『あまちゃん』が終わった。最終週のタイトル「おらたち、熱いよね!」は、視聴者にも当てはまる言葉だった。今回は舞台のひとつである「北三陸鉄道リアス線」こと、三陸鉄道北リアス線の一部区間に乗ってみた。
■ 北三陸は遠い
NHK連続テレビ小説『あまちゃん』の大ヒットで、「北三陸に行きたい」と胸をときめかせる人は多いと思う。その道のりは、想像以上に遠い。岩手県は北海道に次ぐ広大な面積がそうさせているのだろうか。
東京から「北三陸」こと久慈へ行くルートとしては、おもに4つある(交通機関のみ取り上げる)。
1つ目は、JR東日本東北新幹線〈はやぶさ〉か〈はやて〉のいずれかに乗り、八戸で八戸線普通列車久慈行きに乗り換える。東京―八戸―久慈間は5時間以上かかる(〈はやぶさ15号〉新青森行きと八戸線普通列車久慈行き443Dの乗継で4時間50分)。
参考までに、東北新幹線東京都区内―久慈間の料金(通常期)は、下記の通り。
●〈はやぶさ〉+八戸線普通列車:16,370円(運賃9,870円、新幹線指定席特急料金6,500円)
●〈はやて〉+八戸線普通列車:15,870円(運賃9,870円、新幹線指定席特急料金6,000円)
八戸線はやっかいな路線で、鮫―久慈間は2時間おきという難点がある。とはいえ、久慈で三陸鉄道北リアス線に接続している。
仮に花巻空港から4キロ先のJR東日本東北本線花巻空港で列車を利用しても、山田線久慈―釜石間が不通なので、八戸経由しか選択肢がない。
このほか、青春18きっぷ、北海道&東日本パスのルートもあるが、ここでは割愛する。
2つ目は、岩手県北バスと富士急行バスの共同運行による高速夜行バス〈岩手きずな号〉で、芝浦車庫―久慈営業所間を結んでいる。1日1往復、所要時間は約12時間、運賃は高くても10,000円を超えない。
3つ目は、東北新幹線盛岡から岩手県北バスの高速バス〈久慈こはく号〉に乗り換える。盛岡バスセンター―久慈営業所間を結び、1日3往復(1往復は毎日運転ではない)、所要時間は約2時間30分、運賃は2,200円だ。
4つ目は、東北新幹線盛岡からジェイアールバス東北の〈白樺号〉に乗り換える。盛岡駅―久慈駅間を結び、1日5往復、所要時間は2時間42分、運賃は2,790円だ。
東京―久慈(北三陸)方面へは、東北新幹線と高速バスの乗り継ぎが理にかなっている。
参考までに、東北新幹線東京都区内―盛岡間の料金(通常期)は、下記の通り。
●〈はやぶさ〉〈スーパーこまち〉:14,340円(運賃8,190円、新幹線指定席特急料金6,150円)
●〈はやて〉〈こまち〉〈やまびこ〉:13,840円(運賃8,190円、新幹線指定席特急料金5,650円)
5つ目は、東北新幹線二戸からジェイアールバス東北の〈スワロー号〉に乗り換える。二戸駅―久慈駅間を結び、1日7往復、所要時間は2時間10分、運賃は1,500円だ。
参考までに、東北新幹線東京都区内―二戸間の料金(通常期)は、下記の通り。
●〈はやぶさ〉:15,500円(運賃9,350円、新幹線指定席特急料金6,150円)
●〈はやて〉:15,000円(運賃9,350円、新幹線指定席特急料金5,650円)
■ 観光客で満員御礼
私は14時過ぎに八戸線の普通列車で久慈入りした。ホームの跨線橋は北リアス線とつながっているが、接続時間がかなりあるので、構内踏切を通り、JR東日本駅舎を出る。
駅前は『あまちゃん』の舞台であることを大々的にアピールしている。東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の災害から2年たち、"町全体はかなり元気を取り戻した"という表れだ。1995年1月17日に発生した兵庫県南部地震(阪神大震災)と異なるのは、大地震そのものによる建物の倒壊が少なかったことで、津波が襲来しなければ、今頃は完全に風化し、『あまちゃん』も存在していなかったと思う。
三陸鉄道駅舎にまわるとしよう。
久慈駅前の噴水では、放課後の女子高生たちが"いこいの場"と化している。久慈駅舎は2つあるので、待ち合わせ場所として、うってつけだ。一方、三陸鉄道駅舎のトイレ付近では、男子高校生1人がウロウロしている。いずれも北リアス線の列車を待っていると見た。後刻駅舎に入ると待合室がないのだ。
14時20分を過ぎると、駅舎内が人でいっぱいになった。この日は観光ツアー4社が14時45分発の北リアス線田野畑行きに乗る。駅前には観光バスが2台止まっていたので、4社中2社は"バスを降りたら、すぐ列車に乗る"スケジュールを組んでいたと思う。
駅舎に入り、人の波をかきわけ、券売機にたどり着く。首都圏では当たり前となったタッチパネル式ではなく、食券のようなタイプだった。現在、田野畑から先の乗車券を買うことができない。北リアス線は宮古―小本間、田野畑―久慈間の折り返し運転で、不通となっている小本―田野畑間は、岩手県北バスを利用しなければならないからだ(列車代行バスではない)。
現時点、宮古―久慈間を利用するには、北リアス線宮古―小本間750円、岩手県北バスの連絡バス小本駅前―田野畑駅前間380円、北リアス線田野畑―久慈間960円をそれぞれ支払い、合計2,090円かかる(運賃はすべて大人)。参考までに北リアス線宮古―久慈間は1,800円なので、2014年4月予定の全線復旧が待ち遠しい。
さて、14時45分発の田野畑行きは、車掌乗務の4両編成だ。14時30分頃、駅員は団体客を先にホームへ誘導し、一般の乗客はあととなった。
窓口では、『あまちゃん』のポスター縮小版(絵葉書だと思う)を写真たてに、その横にはアメ横女学園の着せ替えジャケット4点をマキシシングルケースにそれぞれ入れ、明るい雰囲気を醸し出している。後者は、2013年8月28日に発売された『あまちゃん歌のアルバム』(ビクターエンタテイメント)初回生産分の付録だ。
階段を登り、跨線橋を歩く。窓からホームを覗いてみると、北リアス線のりばは100人以上が田野畑行きを待っている。八戸線は1面2線なのに対し、北リアス線は1面1線しかなくホーム幅も狭い(ホーム幅3.3メートル、ホーム有効長70メートル)。ホームに入れない乗客は跨線橋の階段で立ち止まる。若い人にとっては『あまちゃん』効果を実感し、長く住み続けている人たちにとっては、三陸鉄道開業当時の1984年4月1日に戻った感覚で、この光景を見つめているように映る。
ほどなくして、北リアス線運行本部車両基地から田野畑行きが動き出す。警笛を何度も軽く鳴らし、ホームに入線した。前2両はJR線直通の長距離運用(臨時快速〈リアス・シーライナー〉用)に備えたリクライニングシート、後ろ2両はこの車両(36形)の基本となるセミクロスシート(ボックスシート&ロングシート)で、座席に差がつく。ただし、台車は前2両コイルバネ台車、後ろ2両ボルスタレス台車と異なる。後者はブレーキ装置の強化により、台車を交換したもので、2013年度まで全車完了する予定だという。
ホームの有効長は約3両分しかないため、4両目(最後部)の側扉(乗客が乗り降りする扉)は全区間締め切りとなった。私は3両目後方の側扉から乗り、すいている最後部車両(4両目)に移動。ボックスシートはすでに最低1人坐っている状況なので、おとなしくロングシートに坐る。
「御乗車ありがとうございます。14時45分発、田野畑行きです。本日、4両編成となっております。全席自由席となります。なお、4両目のドアは開きませんので、御注意ください」
車掌が車内放送をすると、女子高生たちは新鮮に聞こえる様子で、半ば興奮していた。普段は自動放送のワンマン運転なので、"地元の非日常"に衝撃を受けているのだ(参考までに八戸線は、全列車車掌乗務)。
なお、三陸鉄道の乗務員は、全員運転士兼車掌である。
■ 車掌の車内放送が心地いい
14時45分に発車。ディーゼルエンジンがうねりをあげ、加速する。
「お待たせいたしました。本日も三陸鉄道北リアス線、御利用いただきましてありがとうございます。14時45分発、陸中野田、普代方面、田野畑行きです。終点の田野畑まで各駅停車してまいります」
車掌の声は明るく弾んでいた。イキイキとした車内放送が心地よく聞こえる。北リアス線、南リアス線とも不通区間があるものの、"三陸鉄道は元気です"と遠方からの乗客にアピールしているかのようだ。
私が乗車している車両は、前2両に比べずいぶん静かで、地元民は淡々と過ごす。トイレの壁面には『あまちゃん』ポスターを2枚掲示、パンフレットラックの右横には、『あまちゃん』のロケで実際に使われた車両だとアピールしている。この記事を御覧いただいている『あまちゃん』ファンの皆様、「36-208」を探してみてはいかが?
「クラブツーリズム第2国内御一行様、宮古観光御一行様、JTB御一行様、JAかづの御一行様、本日は御乗車いただきまして、ありがとうございます。短い時間ではございますが、三陸鉄道列車の旅をどうぞごゆっくりお楽しみください。途中通過する景色のよいところでは、列車の速度を落として運転してまいります。車窓からの景色をお楽しみください。本日は御乗車いただきまして、ありがとうございます」
ていねいで温かみがある車掌の車内放送は、まさに「お・も・て・な・し」。陸中宇部を発車すると、車掌の車内放送は、観光列車の雰囲気となる。
「次はソルトロード、陸中野田。陸中野田に停まります。このあたりでは昔、塩づくりが盛んに行なわれておりました。天然の塩や海産物を牛の背に載せて、北上高地を越え、内陸まで運んだという塩の道が残っております。次は陸中野田に停まります」
「ソルトロード」というのは、陸中野田の愛称駅名だ。岩手県盛岡市のデザイン会社が提案したものを三陸鉄道は受け入れ、車内放送と駅名盤に愛称駅名を添えている。愛称駅名の選考は、北リアス線島越と田野畑のみ三陸鉄道、ほかの駅は沿線市町村がそれぞれ行なった。
■ 津波の痕跡
田野畑行きは陸中野田に到着し、団体列車と行き違う。36-600形『さんりくしおさい』(イベント用レトロ調車両)で、週末は団体以外の旅客列車で運用されている。この日は団体利用が多かった模様で、三陸鉄道の列車そのものが観光地と化している。
陸中野田を発車し、最後部車両がポイントを通過すると、車掌の観光車内放送が始まる。
「次は西行の庵(いおり)、野田玉川。野田玉川に停まります。野田玉川には、かつて日本最大のマンガンを産出した野田玉川鉱山がありました。現在は、その構造を利用したマリンローズパークに月明かりの鉱石が展示されております」
車内放送終了後、乗客、乗務員は、悲惨な光景を目のあたりにしなければならない。
進行方向左側には太平洋が見え、2011年3月11日14時45分までは、穏やかな車窓だった。ところが1分後に発生した東北地方太平洋沖地震で一変する。大地震の影響で津波が村を襲ったのだ。沿線の岩手県九戸郡野田村では、37人死亡、512棟が被害を受けた。
現在、進行方向左側では、防潮堤(第1の堤防)、北リアス線の側壁(第2の堤防)、進行方向右側の内陸側でも盛り土(第3の堤防)の建設工事が行なわれ、2015年度までの完成を目指している。乗客の一部は、この光景を目に焼きつけていた。
■ 北リアス線の名車窓健在
「次は義経の祈り、堀内(ほりない)。次は堀内に停まります。列車はこれより先、海沿いを運転してまいります。進行方向に向かいまして、左側が海側となります」
野田玉川を発車すると、車掌は北リアス線の絶景車窓が近づいていることを予告した。陸中野田からトンネルが多くなり、なおかつ非電化ローカル線の各駅停車としては速い最高速度90km/hで飛ばす。
第一安家(あっか)川(がわ)トンネルを抜けると、田野畑行きはスピードを落とし、安家(あっか)川(がわ)橋梁(きょうりょう)へ。あいにくの曇天だが「景色のよいところ」に入った。
「ただいま通過中は、長さ302メートル、高さ33メートルの安家川橋梁でございます。北リアス線で、一番の車窓を楽しめるところとなっております。左手には親潮と黒潮がぶつかり、世界三大漁場のひとつに数えられる三陸の海が広がっております。
列車を流れる川は、清流として名高い安家川です。川の上流には、日本最長の鍾乳洞(しょうにゅうどう)とされております、安家(あっか)洞(どう)がございます。また、この川では、カワシンジュガイの生息も確認されております。清流にしか住めないとされる動植物の宝庫とされております。秋には車窓からでもサケの遡上(そじょう)を見ることができます。高さ33メートルの安家川橋梁です。
次に停車いたします堀内駅は、NHK朝の連続テレビ小説『あまちゃん』では、袖が浜駅として登場している駅でございます。堀内駅では2分ほど停車いたします。記念撮影の方は、この時間を御利用ください」
進行方向左側は、奥に太平洋、手前に安家川が見える。東北地方太平洋沖地震発生前に乗車したときに比べると、津波の被害は私の想像以上に小さかった模様だ。ただ、国道45号線と立体交差する地平道路は、中央の白線が薄くなり、ガードレールが流され、一部再設置されていた。
田野畑行きは安家川橋梁の中央あたりで一旦止まる。これならコンデジ撮影でブレることはない。
北リアス線田野畑―陸中野田間復旧後もこのサービスを再開したのが正直意外だった。"この海を見ると、津波の残像がよみがえるのではないか?"と思ったからだ。私自身、東北地方太平洋沖地震発生から約3か月間、津波が発生すらしていない海を見るだけで残像がよみがえり、トラウマとなっていた。
三陸鉄道の人たちは、『あまちゃん』の夏ばっぱと同じ強い精神力を持っていた。大きな被害を受けて、困難な課題に直面しても、ブレなかった。復旧、復興に対する強い執念がなければ、『あまちゃん』が世に出ることはなかったと思う。
第二安家トンネルを抜け、15時12分に堀内着。『あまちゃん』の北三陸鉄道リアス線袖が浜駅だ。
降りると、雨が再び降ってしまった。ここで2分程度停まり、記念撮影タイムにあてる。『あまちゃん』ロケ地とあって、団体客の一部は一旦降りて、満足げな笑みを浮かべていた。
堀内で下車したのは、下校の高校生が中心で、観光目的は私を含め3人しかいなかった。雨は少し強くなり、本降りになりそう。
停車時間を2分延ばし、15時16分に発車。田野畑行きは"「堀内トンネル」という名の闇の彼方"へ消えた。
■ 堀内の下も津波被害にあっていた
堀内は岩手県下閉伊郡(しもへいぐん)普代村に所在し、国鉄久慈線時代の1975年7月20日に開業した。1984年4月1日に三陸鉄道北リアス線の駅に変わり、現在に至る。
私は堀内のホームを眺める。ホーム有効長は約3両分あり、久慈からの列車は右から左への曲線を描いている。上屋の長さは1両分あるかないかといったところ。
前回乗車時、私は停車中の列車内から太平洋を撮影していた。あれから4年経過し、過去と今を比べると、普代村漁業協同組合堀内水産物荷捌施設は津波に耐えたが、一部の家屋等は消えた。雑草が多くなり、「過疎化」の3文字が頭に浮かぶ。後刻、地下道をくぐると、雨に濡れていたせいか草の香りがした。
下車すると、階段は高台、地下道は太平洋が間近に見える道しるべだ。高台の国道45号線は交通量がそこそこあり、田野畑方面へ向かって歩くと、「建設省三陸国道工事事務所堀内雨量測定所」がある。建設省はすでに国土交通省に再編されているが、プレートは「建設省」のままだ。普代村の雨量はここで決まる。
案内板に従い右折すると、堀内郵便局(堀内駅から徒歩7分)があり、素朴で味わい深い建物が印象に残った。平日の9時から16時までは旅行貯金ができる。中に入ると、50代の男性と女性が切り盛りしており、一部の蛍光灯を取り外して営業していた。晴天だったら蛍光灯なしで営業していたと思う。
■「堀内駅ノート」と「『あまちゃん』にありがとうを伝えようプロジェクト」
堀内駅に戻ると、ホーム内の待合室には「堀内駅ノート」、「『あまちゃん』にありがとうを伝えようプロジェクト」の箱がある。
前者は田野畑―陸中野田間が復旧する4日前の2012年3月28日から始まった。このノートは有志が寄贈したもので、当初は三陸鉄道公認ではなかった。
このノートは誰も自由に、駅に立ち寄った思い出、つぶやき、叫びなどを残していけます。長い待ち時間を利用して何かを書けば、心やりともなぐさみともなりましょうし、かつてこの駅を訪れた人々の足跡を読めばそこの人は居(お)らずとも、人の心の残り香を感じ得ましょう。
この堀内駅から国道沿いに北西へ行くと安家川橋梁を臨(のぞ)む下安家漁港が、南西へ行くと大沢橋梁を臨む堀内大橋に着きます。
下の堀内漁港に降りて、海岸沿いに南東へ歩き、トンネルを抜けて道なりに進むと大沢橋梁を真下から臨む沢漁港です。
久慈ありすポスターに描かれている場所は、この待合室を出て右(宮古方面)へ、ホームの端です。
enjoy! 2012.03.28
【出典:堀内駅ノート】
翌日、三陸鉄道久慈駅長が運転再開前の巡回で、堀内を訪れ、堀内駅ノートを発見した。すると、駅長はあふれるものがこみ上げたかの如く、すぐに綴った。
堀内駅に開通前巡回に来ました。ノートがありびっくりしています。どうか、みなさん、このノートを大事にしてあげて下さい。
堀内駅が多くのみなさんに愛されますように。
2013.03.29 三陸鉄道久慈駅長
【出典:堀内駅ノート】
こうして、堀内駅ノートは三陸鉄道"公認"となった。
乗客初の書き込みは、北リアス線田野畑―陸中野田間が復旧した2012年4月1日で、1番列車を利用した。
堀内駅との再開おめでとうございます!!
堀内駅の乗客第1号です!! 2012.4.1(5:46)
【出典:堀内駅ノート】
堀内は太平洋を高い位置から眺められるせいか、『あまちゃん』放送開始前からそこそこの人気があったようだ。当初、ハイペースでなければスローペースでもない程度で堀内駅ノートが書き込まれていたが、2013年4月1日に『あまちゃん』がスタートすると一変する。
2013.4.12(金)
今日のあまちゃんの北三陸駅 いがったー
【出典:堀内駅ノート】
2013.9.1
名古屋から来たよ
【出典:堀内駅ノート】
同年4月12日以降、堀内の来訪者が増え、ノートの書き込みがハイペースとなり9月1日に完結した。2冊目があることを信じたい。
後者は朝の連続テレビ小説『あまちゃん』支援推進協議会主催で、『あまちゃん』の出演者、スタッフに感謝の気持ちを伝えるもの。メッセージ用紙に記入し、誹謗中傷以外はすべてNHKに送るらしい。
■ 人に優しい三陸鉄道
ホームで列車を待っていると、海鳥の鳴き声が聞こえた。私は"どこかで聞いたことがあるな"と思っていたら、『あまちゃん』オープニングテーマで採り入れていたことに気づく。海鳥の鳴き声は、もちろん楽器を使っており、ドラマと同様に"芸が細かい"のだ(2013年12月30日放送の『"あまちゃん"ライブ完全版!!~大友良英と仲間たち大音楽会~』によると、この鳴き声はネコだという)。
雨は横殴りとなり、上屋か待合室しか居場所がない。復路となる久慈行きは、往路の折り返し列車だとわかっているので、できればホームの久慈寄りに行きたいが、おとなしく上屋で待つ。
堀内トンネルから光が見え、久慈行きが姿を現した。私はホームの前寄りに移動しようとした直後、久慈行きが上屋部分で止まった。4両編成なので、後ろ2両はホームからはみ出している。
運転士は先頭車前寄りのみ側扉を開ける。復路の久慈行きはワンマンカーで、JR北海道と同じ先頭車前乗り前降り方式だ。
私は先頭車のボックスシートが空いていたので、早々に坐る。復路は後ろ2両のリクライニングシートを味わいたかったが、回送扱いとなっており、立ち入り禁止となっていた。往路の列車に乗車した際、2両目と3両目のあいだは、運賃箱が仕切り代わりとなっていた理由が解(と)けた。
運転士が4両編成にもかかわらず、上屋部分に止めた理由は、2両編成停止位置に従っただけ。前2両は旅客営業、後ろ2両は回送なので、3両編成停止位置に止めなくてもいいのだ。
終点久慈に到着。運転士は1両(注、1両のみ運転の場合、「1両編成」とは言わない)の停止位置に止めた。ホームの上屋部分に先頭車が止まり、乗客は大助かり。雨に濡れずにすんだばかりではなく、改札口や八戸線ホームまでの距離が短くなるからだ。運転士のフレキシブルな対応は、まさに「お・も・て・な・し」。
乗客全員が降りると、運転士は車止め付近まで進む。その後、進行方向を変えて、北リアス線運行本部車両基地に回送した。
■ 三陸鉄道の歴史
三陸鉄道は1981年11月10日に発足した、第3セクター方式の株式会社である(自治体、民間企業が出資)。その契機となったのは、1980年12月27日に「日本国有鉄道経営再建促進特別措置法」が成立し、国鉄(正式名称は「日本国有鉄道」)の不採算路線を廃止させることだった。廃止が決まった場合、沿線の地元自治体等は、別の鉄道事業者が引き継ぐか、バスに転換するかの二者択一が迫られたのだ。
同年中に第1次廃止対象地方交通線(「特定地方交通線」ともいう)として、久慈線(久慈―普代間)、宮古線(田老―宮古間)、盛線(盛―吉浜間)が入り、鉄道公団の建設線(田老―普代間、吉浜―釜石間)は、工事が中断する事態となる。当時、久慈線、宮古線、盛線は開業から5~10年しか経っていなかった。
岩手県と関係市町村は協議を行ない、「久慈線、宮古線、盛線の存続」、「建設線の早期開業」という思いが強く、迷いはなかった。田老―普代間、吉浜―釜石間が開業すれば、長年の悲願だった三陸縦貫鉄道が完成するからだ。
三陸鉄道発足後、1982年2月に運輸大臣(現・国土交通大臣)から事業免許が交付され、3月には建設線の工事を再開。翌1983年中に建設線と36-100・200形気動車(『あまちゃん』では「電車」と発する人がいたが、正確には「気動車」という)が完成した。
1984年4月1日、三陸鉄道が開業。宮古―田老―普代―久慈間は北リアス線、盛―吉浜―釜石間は南リアス線とした。北リアス線と南リアス線は直接つながっていないが、宮古―釜石間は国鉄山田線(現・JR東日本山田線)が"パイプ役"となり、同年夏季から国鉄と三陸鉄道の直通運転が始まる。当初は臨時列車のみだったが、1987年3月22日から定期列車の相互直通運転を開始し、盛―久慈間の各駅停車などが誕生した(その後、定期列車は三陸鉄道車両のみの1往復運転となった)。
1988年7月24日、仙台―八戸間を東北本線、石巻線、気仙沼線、盛線、南リアス線、山田線、北リアス線、八戸線を経由する三陸縦貫鉄道ルート列車、臨時快速〈三陸パノラマ号〉(JR東日本の車両で運転)が登場し、全区間の所要時間は約11時間という長距離列車だった。しかし、利用客は少なく、三陸縦貫鉄道列車はヒットしなかった。
再び三陸縦貫鉄道列車が走ったのは、1997年夏の臨時快速〈リアス・シーライナー〉で、仙台―久慈間を運転(三陸鉄道の車両で運転。一時期、JR東日本の車両も戦列に加わっていた)。今度はPRに力を入れ、好評を博した。以来、2010年まで三陸縦貫鉄道列車は"夏の風物詩"として定着する。1999年からは運転区間を臨時快速〈三陸パノラマ号〉と同じ仙台―八戸間に変えた。
三陸鉄道開業後、度々大きな地震に見舞われ、自力で復旧できたものの、2011年3月11日の東北地方太平洋地震発生直後は全線不通となった。現在は北リアス線宮古―小本間、田野畑―久慈間、南リアス線盛―吉浜間が復旧。2014年4月には全路線の完全復旧が予定されている。ただし、北リアス線と南リアス線のパイプ役である山田線宮古―釜石間は、依然不通のままである。
(この記事は、2013年9月28・30日のYahoo!ニュース個人「『あまちゃん』の北三陸鉄道リアス線こと、三陸鉄道北リアス線一部区間に乗る-前編-」、「『あまちゃん』の北三陸鉄道リアス線こと、三陸鉄道北リアス線一部区間に乗る-後編-」から転載しました。転載に際し、加筆及び画像を追加しています)
★備考