多数の憲法学者に違憲だと断じられた安保関連法案に反対する、「民主主義って何だ?!」という叫びが、今や国会周辺だけではなく、全国で響いている。
特に、学生たちで結成された「SEALDs(「自由と民主主義のための学生緊急行動」の頭文字から取った名称)」が毎週金曜日に開催している国会前のデモは、衆議院の憲法審査会で安保法案は違憲だと述べて一躍時の人になった小林節名誉教授を始めとして、著名人が我先にと応援に駆け付けてスピーチをしている。まさに、デモクラシーはここで起こっているという熱気を感じさせる。学生だけでなく、弁護士、憲法学者、医療関係者、ママなど、様々な属性の人たちが、安倍政権の進める安保関連法案に反対の声を上げている。筆者も、浜松市で開催されたアピールウォークに関わったが、今までなら参加していないような年齢層も参加していた。
ところで、筆者は、「明日の自由を守る若手弁護士の会(略称:あすわか)」に所属して、憲法カフェというカフェなどで気軽に市民の方に分かりやすく憲法の解説をする取組み等をしている。「あすわか」は、自民党の憲法改正草案が出されたのを読んでみて、今の日本国憲法と違って、わたしたちの自由を制約することになるとんでもないものだと衝撃を受けた若手弁護士たちが結成したもので、今では全国に420名以上の会員がいる。
その憲法カフェでもごく普通の小さなお子さんを抱えた主婦から、この子が大きくなった時には戦争をしている国になっているんじゃないかという不安の声をたくさん聴いている。サイレントマジョリティーだった無党派層が、さすがにおかしいと思い始めていて、いてもたってもいられず、デモに参加したり、憲法を勉強したいと思っているのだ。
憲法カフェで、先日聞いた話なのだが、どうもデモに参加することを犯罪行為だと思っている人がいるらしい。また、憲法の話を聞きに行こうと誘っても、例えば子どもの健康のために福島第一原発の事故から避難してきたような方であっても、抵抗感があるようなのだ。あるいは、真面目になって、熱くなっているのがカッコ悪いかのような風潮もあるようだ。
理屈で説明すると、デモは表現の自由の行使であり、公安条例や道路交通法の許可さえ得れば、何も問題のない行為だ。この許可についても、公安が裁量で判断できるものではない。最高裁は、一般的な許可制ではだめだが、必要最小限度の規制で、基本的には許可しなければならないような実質的に届出制といえるものであれば合憲だとしている。マスメディアを利用できない一般国民にとっては、デモは自己の意見を表明する重要な手段であり、間接民主制のもと選挙権を補う要素があることを重視しているのである。かつて、デモをテロ呼ばわりした自民党の元幹事長がいたが、心得違いも甚だしい。
ちなみに、表現の自由がなければどうなるかというと、例えば、マスコミに圧力がかけられて(沖縄の新聞は懲らしめると発言した自民党の議員がいたことを想起していただきたい。)、政府与党に都合の悪いことは報道できなくなり、国民は本当のことを知ることができなくなり、悪いことをしている議員を選挙で落そうと思っても、そのきっかけすらなくなってしまうのである。「社会契約論」を書いたルソーは、有権者は選挙のときだけ自由だが、選挙が終わると奴隷になると言ったが、選挙のときには細かい政策まで見て選択することはなかなか困難だ。特に、安保法制のように選挙のときに争点が隠されていた場合にはなおさらである。そうすると、民意を議員に届けるには、選挙以外の方法、例えば、ロビイング、陳情、デモなどによらざるを得ない場合も出てくる。
また、集団的自衛権の行使で相手国から恨まれたら、国内でテロが起こったり、ベトナム戦争のような泥沼になったりするし、戦費のために増税されたり、社会福祉が削られたりするので、子どもの将来に重大な影響がある...と、このように説明することができよう。
それなのに、なぜこうした偏見や抵抗感があるのだろうか。
その大きな要因は、過去の安保闘争で、過激で暴力的な出来事があり、イメージが悪くなり、共感が得られなかったことだろう。あるいは、「お上」が悪いことをするはずがないという、根拠のないイメージのせいだろうか。筆者も、もともとは公務員だったので、政治的に中立でなければならないと思って引いてみていたし、官庁街で行われるデモに対する抵抗感があった。それが、どうして変わったのか。
先に述べたとおり、私は「あすわか」に所属しているが、2013年11月までは特に活動はしていなかった。それが、2013年12月、秘密保護法が強行採決されようとしたときに、海外発信をしようということになり、多少英語のできた筆者が手を上げ、関わることになった。秘密保護法は強行採決されてしまい、世間では「民主主義は終わった」という論評がされていた。一方、「あすわか」がSNSで発信していたものが岩波書店の目に止まり、私も共著者の一人として「これでわかった! 超訳特定秘密保護法」の執筆をすることにもなった。しかし、デモにはまだ抵抗感があった。
そんな折、2014年1月、20歳以下の若者たちが、秘密保護法に反対して渋谷でデモをするが、トラブルが起こらないように見守りをする弁護士がいないという話を聞いた。たまたま予定が入っていなかったので、見守りに行ったところ、「選挙権はないけれども、言いたいことがあるんだ!憲法に違反して勝手に決めるな」と叫んでいる姿に新鮮なものを感じた。
2014年5月のゴールデンウィークに、最初にご紹介した「SEALDs」の前身である「SASPL(サスプル)」がデモをやるというので、やはりたまたま閑だったので、見守りついでにデモに行ってみた。「SASPL」というのも、やはり学生による秘密保護法に反対する団体である。
彼らは「民主主義は終わったという人がいるけれど、終わったんなら、始めればいい」と叫んでいて、頭をガーンと殴られたような気がした。また、スピーチの中で「押し付け憲法という人がいるけれど、こんなに素敵な憲法をプレゼントしてくれたアメリカにありがとうと言いたい」とも叫んでいた。
選挙権を得たばかりだったり、選挙権もなかったりするような年齢の若者のストレートな言葉に目から鱗が落ちる様な思いをしたし、彼らにこんなに必死に叫ばせてしまっている私たち大人に責任があるのではないかと、大変申し訳ない気持ちになった。何か活動をすることに気おくれしたり、恥ずかしいと思ったり、人の目を気にしたり、どうせデモをやっても変わらないと斜めに構えている場合ではないと思ったのである。
それで、翌週、憲法カフェをやりませんかと呼び掛けるチラシを作って配り、賛同してくれた元市議会議員(現在は当選している)の勉強会で、月イチで憲法のお話をさせていただいたりした。そこに参加した人たちが、憲法カフェからスピンオフして、自分たちの活動を始めている姿を見ると、目覚めて初めて「市民」になるのだと実感する。
話を、今回の安保法案に反対するデモに戻すと、デモのイメージの問題や自分や子どもの将来の問題ととらえられないということだけでなく、自分が何をやってもどうせ変わらない、どうせ強行採決されてしまうという諦めが大きいのかもしれない。
しかし、そんなことはない。
野党だけならバラバラになってしまうところだが、6月27日、渋谷の「SEALDs」のデモで、民主党、維新の党、共産党が手を結ぶという前代未聞の出来事が起こった。維新の党が、共産党の議員と握手した自党議員を処分すると言っていたが、その後、日弁連の勉強会の際、民主党、維新の党、社民党、共産党などが握手して、歩調を合わせることになった。このようなことは、政党同士だけでは実現できなかったことだろう。学生を始めとする市民が声を上げ続けたために、無視することができなくなったのである。維新の党は、採決には応じてしまいそうな話も出てきているが、この市民の声を無視したら、到底、次の選挙で存続できないほどのダメージを被るだろうし、それは避けるはずだ。国民の声を聞かないで、国民の人権を制限していた明治時代に戻りたがっている自民党にべったりで、何が「維新」だと思うのである。このように、市民の声は、確実に政治を動かしているのである。
立憲主義を無視して違憲なものをゴリ押ししたり、およそ法律学的には集団的自衛権の根拠にできない砂川判決を根拠だと言い張ったりすることは、本来、憲法尊重擁護義務を負う政治家として極めて恥ずかしいことであり、歴史に汚名を残すことになる。政府が同盟を強化したいと言っていて、価値観を共有していると盛んにアピールしているアメリカであれば、このようなことはしないだろう。そのことに自民党や公明党の議員が気付かずに、民意を無視した強行採決で、党議拘束のまま何も考えずに賛成票を投じるのであれば、次の選挙の後の職を今から探しておいた方がいい。逆に、自分の良心に従って、反対票を投じたら、たとえ党からの公認を得られなくなったとしても、この人であれば間違いないとして、市民が当選させるだろう。なぜなら、そのような気骨のある与党議員をメディアが報道しないはずはなく、信念を貫く人だとみんなが知ってくれるからである。そして、憲法を守らないような人が、公約を守るはずがないからである。
だから、モヤモヤしていて、何をしていいか分からなかったり、諦めたりしている人こそ、今はデモに行った方がいい。議員に、憲法という最優先の公約を守らせるために。
そして、今やデモに行くことの方がかっこいい時代である。渋谷の109前の交差点にファッショナブルな若者たちが集まって、自分の意見を言っているのである。そして、その意見は、国会中継で流れるサイコウセキニンシャの言葉よりも鋭く胸に刺さり、心に残る。どちらかというと保守的だった自分も心動かされてしまったわけだし。こんな意見が言える若者ってかっこいいじゃないか、と時代が認めている。たとえ一市民であっても、誰もが自分の意見を言えることが、カッコいい時代なのである。デモで自撮りをしてSNSにアップする若い女性がいるほどで、若者たちがデモのあり方をすっかり変えてしまったのである。
おそらく今週は、日本の歴史の中で大きな転換点だったと振り返られることになる。そのときに、子どもたちから、「あのとき何をしていたの?」と聞かれて何も言えなくなってしまうのか、「カッコいいことをしていたんだ」と胸を張って答えられるのか、それはこの文章を目にしたあなた次第である。
そうだ、デモに行こう。