慨深い様子だ。私は1989年まで着用していたアイボリーのユニホームが好きなので、ナマで見ると、"プロ野球に興味を持った頃の巨人軍"が脳裏に浮かぶ。

試合前の練習。OBが着用するユニホームは、百花繚乱。

曇天という、あいにくの天気の中、OBたちはキャッチボールなどといった練習を始める。サヨナラセレモニーまで雨が1滴も落ちないことを祈る。

■最後のバッターは巨人ファン

予定通り、13時ジャストにプレイボール。白組の先発は背番号30の江川投手、紅組の先発は背番号28の新浦投手である。

1回表、江川投手が四球を与え、中畑選手が1塁へ歩く。

1回表、江川投手と中畑選手の対決が実現。現役時代、前者はエース、後者はチームリーダーという役割を担い、一時代を築いた。ファンとしては、"世紀の対決"に映る。

江川投手が投げた球はストライクが入らず、カンタンに四球を与えた。OBといえども、やりにくいのだろうか。

先発の大役を終え、マウンドを降りる江川投手。

江川投手は2イニングを無失点に抑え、奪三振はなし。ストレートは伸びがあり、これぞプロというキレ味だった。

新浦投手は、韓国球界を含め5球団でプレーした。

一方、紅組先発の新浦投手は1イニングを3人で抑えた。

この試合はいいゲームだったし、面白かった。

2塁へ投げる中畑選手。背番号21の宮本投手は代打で登場。

1番目立っていたのは紅組3塁手の中畑選手で、声援が多ければ、ヤジも多かった。珍プレーの連続で、試合を盛り上げた。

また、ウグイス嬢も公式戦では、まず聞くことがないアナウンスもあった。

紅組の代打に再度、大久保捕手がバッターボックスに立とうとしたときだ。

とアナウンスされると、本人がズッコケ、この打席も凡退に終わった。

試合は白組2-紅組3(2対3)。紅組1点リードの6回ウラ、白組の攻撃を迎えた。この回でラストイニングとなる。

毒蝮三太夫(どくまむしさんだいゆう)が栄光の多摩川グラウンドでプレー。

白組は代打に毒蝮三太夫を送り出し、空振り三振でゲームセット。2-3で紅組が勝った。ちなみに、この試合は軟式球と金属バットを使用した。

■終球式で43年の歴史に幕

終球式の模様。

試合終了後、終球式が行なわれ、V9時代の功労者3人が登場した。

マウンドにはV9時代に投手コーチを務めたのち、監督として優勝4回、日本一2回を記録した藤田元司氏があがる。キャッチャーは当時の正捕手、森祇晶(もりまさあき)氏で、現役引退から11年後、西武ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)の監督に就任し、黄金時代を築いた。

バッターボックスには、V9時代の名監督、川上哲治氏が登場。豪華な顔ぶれだ。始球式は投手が1球だけ投げて、どんなタマでも打者が空振りをする"お約束"となっているが、終球式は違った。

ほかの選手や観客などが静かに注目する中、藤田氏がいくら投げてもストライクが入らない。ようやく"打ちごろ"のボールを投げると、川上氏がフルスイングし、右方向へのクリーンヒットで終球式が終わった。

いよいよ、サヨナラセレモニーへ。まず川上氏のお言葉から始まり、マウンドのプレートを撤去。最後は、中畑選手の3本締めをもって、多摩川グラウンドは43年の歴史に幕を閉じた。

多摩川グラウンドは、選手や首脳陣の汗と涙がしみ込んだ"青春の舞台"だった。

なお、巨人は多摩川グラウンドの土地を国に返還した。

注目記事