書評:杉田弘毅著『「ポスト・グローバル時代」の地政学』

「むき出しのパワーの時代」に突入した世界が、どこへ向かうのか。
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北朝鮮の核ミサイル問題、米中貿易摩擦、英国在住の元ロシア人スパイ暗殺未遂、シリア化学兵器使用疑惑、そして米英仏軍によるシリア攻撃・・・。かたや、荒唐無稽で支離滅裂な言動でメディアや国際社会を騒がせるトランプ大統領、そして、海外からの批判など物ともしない強硬な外交政策と軍事行動をいとわぬプーチンと習近平。

「むき出しのパワーの時代」に突入した世界が、どこへ向かうのか。著者(杉田氏)は、30年に及ぶ取材と研究によって得た知見を総動員して、世界の激動を、「地政学」と人々の「怒り」を軸に分析し、この困難なテーマに果敢に挑戦している。

評者(目黒)がとりわけ注目したのは、「怒り」の描写である。それこそが、政治リーダーを「悪性のポピュリズム」に駆り立て、理想を無視し、民族差別や自国第一主義、ひいては「地政学」の復活と、現在の世界の不安定化をもたらしたと思うからである。

「地政学」と聞くとき、日本人は中国の尖閣周辺・南シナ海への海洋進出や「一帯一路」構想などを思い浮べる。だが、本書は冒頭で、プーチンのロシアを取り上げる。ロシアこそ、「怒り」と「地政学」の関連が最も鮮明に現れたケースだからであろう。

冷戦の敗者として、欧米諸国から「嘲笑を浴びた」ロシア人は、強いリーダーを求め、そこにプーチンが現れた。彼はためらうことなく旧ソ連圏やシリアで軍事力を行使して、地政学を復活させた。著者は、プーチン大統領を熱狂的に支持するロシア民衆の中に、「冷戦敗北の屈辱にさいなまれ、行き場のない怒りを蓄積するロシア人の心情」を見る

さらに、米国の低所得層の苦境を詳述した「怒りの地政学」の章は圧巻である。

著者は、93年以来、米国で通算11年間記者生活を送り、ワシントンやニューヨークだけでなく、中西部や南部、ラストベルト(さびた工業地帯)などを、幅広く取材してきた。

例えば、南部の田舎町では、イラクに派遣された兵士の家族の不安や帰還兵の失業問題を、中産階級が住む郊外では、学歴のある上品な人々が苦境に陥っている状況を目撃する。米国人全体の6人に1人が食糧補助券を受け取っており、白人中年層が満足のゆく仕事に就けず、薬物に溺れて命を絶つ「絶望死」が増えているという。杉田氏は、底知れぬ「すさんだ」米国社会の現場に直接立ち会ってきた

一方で、豊かな家庭に育ち、さほど能力があると思えないのに、東部の名門大学の法科大学院を卒業しただけで、桁違いの収入を得ている20代の若者にも出会う。「この社会は公正ではない」と、著者は苦々しい思いを書き留める。

黒人、ラテン系、アジア系などの少数派優遇策によって、低所得白人層には「逆差別」されているという被害者意識が根付いた。さらに60年代以降には、大量の移民受け入れ、カウンターカルチャー、公民権運動などで、米国社会の多文化・多様化が進み、保守的な白人層の間に、「米国の本来の文化が破壊された」という危機感があるという。

トランプと彼のブレーンであったスティーブ・バノンは、数十年間続いた米国社会のリベラルなトレンドに真っ向から立ちはだかろうとする。彼らが掲げたスローガン「大衆を搾取するエリート支配層の解体」は、「忘れられた白人層」を熱狂させ、反ヒラリー感情に火をつけ、トランプを大統領にまで押し上げる。それは、反グローバリズム、自国第一主義につながるものであった。

著者の視線は、米国のメディアが取った行動と、情報環境の政治への影響にも注がれる。

米国の有力メディアは東部に本拠地を置き、地方の「忘れられた人々」の声を直接取材しない。著者は、特に『ニューヨークタイムズ』が、大統領選挙戦で「トランプ落選」キャンペーンを張ったことに疑問を投げかける。同紙が選挙の当事者となり、トランプ支持者の「敵」になったことが、メディアとして果たして適切であったかどうか

それと関連して、彼は「フィルターバブル」、つまり、リベラルもトランプ支持者も自分が好むニュースや情報だけを受け入れ、その情報空間で暮らしている状況を紹介している。フェイスブックから個人情報を収集し、選挙で特定の候補者への投票を誘導するビッグデータ解析企業「ケンブリッジ・アナリティカ」などの暗躍と併せて、秘密の蜘蛛の巣のように自己増殖した情報化社会の恐ろしさを特に強調している。

日本についての著者の見立ては悲観的である。中国の超大国化とともに、かつて日本の影響圏であった東南アジアは中国の影響圏に組み込まれつつある。ポスト・トランプの米国も内向き政策をとり続ける可能性が強く、日本は東アジアの「周辺国」に格下げされ、地政学の「敗者」になりかねないという。

本書が暗に示唆しているが、明確に述べていない点を一つ敢えて挙げておきたい。それは、現代社会における有識者の役割である。ここで言う「有識者」とは、政治家、官僚、ジャーナリスト、学者などを指す。

彼らは一般市民よりもはるかに多様な情報を入手できる。また、人脈も作りやすい。だが、エリートとして社会に君臨することで、その地位や名誉に満足する傾向が見られ、社会の末端で起きている事態から隔離された空間で生きている。しかも、そのエリート層と庶民層の溝はますます広がり、その構造は再生産されつつある。彼らが、もし、まず社会全体を俯瞰したうえで将来を構想する意思を持たなければ、「ポピュリズム」が跋扈するであろう

トランプ氏が大統領選に出馬して以来、評者は、米国の有識者を招いた講演会やシンポジウムに多数参加してきたが、彼らのほとんどはトランプ支持者を見下ろす発言を繰り返すばかりであった。トランプ氏と彼の支持者を「米国の恥」と嘲ける人も多かった。著者の言う「無法者のような」トランプ大統領を軽蔑するのは理解できるが、「忘れられた」白人庶民層が置かれている状況への無理解には驚かされた。

米国のエリート層にとって、庶民の白人層は生身の人間としてはイメージできず、単なる風景の一部でしかないのではないか。

現在の日本は、移民が少なく、人種問題も米国ほど深刻ではない。しかし、非正規労働者の割合が急増する日本の現状を見るとき、トランプ現象は決して他人事ではない

本書は、むき出しのパワーゲームを追い求めるリーダーたちと、希望のない生活を送る人々の「怒り」の相互作用を考察することによって、世界のダイナミズムを生々しく捉えることに成功している。是非、多くの人が本書を手に取り、世界と日本について考えるヒントを得ていただきたいものである。

新潮社

*『「ポスト・グローバル時代」の地政学』(新潮選書、1,400円税別)

著者:杉田弘毅氏(共同通信社論説委員長。テヘラン支局長、ワシントン支局長、編集委員室長などを歴任)

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