メディアの「主体」と「客体」:猪谷千香さんのお話を聞いて

ダイバーシティのある社会は、「主体」と「客体」を区別しない。

駒澤大学グローバル・メディア・スタディーズ学部2017年度「実践メディアビジネス講座I」シリーズ講義「メディア・コンテンツとジェンダー」の5回目、ゲスト講師による講義の4回目は、文筆家でハフポスト記者の猪谷千香さんをお迎えした。

まずはゼミ生のレポートから。

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<ハフポスト 猪谷千香さんの講義感想レポート>

小寺瑛里子

昭和天皇の健康状態が悪化し、社会が「自粛」ムードに包まれていた1988年。皇居前にお見舞いの記帳に行って、マスコミの取材を受けた女子高生がいた。記帳に訪れた人は他にもたくさんいたのになぜ、という彼女の疑問は、その後大学を卒業し、新聞記者として働き出してから解けることとなる。現在はハフポスト記者で文筆家の猪谷千香さんに講義をしていただいた。

1 講義の概要

(1)メディアの現場

入社した産経新聞で働くこととなった現場は、大学院まで学んだ考古学の発掘現場と同様、「男の職場」だった。12、3人いた同期の取材記者のうち女性はたった2人。部長クラスには女性がいたが、その上にはおらず、子育てをしている女性もあまりいなかった。取材先は男性中心、社内の仕事も男性のペースで早朝から夜中まで進む。うまく合わせられず、何度も生理不順や重い生理痛になるなど身体に影響が出た。

最初の仕事は「若い女性警察官」の取材だった。当時、デスクから「写真を撮るなら若い女性を撮れ」との指示があったことを強烈に覚えている。高校生のころ、皇居での記帳の際、取材対象に自分が選ばれたわけがわかった。若い女性はそれだけで「価値」があるのだ。取材する側となったことで、マスメディアでは女性が「主体」ではなく「客体」として扱われていることを意識させられた。

現在の職場に移ったのは2013年。ハフポストは最初から男女5:5の職場だった。子育てをしている人も少なくなく、多様性があって仕事しやすい環境だ。ここで働くようになってから、女性記者としての「自分」問題から、社会全体のダイバーシティの問題へと関心が広がっていった。

(2)メディアの中のジェンダー問題

ここ数年、ジェンダー問題でCMが炎上するケースが目立つ。

2015年 1月 サイボウズ「パパにしかできないこと」

2015年 3月 ルミネ「働く女性たちを応援」

2015年10月 AGFブレンディ「旅立ち」

2016年 9月 志布志市ふるさと納税「少女U」

2016年10月 資生堂インテグレート「今日からあんたは女の子じゃない」

2017年 5月 ユニ・チャームCCHANNEL「生理中の彼女についての彼の本音」

2017年 5月 ユニ・チャーム「その時間がいつか宝物になる」

思い出してみれば、こうした批判はずっと以前からあった。

1975年 ハウス食品「私作る人、僕食べる人」

1996年 日産スカイライン「男だったら乗ってみな」

なぜこんなにたくさんの先例がありながら炎上をくりかえすのかと思う。おそらく広告を作っている人たちには経験があるが、広告を作らせている人たち、つまり広告主である企業で決済権を持つ人たちの意識が低いのではないだろうか。広告は基本的に広告主のリクエストに応えなければならず、結果として炎上と謝罪が繰り返される。この状況は、企業で決済権を持つ人たちの意識が変わらない限り、今後も変わらず続くのではないか。

もちろん、批判すればいいというものではない。SNSの力でノイジーマイノリティの声が実態以上に大きく伝えられてしまうことも少なからずある。炎上の頻発で、ソーシャルメディア上の評判に敏感な企業が増えているが、行き過ぎがあることも否定できない。表現の自由とどうバランスをとるかは、常に問題となりうる。どんな主張も、リテラシーに裏打ちされたものであるべきだ。

炎上していないものは問題がない、というわけではない。最近目につく、「美人すぎる○○」「○○女子」といった表現は、ある職業や領域において女性であることに、ことさらに価値を見出すものだろうが、それはそもそもその職業や領域が女性が少ない男社会であることを前提としており、かつ、女性の場合のみ外見を付加価値として評価する考え方があるから使われるのだ。これらの表現に対する批判はあまり聞かれないが、ほめているからいい、というものではない。

CMでは、アフラックの「とある奥さま・夫の病室編」が気になっている。「夫役の西島秀俊さんが入院したことをきっかけに、病気やケガで働けなくなり収入が減少してしまうと、医療保険で治療費はカバーできるものの、住宅ローンや子どもの教育費などの支出が家計の負担になることに気づき、<給与サポート保険>に関心を持ち始めるという内容」(同社ウェブサイトより)だが、妻が夫の収入に依存して生活することを当然のように描いているのは違和感がある。何より、夫の立場になってみれば、入院後駆けつけてきた妻が自らの容態より世帯の収入を気にしているといった図はあまりにひどい。このCMは炎上もせず今も放映されているが、男性の目からこれはどう映るのだろうか。

女性が「伝統的な男女の役割分担」を押し付けられて苦しんだり憤ったりしている裏では男性も、「伝統的な男女の役割分担」を押し付けられて苦しんだり憤ったりしているのではないか。

こうした状況にある日本人がうらやむべき例の1つは、フィンランドのやり方だろう。フィンランドにおける平等の原則は、性別だけでなく、年齢、出身、言語、信仰、健康状態を問わない。フィンランドは1906年、性別、階層、富や地位にかかわらずすべての成人市民に参政権を与えた。女性参政権としては欧州で初めて、世界では3番目であり、女性に選挙権、被選挙権を同時に与えた世界初の国でもある。

実情を聞こうと、フィンランド大使館に勤める参事官(当時)、ミッコ・コイヴマーさんにインタビューした。フィンランドには「イクメン」ということばがないという。「男性も育児をすることは普通なことなので」それを表す「特別な言葉は」存在しない、とのことだ。父親の考え方、社会の受容、制度の整備を組み合わさった、こうした取り組みが100年以上、積み重ねられた結果であって、すぐに日本がまねできるとは考えにくい。

(3)メディアの役割

こうした中で、日本の状況を改善していくために、メディアはどうすべきか。1995に北京で開催された第4回国連世界女性会議において「女性とメディア」がテーマとして取り上げられ、メディアで伝えられるコンテンツに関するジェンダー分析の実施、受け手のメディアリテラシーの育成、送り手のジェンダー研修、国や民間メディア挙げてのメディア表現のガイドライン作りなどの必要性を謳う行動要領を採択した。

現在の日本ではこのレベルに到達できているとは考えられない。それでも、メディアに関しては、できることがある。たとえば子どもが触れるコンテンツ。幼児が多く見ているであろう『サザエさん』や『ちびまる子ちゃん』などのいわゆる国民的アニメでは、主人公の家庭は多くの場合、外で働く父親と専業主婦、それに子どもで構成されている。母親が外で働く家庭を描く作品があってもいいのではないか。その意味で、働く女性や女性リーダーが多く登場する『ポケットモンスター』は評価できると思った。

それぞれの個人も、ソーシャルメディアでは発信者となる。自らの発信する内容が、ジェンダーバランスやダイバーシティの観点からどうなのかには気をつけるべきだろう。しかしそれが行き過ぎてしまうのもいただけない。表現の自由とのバランスをとっていく必要がある。

2 感想

猪谷さんの講義は、職場の男女差や映像表現などにおけるジェンダーバランスといったいわゆるジェンダー関連の典型的な話題にとどまらず、マタハラ(マタニティーハラスメント)やイクメンなど、最近話題に上がっているテーマが数多く含まれ、興味深く聞くことができた。猪谷さんの関心の広さは、書かれた記事の中によく表れている。

レゴで女性科学者のワーク・ライフ・バランスを表現 イギリスの女性考古学者がTwitterで発信【画像】(2014年08月23日)

マタハラ被害の女性たちが「マタハラNet」を設立 「妊娠、出産しても働き続けられる社会を」(2014年07月30日)

「イクメン」という言葉がない国フィンランド--ミッコ・コイヴマー駐日フィンランド大使館参事官に聞く"世界一幸せな子育て"(2013年06月17日)

同性カップルでも「結婚に相当」の条例案、なぜ生まれた? きっかけつくった渋谷区議に聞く【LGBT】

2015年02月17日

【LGBT】同性愛者の女子高生に聞いてみた。学校や大人に何を求めますか?(2015年12月18日)

「ズートピア」のガゼルは男性か女性か聞いてみたら......?(2016年07月08日)

サイボウズ・青野慶久社長にブロガー・kobeniさんが聞く「ワーキングマザーが泣いて、怒った動画」舞台裏 徹底座談会【前編】(2015年04月20日)

どうしたら育児を「自己責任」から「社会で育てる」に変えられる? サイボウズ・青野慶久社長と子育てブロガー・kobeniさんの徹底座談会【後編】(2015年04月21日 )

若い女性がメディアの関心の対象になりやすいというのはうすうす感じていたが、実際に「若い女性を撮れ」という指示が出されるほどだとは思わなかった。マスメディアの読者や視聴者には女性も多いはずだから、「若い男性やイケメンを撮れ」という指示もあってよさそうなものだと思うが、もしそうでないとすると、やはりマスメディアの現場は依然として「男性の論理」で支配されているということなのだろう。メディアはジェンダーに関するさまざまな「炎上」事件を伝える前に、自分たちのジェンダーバランスをチェックすべきではないだろうか。

また、SNSでは自分が発信者としてメディアの主体になるという指摘にも、はっと気づかされた。他の人の発信に対して「ジェンダー問題に対する理解がない」と思ったりすることもあるが、自分の発信内容についても、他の人はそのように思っているかもしれない。意図に反して炎上してしまったさまざまな事例も踏まえて、ふだん使うものだからこそ、SNSの発信のしかたやジェンダーに対する考え方など、見直していかなければならないと思った。

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学生のレポートにもある通り、猪谷さんの講義は、自らが「女子高生」としてメディアの取材対象となった原体験から始まった。やがて自らがメディアの記者として取材する「主体」の側に回り、メディアの取材の「客体」としての女性(特に若い女性)の価値と、メディアの「主体」としてはマイノリティに属する自分とのギャップに気づくという話で、メディアにおける女性の扱いの二面性を自ら実感されたわけだ。

講義の中で取り上げられた1975年のハウス食品CMは、当時大きな話題となったことを記憶している。せっかくなので産経新聞で探したがこの時期の記事はデータベースにないようなので、朝日新聞の記事を挙げておく。

なぜ女が"作る人"なの 「差別CM」とリブが抗議 「男女差別」CM(朝日新聞 1975年10月1日)

テレビの女性差別に抗議運動を続けている「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」(会員、市川房江さんら約五百人)の会員が三十日、こんどは東京・日本橋のハウス食品工業東京本部を訪れ、同社のインスタントラーメンのコマーシャルについて、「男女の役割を固定化し、差別を助長するもので許せない。一カ月以内に中止しない場合には不買運動を含めた対抗手段を検討する」と通告した。

ここで言及されている「国際婦人年」は1975年、つまりこの問題が起きた年だ。6月から7月にメキシコシティで国連が開催した国際婦人年世界会議において、国際婦人年の目標達成のため、その後10年にわたり国内、国際両面における行動への指針を与える「世界行動計画」が採択された。上掲記事中の「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」(後に「行動を起こす女たちの会」に改名し1996年まで活動した)は、女性国会議員らが呼びかけ人となり、同年1月から活動を始めている。

この年は、これ以外にも女性の地位向上においては大きな進展があった。Wikipediaからいくつか抜き出してみる。世界の動きに呼応して政府も動き、この流れから、10年後の1985年、男女雇用機会均等法につながっていくことになる。

3月15日 家庭科の男女共修をすすめる会、永井文相に家庭科の男女共修を要望

4月5日 大学婦人協会、「マスコミにあらわれた婦人像」テーマで集会

4月10日 秋田地方裁判所、秋田相互銀行の2本立賃金表による男女差別は違憲と判決、賃金の男女差別訴訟に対する初の判決

6月17日 衆議院本会議、「国際婦人年にあたり婦人の社会的地位の向上をはかる決議」全会一致で採択

9月12日 東京地方裁判所、既婚女子であることを理由とする解雇に、憲法・労働基準法に違反するとして無効の判決

9月23日 労働省、国家公務員試験の女性差別改善を指示 

9月23日 行動を起こす女たちの会、「世界行動計画」に基づいてNHKに申し入れ、女子職員をもっとプロデューサーや解説者に起用せよ等、性差別改善28項目

10月16日 人事院に女子に国家公務員試験受験を認めない職種の開放を申し入れ

このうち9月23日のNHKへの申し入れは特にメディア表現との関連が強いので、再び記事データベースでみてみる。

「差別告発」TVもヤリ玉 婦人グループ まずNHKへ 男女差別告発(朝日新聞1975年9月24日)

「ニュースはいつも男のアナウンサーで女は天気予報だけ、ドラマに出て来るのは家庭的で従順な女性ばかり。そんなテレビの女性差別は許せません」。家庭科教育のあり方について永井文部大臣にかみついたり、三木総理に直談判したり、このところ大活躍の「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」が今度はテレビ番組をやり玉にあげ、二十三日、市川房江さんら代表がNHK会長に会って申し入れをした。

CMへの抗議も含め、テレビにおけるジェンダーバランスは、少なくともこの時点で既に問題視されていたことがわかるが、記事中の若干揶揄するようなトーンが現代の視点からは気になる。実際、当時こうした活動を行っている女性たちは、少なからず批判的な目にさらされていた。ハウス食品CMの件は、ハウス側がCMを取り下げることで決着したが、その際の記事に「識者」たちのコメントが載っていて、当時の雰囲気を伝えているので一部引用してみる。

つくる人 食べる人"差別CM"やめます 女性の抗議に"降参" 放送は今月限り 「男女差別」CM(朝日新聞1975年10月28日)

ハウス食品側は、中止の理由について、「消費者などからの反応は、あのままでいい、という声が圧倒的に多かったが、少数の声でも、謙虚に耳を傾けていくのは当然。騒ぎが大きくなってCMの本来の制作意図とは異なった受け取られ方をしていることも無視出来ない」(東京本部広報室)としており、さしあたり、別の製品や十一月中に予定している新製品のCMに切り替えていく、という。

(中略)

漫画家サトウ・サンペイさん

例のコマーシャルについては、別に、けしからんという理由は何もなかった。そんなことをいい出したらきりがないことで、男が差別されてることだってある。(以下略)

弁護士鍛冶千鶴子さん

社会的影響が大きいからやめる、というんですか。なんだか、それも宣伝じゃないか、というニオイがしますね。しかし、基本的には、男女の分担を固定化する考え方にはがまんできないので、一つの前進とみるべきでしょう。(以下略)

評論家上坂冬子さん

中止はほんとですか。なんてだらしない。差別CM、というのも一つの見方かもしれないが、茶の間の大多数の主婦は、そんなものに神経をいらだたせてはいない。そんな感覚では、男女差別の本当のポイントからはずれてしまう。(以下略)

いうまでもなく、こうした際の「識者」は新聞社の意向で選ばれているわけで、当時の朝日新聞自体が、こうした動きにあまり好意的ではなかったとみてよいだろう。そしてそれはおそらく、社会全体としてもそうだった。この時点で専業主婦世帯は共働き世帯の約2倍であり、「茶の間の大多数の主婦は、そんなものに神経をいらだたせてはいない」という指摘は、実態とそう大きくずれてはいなかったものと想像する。つまり「女たちの会」は、社会のマジョリティからみれば、「(一部の)(いきり立つ)女たちの会」だったわけだ。

そしておそらく、状況は今も大きくは変わっていないのではないか。シリーズ講義第1回の自分の担当回の中で、メディア業界各社における女性の状況について触れた。別記事で書いた、朝の情報番組出演者の状況は、上掲記事の「ニュースはいつも男のアナウンサーで女は天気予報だけ、ドラマに出て来るのは家庭的で従順な女性ばかり」という状況とまったく同じではないが、根っこのところではそう大きく変わっていない、ともいえる。

こうした状況に視聴者たちの苦情が殺到という話は寡聞にして聞かない。女性を「産む機械」にたとえた2007年の厚生労働大臣の発言は大きな批判を呼んだが、朝の情報番組における男女の伝統的役割分担は今でもさしたる違和感なく受け入れられている。

メディアの側にも、伝える「主体」というより、「客体」として関心の対象となることを自らのメディアにおける役割としている女性がいるようだ。次の記事は、見たとき驚愕したのだが、考えてみればこれこそが「本質」なのかもしれない。この方がフジテレビに入社したのは2008年4月であり、現在はこういうことはしないだろう。しかし他の局も含め、多くの女性アナウンサーが実態としてはジャーナリストよりタレントやアイドルに近い存在であることは認めざるを得ないのではないか。

加藤綾子アナ、フジ入社試験でスカートまくり上げ...(日刊スポーツ2017年7月11日)

フリーアナウンサーの加藤綾子(32)が、フジテレビ入社試験でセクシーポーズを披露するよう求められたことを明かした。

加藤は、10日深夜放送の「クジパン」に出演。フジの新人、久慈暁子アナに、自身の経験などからアドバイスした。

入社試験の話になり、加藤は「『セクシーポーズをしてください』って言われたの」と振り返り、突然の要求に戸惑いながらも「ちょっとスカートのすそを上げたの。セクシーっていうからちょっと見せた方がいいかと思った。膝上まで」と明かした。

その意味で気になったのは、こうした状況が、猪谷さんのいうように「作らせている人」の意識の低さによるものなのか、そもそも「作らせている人」とは誰なのかという点だ。猪谷さんが言及した「作らせている人」は広告主企業の経営者や幹部で、典型的には中高年男性がイメージされているだろう。総じて、女性の権利を主張する言論は、「敵役」として中高年男性を暗に想定していることが多い。依然として変わらない「男性中心の社会」において権力を握っているのが典型的にはこの層であるということは事実だ。しかし、その人たち「だけ」なのか、というと、必ずしもそうではないのではないか。

この点については、既に書いた。国立社会保障・人口問題研究所による第5回全国家庭動向調査(2013年調査)では、妻たちのうち、「結婚後は、夫は外で働き、妻は主婦業に専念すべきだ」に対して「まったく賛成」と答えたのが5.4%、「どちらかといえば賛成」が39.5%と、合わせて賛成は44.9%に達する。これらの人々にとって、メディアで見られる「ワンオペ育児」や「家事を『手伝う』」に対する感想は、怒りを表明している人々とまったく同じではないだろう。

「男女の戦い」と「忘れられた人々」(2017年6月5日)

こうした女性たちは、それぞれの家庭においても、夫たちに「伝統的な男女役割分担」を期待しているだろう。だとすれば、この人々もまた「作らせている人々」といえるのではないか。2017年のJXエネルギー「ENEOSでんき」のCM「安い電気に替えるか、稼ぎのいい夫に替えるか」はアフラックのCM「とある奥さま・夫の病室編」よりは強い批判を呼んだようだが、その中に女性は相対的に少なかったという印象を受けている。「ワンオペ育児」CMを批判した人の多くが女性であったことと対照的だが、これらの人々は、むしろ1つのグループと考えた方が適切ではないかと思う。

こうしたCMに批判的な意見を持たなかった人たちは、糾弾されるべきなのだろうか。炎上CMの広告主企業が追い込まれたように、謝罪すべきなのだろうか。

言い換えてみよう。たとえば誰かが「専業主婦」(もちろん「主夫」でもよい。性別にとらわれない呼称が欲しいところだ)という選択をすることは、ダイバーシティの観点から許容されるものといえるだろうか。こう聞かれれば、おそらく「YES」と答える人が多いのではないか。その選択を強要されているなら別だが、自らの意思で選んだのであれば、それは個人の選択として尊重されるべきだろう。いうまでもないが、ダイバーシティとは、誰もが同じ考え方をするということではない。仕事を通じて社会と関わりたい女性たちの活動を阻害せず促進すべきとする言論と、家庭での仕事を大事に考える女性たちを批判する言論とは、はっきり区別されるべきだろう。後者はダイバーシティの推進とはいえない。

では、メディア上で専業主婦を描くことは「男女の固定的役割分担を助長」することにつながるだろうか。確かに、『サザエさん』や『ちびまる子ちゃん』、『クレヨンしんちゃん』や『ドラえもん』など、いわゆる「国民的アニメ」とされるアニメ作品においてはいずれも、主人公の母は専業主婦だ。しかしこれらの作品が「国民的アニメ」と呼ばれるのは、子どもが見ているからではない。むしろ、親などの大人が子どもたちがいっしょに見るからだろう。専業主婦世帯として描かれるのはむしろ大人の視聴者対策かと思う。

そもそも、こうした番組の存在にもかかわらず、専業主婦世帯は減り、共働き世帯は増えている。総務省「労働力調査(詳細集計)(年平均)」によれば、2014年時点で「男性雇用者と無業の妻からなる世帯」は687万世帯であるのに対して「雇用者の共働き世帯」は1,114万世帯であり、2倍近い。今や専業主婦世帯の方がマイノリティなのだ。

「私作る人」の時代にはほぼ2:1だった専業主婦世帯と共働き世帯の比は1990年代初頭から拮抗し始め、90年代終わりにははっきりと逆転し、その後差は拡大の一途をたどって現在に至っており、その間ずっと専業主婦世帯を描き続けた国民的アニメ作品等の影響は特段みられない。むしろバブル崩壊の端緒(90年代初頭)から金融危機とリストラの嵐(90年代末)に至る経済環境の変化、及び、1986年に施行後、96年、99年と2回にわたって緩和された労働者派遣法などの制度変化やそれに伴う非正規雇用労働者の増加などに影響されたものとみるべきだろう。

表現への批判は、どうしても表現の自由の制約を主張するものとなりがちだ。「バランスをとるべき」といっても、適切なバランスがどのあたりなのかについての意見は人によって異なるだろう。強い意見、汚い言葉ほど大きな影響力を持ちがちなメディア空間で、批判の応酬は容易に馬糞の投げ合いに堕することとなる。批判するならアニメその他のような非現実の表現物より、現実のメディア、たとえば朝の情報番組出演者のジェンダーバランスなどに対してのものの方が適切ではないかと思う。

また、もしメディア表現の影響を主張するなら、あれは悪い、これは悪いとあげつらうより、むしろいいものをほめていく方が前向きではなかろうか。猪谷さんは講義の中で、働く女性が活躍する『ポケットモンスター』や、ゲーム開始直後のキャラクター選択の際、性別ではなく「スタイル」を選ぶように促す『ポケモンGO』をほめておられたが、これはいい方向性であるように思う。いずれも世界展開しているゲームであり、こうした配慮はむしろ当然なのだろうが、こうした歓迎すべきメディア表現をどんどんほめ讃えていくといいのではないか。

連想したのがGLAAD Media Awardsだ。GLAAD(中傷と闘うゲイ&レズビアン同盟)はアメリカのメディアモニタリング団体だが、LGBTコミュニティにおいて著しい功績のあったメディアや人物を讃える賞として、毎年数多くの映画やテレビドラマ、演劇やマンガ、新聞や雑誌などの分野で賞を贈っている。こうしたもののジェンダー版を、日本でも考えてみてはどうか。既にあるのかもしれないが、きちんとお金を集めて、目立つようにやるといい。政府が口を出すとまたあれこれいわれがちだから、民間ベースがよさそうだ。

GLAAD

GLAAD Media Awards

もしやるなら、可能であれば、「女性」だけでなくLGBTその他の性的少数者、あるいはエスニックマイノリティ、その他病気や障害などで苦しんでいる人たちなど、幅広い層の「苦しんでいる人々」を応援するような表現を対象とするといいと思う。

そのように考えるのは、女性のための運動がかつてのような「おっかない少数者」のものであった時代はもう終わった方がよいと考えるからだ。かつて運動をリードした団体や活動家たちの功績はむろん賞賛に値する大きなものであり、その成果が少なくとも一定程度そのこわもての姿勢によって勝ち取られたものではあろうことも否定しないが、それから数十年たつ今、実態が改善しつつあるとはいえそのペースが思わしくないのは、突き詰めれば賛同の輪が当時からあまり広がっていないからではないか。社会を変えていくための運動を「戦い」と呼ぶ人は少なくないが、もしこれが戦いであるならば、今は既に「不心得者を叩く戦い」から、「より多くの賛同者を集める戦い」の段階に移行している。

インターネットは、個人による情報発信のハードルを下げ、その力を飛躍的に拡大した。メディアの「主体」はもはや、マスメディアで表現物を作り伝える人たちだけではない。受け手もまた、マスメディアから発信される情報を受け取るだけ、あるいはその情報の対象となるだけの「客体」にとどまらず、それらの情報の評価や独自の発信などを通して、自らメディアの「主体」になりうる時代だ。

発信者が多様化した社会では、個人の発信も多様な受け手への影響を問われることとなろう。多様な人々が暮らす中では、好意的な反応ばかりではないはずだ。社会を動かしたいのであれば、そこで対決ではなく対話をもって接する必要がある。他者のあり方、考え方を認めずにダイバーシティを実現することはできない。互いの意見の接点を探り、声を合わせて主張することで、実質的な改善をめざす実践的なアプローチが求められよう。

猪谷さんの指摘する通り、「伝統的な男女の役割分担」は女性だけでなく男性も苦しめている。苦しむ女性を「解放」することは同時に苦しむ男性をも「解放」するだろう。しかし同時に、「伝統的な男女の役割分担」に満足している女性や男性の苦しみとならないような配慮は必要だ。それはそうした配慮が「伝統的な男女の役割分担」肯定派に向けたものであると同時に、「伝統的な男女の役割分担」否定派にとっても意味のあるものだからだ。

ダイバーシティのある社会は、「主体」と「客体」を区別しない。多様な考え方を持った人々がお互いに「主体」かつ「客体」であり、相互に相手を思いやってよりよい共存をめざす社会であってほしい。

本件の講義動画はこれ。

動画:シリーズ講義「メディア・コンテンツとジェンダー」第5回(講師:猪谷千香様)

駒澤大学GMS学部2017年度「実践メディアビジネス講座I」シリーズ講義「メディア・コンテンツとジェンダー」に関する記事は以下の通り。

メディア・コンテンツとジェンダー 駒澤大学GMS学部2017年度「実践メディアビジネス講座I」シリーズ講義の開講にあたって(2017年5月31日)

「男女の戦い」と「忘れられた人々」(2017年6月5日)

「多様性」は厳しい:サイボウズ㈱大槻様の講義を聞いて(2017年6月15日)

在京キー局 朝の情報番組出演者にみるジェンダー(2017年7月4日)

15万人のスティグマ:AVAN代表 川奈まり子さんの話を聞いて(2017年7月7日)

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