<グリーンパパプロジェクト企画>「シリーズ 地方に移住したパパを追って」第3弾は、広島県呉市豊町御手洗地区(大崎下島)のまちづくりに携わっている井上明さん(37)。井上さんは、宮崎県での会社員生活を辞め、呉市に移住した1児のパパだ。
この「御手洗(みたらい)」という地名は、紀元1世紀、神功皇后が三韓侵攻をした際、この地で手を洗ったという説や、901年、菅原道真公が大宰府に左遷され、九州に向う行路で、この地に船を着け、天神山の麓で口をすすぎ、御手を洗って祈ったという説などに由来している。江戸時代には、風待ち、潮待ちの天然の良港とされ、人と情報が集まる要衝地として栄えた地区だ。
その古い街並みと瀬戸内海を一望できる景色は、時代をタイムスリップしたかのような気分にさせてくれる。井上さんが経営しているカフェもその御手洗地区の一角にあり、その2階から望む景色は、まるで映画のスクリーンのようだ。
「船宿cafe若長」の2階から望む風景
なぜこの地区のまちづくりに井上さんは関わったのか。また、この地区で何を実現しようとしているのか。その経緯や思いを伺った。
(取材日:2015年10月17日)
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自分探しの会社員時代
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吉田:今日はよろしくお願い致します。井上さんは元々どちらの出身ですか?
井上明さん(37)
井上:出身は広島市の安佐北区です。いまも僕の実家があります。そこには高校までいて、大学は島根大学総合理工学部でした。
吉田:卒業して最初に何の仕事に就かれたんですか?
井上:外壁材のメーカーです。営業担当として、最初の赴任地が鹿児島・宮崎の担当で、主に宮崎エリアを受け持ってました。いや~、仕事がおもしろかったですね。
吉田:何年くらいその仕事をやっていたんですか?
井上:7年くらいですね。29歳のときに辞めました。会社に入ってからひと通り仕事を覚えて、あとの2年間くらいは、ふらふらと考える時間もあって、何年かしたら会社を辞めて、それから自分で何か事業をしたいなと漠然と考えてましたね。
吉田:ふらふらと考えていたのは、どんなときでしたか?(笑)
井上:いやいや、その・・・、営業中です(笑) 特に2年間くらいは、仕事に身が入らないこともあったんですが、営業所長が身近でお世話になった上司に変わったことなどが契機になって、残り3年は本気でがっつりと仕事をしてましたね。
ルート営業なので先方と仲良くなれば物は流れるんですけど、ただ、やっぱりエンドユーザーに気に入ってもらえないといけなくて、大工さんばかりじゃなくて、何十棟のビルダーさん向けに営業を仕掛けたり、設計士さんとか直接家主さんともやりとりをしてましたね。
そんな中で、カラーイメージを伝えるための言葉の連動性に興味を持って、東京から来られるカラーコーディネート講師の先生のところに習いに通いました。
吉田:そうやって勉強もする中で、仕事の仕方に変化があったんですね。
筆者・吉田大樹
井上:言葉とかイメージをどのようにして色に落とし込むとか、それをどうやって相手に提案して理解してもらえるか、を常に考えるきっかけになりました。
吉田:そういう過程で「ちょっと独立したい」気持ちが沸き起こってきた・・・
井上:それもありますが、その講師の先生がファイナンシャルプランナーの資格も持っておられ、その話に興味を刺激されて、ファイナンシャルプランナーの資格を取りました。子どもがまだ1歳になってなかったと思います。会社にいながら勉強して資格取って、それで独立しようかと思ってたんですけど、最終的にはちょっと違うなという気持ちになって、その選択は止めました。
吉田:独立に際して重視したことってなんですか?
井上:とりあえず辞めて広島に戻ってこようという思いはありましたね。転勤族だったので、このまま各地を転勤し続けて、10年後、年齢も30代後半になって、業績のいい会社だったので可能性としても低いかもしれないけど、「会社が倒産しました。そうなったときに自分に何ができるのかな」と考えましたね。そのときはたぶんまだまだ見えてない部分がすごくあったと思います。おそらく会社に居ながらでもできたかもしれません。ただ、世の中が大きく動いてもそれに左右されず自分でやっていける何かを創っておきたいと思ったんです。自分で1つの土地に根を生やして、人脈を築きながら、自分にしかできない何かを残したいと。会社を辞めてその土地を移る条件の1つが妻の実家がある呉市に帰ってくることでした。自分の実家も広島市内にありますが、さすがに妻も気兼ねするところもありますし、子どもを預けたりするのも妻の実家のほうが頼りやすく。そこで、妻の実家の近くにアパートを借りて、呉市に引っ越しました。それが2007年ですね。
吉田:呉市に引っ越してきて何を始めたんですか?
井上:しばらくは呉にいることになったので、「呉をもうちょっと知らにゃあいけんな」と思って、ふらふらしてたんですけど、それは本当にふらふらですね(笑) 無職ではなく、アルバイトをしながらです。
吉田:どんなアルバイトをやったんですか?
井上:地場の弁当屋さんです。ホテルを経営しているところなんですけど、弁当部門があって、そこの営業です。時給は900円でした。
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会社を辞めて子どもとの関わりを増やしたかった
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吉田:ところで、お子さんはいま何歳?
井上:うちの子どもはいま小4の10歳で、女の子です。
吉田:お子さんとの関わりは、どうでしたか?産まれたときは宮崎にいたんですよね。
井上:そうですね。
吉田:仕事も忙しかった頃だと思うので、家に帰ってくるのも遅かったんじゃないですか?
井上:帰ってくる時間は遅かったですね。夜の8時とか9時とかそれ以降の時間になることも多かったです。
吉田:じゃあ、お子さんも大体寝てることが多いですかね。
井上:そうですね。ただ、早く帰れるときは寄り道せずに帰ってきてましたよ。
吉田:そこはメリハリをつけていたんですね。お子さんと触れ合う時間も少なかったんじゃないですか?
井上:なかなか子どもと遊ぶ時間はなかったですね。それも会社を辞めて移住した1つの要因です。要は会社以外の自分の時間を確保したかったんですよね。そのときは未熟だったので、この会社にいるから、時間が作れないと思っちゃったのかもしれないし、実際展示会なんか行かなきゃいけないときもあったので、土日つぶれたりとかすることも結構ありました。いまだったらもっとうまくできると思うんですけど、そのときは会社を辞めることでしか時間を作れないと思ったんですね。
吉田:そういった意味では、お子さんとの時間をもうちょっと増やしたいとの気持ちが強かったんですね。
井上:直接手がかかる子どもと触れ合えるのはそのときだけじゃないですか。
吉田:そうですよね。子どもはどんどん成長しちゃいますからね。けど、そこで一歩を踏み出せない父親が多いのも事実です。
娘さんは引っ越してきてから、変化はありましたか?
井上:宮崎から呉市に来たときはまだ3歳だったので物心ついてはいなかったですね。そこもあまり抵抗なく引っ越せた要因ですね。
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御手洗地区との出会い
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吉田:呉に来て、お弁当屋さんの営業をやっている中で、どのタイミングで自分で仕事をしていこうと思ったんですか?
井上:自分がお弁当屋さんで働く一方で、妻は宮崎にいたときからですが、ずっとパソコンを教えていたんです。呉に帰ってきてからも、とある会社で講師をしていましたが、僕も彼女の技術を知ってるし、雇われ講師ではできることに限りがあって、「だったらちょっと自分たちでやってみるか」という話になりました。単に技術を教えるだけではなくて実際に生活に役立つ使い方の提案をしながら、とことんサポートをするシニア向けパソコン教室をやろうということに。僕たちの親世代以上がITを活用できれば、生活にいっぱいいっぱいの僕たち自身も手を取られず生活しやすくなるのではと。最初は、お弁当屋さんで働きながらでしたが(笑)
吉田:お弁当屋さんで働きながらですか?
井上:結構時間はあったんです。午後3時くらいには仕事が終わるので。
吉田:時間的にはゆとりがあったのは大きいですね。働き詰めだったらなかなかそんなふうに考える時間はなかったかもしれないですね。
井上:ホテルもやっている会社なので、夜もシフトに入ってたりはしましたけど、ある程度時間がありました。だからまず、自分が個人事業主になって妻を雇用する形で始めたんですね。
それと同じ時期になんですけど、僕ももうちょっと呉を知らなきゃいけないと思ってたところに、市の広報誌で「観光ボランティア養成講座」を見つけて、そこに行ったのがきっかけでこの御手洗地区という地域を知ることができました。土日を中心に地域のボランティアガイドとして半年ほど活動していました。
当時の呉観光ボランティアガイドの会長が住んでいる家の近くにたまたま住んでいたので、いろいろと教えてもらいました。呉は大和ミュージアムにあるような海軍と船のまちだなと思っていました。上から大きな船の修理や造っている途中の中身が全部見えるドックの壮大な風景は「おぉすごいな」と思っていましたが、自分的にはそこにそれほど惹かれるものはあんまりなくて。それよりもこの御手洗地区は自然景観ももちろんですが、昔の日本的なものが生活感にも文化にも残っていて、知れば知るほどおもしろいと感じました。
吉田:まったくこの地域に繋がりがない状態で飛び込んできて、最初は手探り状態だったんじゃないですか?
井上:観光協会のガイドとして要請があったら行くという感じでしたが、いろいろと知らなきゃいけないので地元の人にも話を聞いたりということを最初は自分一人でやってたんです。そんな中で、ここに観光に来る人は年配の方が多くて、例えば年金受給者協会の会員さんが半年間で5,000人くらい来たりしてました。ガイドする時間は決まっていて、大体1時間とか1時間半とか。で、「もう疲れたので歩きたくないわ」とかいう人もいるわけです。「ゆっくりするところはないんかい」ということも言われてましたね。
吉田:当時は、居心地のいい休憩場所がなかったんですね。
井上:御手洗という地域を感じながらゆっくりしてもらえるところが無かったんです。いまカフェにしている、ここ三軒長屋の2階部分も当時は戸が閉められてたんですよ。いまはこうして飾ってますが、飾りもなかったんです。この金庫みたいな昔の冷蔵庫も1階で埃をかぶったままでした。
井上さん曰く「金庫みたいな昔の冷蔵庫」。
吉田:えっ、そうなんですか。すごくレトロな感じで素敵なんですが。
井上:『重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)』に選定されてから10周年イベントがいまから10年くらい前にあって、その際にここで昭和30年代の雰囲気を作ろうということで、1階と2階を展示スペースとして使っていたのですが、掃除などの手間もかかり、変化もしないので、省力化のために展示スペースは1階のみになってたんです。
吉田:だって、この階段、急ですもんね。
昔ならではの急な階段
井上:2階の壁もこのままで何も手を加えてないです。綺麗なままで、戸は閉めっぱなしでした。ちゃぶ台があったり、食器棚があったり。それはそれで良かったのですが、「懐かしいね」で止まってしまっていた感じでした。
吉田:御手洗地区の街並みができたのはいつ頃ですか?
井上:江戸時代ですね。北前船※の寄港地として栄えたんです。
※北前船(きたまえぶね)とは、江戸時代から明治時代にかけて活躍した主に買積み廻船の名称。買積み廻船とは商品を預かって運送をするのではなく、航行する船主自体が商品を買い、それを売買することで利益を上げる廻船のことを指す。当初は近江商人が主導権を握っていたが、後に船主が主体となって貿易を行うようになる。上りでは対馬海流に抗して、北陸以北の日本海沿岸諸港から下関を経由して瀬戸内海の大坂に向かう航路(下りはこの逆)及び、この航路を行きかう船のことである。西廻り航路の通称でも知られ、航路は後に蝦夷地(北海道・樺太)にまで延長された。
出典:ウィキペディア
吉田:では、昔は1階に船が入れたんですか?
井上:江戸時代はもう少し海が近かったと思います。この店の前の県道は昭和の時代のものです。その県道と今の堤防が完成する前は、石垣が並びそこに松が植えてありとても風情ある通りでした。この建物がある場所も江戸時代の埋め立て地です。燈籠も121基あったと言われてますので、とても賑やかで風情のある通りだったんだと想像できます。防波堤もなかったので、ここからすぐに海に飛び込んだりもできたみたいです。
この地区は1991(平成3)年に台風19号の被害を受けて、ここの1階も海水が浸かってしまいました。このカフェの山側の家も浸水被害にあったと言ってましたからね。相当な被害を受けたようです。その後、建築の大学の先生方が視察しに来て、「ここにはすごいものが残っている」という話になったそうです。
県道と防波堤。その昔は、船宿でそのまま家に乗り込むことができた。
吉田:そういう被害が遭わなければ、そうした調査も入らずに発見もなかったかもしれませんね。
井上:そうなんですよね。まちに誇りを持とうという意識が高まって、初代重伝建の会長今崎仙也さんや地元の郷土史家の木村吉聡さんたちが、「自分たちのまちを守らにゃいけんじゃろ」と重伝建の選定が得られるように動き出して、その3年後の1994年に選定を受けることができました。重伝建に選定されたことで、国から外観の補修などに補助が出るようになったんです。
吉田:この建物自体は築どれくらいなんですか?
井上:築200年くらいですかね。大洲藩と宇和島藩の家紋と若本屋長五郎と名前が入った看板が今も残っています。まちの人たちはこの場所を「若長」と言っており、昔から大切にされてきたその屋号の呼び名を残したくてそのまま店名にしようと思いました。
先ほども言いましたが、2階部分は真っ暗だったんですよ。雨戸が閉まっていて、電灯はぶら下がってましたが、電球が切れていて点きませんでした。で、雨戸を開けたときに、「うわっ、これはなんて景色だ」って、感動しましたね。まさに「ザ・御手洗」みたいな景色が広がってたんです。
吉田:だって、絵ですもんね、この風景は。
井上:ここから朝日が昇るんですよ。で、満月もここらへんから昇ります。すっごい綺麗です。眩しいくらいに鮮やかな海と空の青の世界、見渡せる四国本土や大きな船が行き交う風景、これはちょっと皆さんに見せたいなと思ったのと、あとやっぱり柑橘の産地で、明治時代からばんばん海外に輸出していた産品があったんです。この地域は大長みかんというブランドがあるんですけど、正確には御手洗の隣の大長が発祥です。それすらも僕は知らなかったんですけど、来たときは。
でも、みかんが味わえるお店もないし、実は国産レモンも発祥の地なんです。だから、ここでしか味わえない風景と空気と産物を提供することがここではできるんじゃないかと思いましたね。それを沢山の人に伝えたくて。だから、ここはカフェにしようと。観光ボランティアガイドの会長さんが「なんかやりゃええのに」と言ってくれたのも背中を押してくれた言葉でしたね。
それを真に受けて「じゃあ、やりましょか」みたいな(笑) 最初、誰に言ったらいいのかわからんで、市の人に言って、重伝建の会長に話をして、観光協会の会長にも話をして。で、地域の皆さんに声をかけてもらって、観光ガイドはしているものの、僕のようなよくわからんようなやつに、「使えるものは使っていいよ」と言ってくれて・・・、ここでチャレンジさせてもらえることになりました。2011年4月に「船宿cafe若長」がオープンしました。
吉田:では、改修することもほとんどなく?
井上:ほとんどいじってはいないです。厨房作ったくらいで。2階は全然いじってないです。ホントこのまんまです。照明換えたくらいで、あとは飾りつけをしただけ。何もしてないです。
吉田:えっ、そうですか。壁もきれいですけど。
井上:壁もそのままです。閉まってたんですもん、だって(笑)
船宿cafe若長の1階部分
吉田:そういった意味では初期費用があまりかかってないんですね。
井上:最低限のとこしかやってないです。だからいま、3店舗目と4店舗目も作れているんですけどね。初期費用はかなり抑えられているし、何よりももらい物が多い・・・(笑)
家賃交渉して安く借りれるから、「その代わり直さんけぇ、自分で直してくれ」と。それで自分で手直しをずっとしながら、そこで寝泊りをして。でも、若いお客さんが増えてきたんで、買って帰るのはマーマレードとか柑橘とか海産物とかしかないから、そういうお土産を作りたいなということで、ギャラリーと雑貨のお店「薩摩藩船宿跡 脇屋」を出しました。
薩摩藩船宿跡脇屋
そうこう活動しているうちに、たまたま僕の娘が通っていた保育園の矢野智之君という元保育士が御手洗で一緒に何かやりたいと関わってくれることになったんです。
それで、御手洗地区は橋で本土とつながっていて、自転車のお客さんも増えてきているし、気軽に食べれるところが少ないから、この地区で鍋焼きうどんでもやるかと。実は昔から停泊した船に行商船が船に七輪を置いて提供する鍋焼きうどんがあったらしいんです。ちょうど何かあれば使ってほしいと言われていた店舗物件があって、2人で整え補修をして、2014年から鍋焼きうどん屋「尾収屋」を始めました。若長、脇屋もそうですが、そこも昔「尾収」と言う屋号だった場所です。
鍋焼きうどん屋「尾収屋」と店主の矢野智之さん(30)
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「船宿cafe若長」
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吉田:カフェのほうは、オープン当初から土日限定ですか?
井上:土日祝日限定です。平日はなかなか難しいですね、いまのところ人が少ない。それ以外の時間は、この地域をもっと知りたくて、またおもしろいものを見つけたくて、ここに住むいろんな人に会いに行ったり、話を聞いたり、その作業のずっと繰り返しです。
お客さんも半分以上はリピーターです。「階段狭い狭い」と2階に上がってもらって、上がったときに「うわっー」と感動してもらえるのは、「よしよし、そうじゃろうそうじゃろう」と。してやったりの感じです(笑)
吉田:感動しない人はたぶんいないですよね。地上は防波堤があって景色が見えにくいのが余計にそう思わせるんですね。
井上:それが楽しみでしょうがない(笑) 感動したお客さんが次の週に大切な人を連れてきてくれたりとかもよくあります。この御手洗地区に来る途中は海と島の自然風景を見ながらドライブしてきますが、ポンと急に異空間のまちが出てくるのもおもしろいんですよね。
吉田:この先に岡村島という愛媛県の島がありますが、広島県側で言えば、この大崎下島が終着点でもありますよね。
井上:だから、広島県内でも来たことがない人が結構いらっしゃって、一度来たあとに「また来たい」と言って別の人を連れて来てくれるのはとても嬉しいですね。
吉田:車で1時間~1時間半くらいで呉市内からも来られますよね。
井上:そうですね。けど、まだまだ遠いイメージがあるんですよね。
吉田:道も整備されてて来やすかったです。素晴らしい地域資源があると思うのですが、いままでは何が足りなかったんですかね?
井上:打ち出し方が足りなかったように思います。あるだけなんですよ。それをニーズに合わせ活かすような変化するソフトがないんです。でも、あるんですよ、素晴らしいハードは。だから僕ができる範囲の中で、ここにある資源の見せ方を変えて、訪れるお客さんに受け取ってもらって、喜びとその対価をいただきながら続けられるような商売を、というか事業をしてけたらと思うんです。
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合同会社「よーそろ」の立ち上げ
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吉田:いまこうしたカフェなどを運営している合同会社「よーそろ」はいつ立ち上げたんですか?名称もユニークですが。
井上:会社の立ち上げは2014年3月です。「よーそろ」は船が直進することを意味する江戸時代から使われている操舵号令ですが、昔からある「御手洗節」の歌詞にも登場するというのもあって、それにちなんで社名にしました。
合同会社を作るに当たって、妻が担当していたパソコン教室も事業に入れました。僕自身は、よーそろ以外にも重伝建の理事・事務局長もやってるし、観光協会の理事もやってます。
合同会社には、デザイナーの方にも執行役員として入ってもらいました。
吉田:デザイナーの方には具体的に何をやってもらっていますか?
井上:各お店で使う暖簾や名刺、ショップカード、デザインしたオリジナル商品も作ってもらってます。そのほか、まちにデザイナーはいないので何か作らんといけんものがあったら、デザインをお願いしたり一緒にアイデアを出し合って形にしたりしています。
吉田:そういった意味では、デザイナーさんも入る中でどんどん事業としては広がりが出てきたということですね。
井上:だから、打ち出し方の何が足りないかは、打ち出し方もそうなんですけど、打ち出す数もですね。打ち出し方というか見せ方もちょっと足りないんだと思います。
だって、いっぱいあるんですよ、おもしろいモノが。それをどう見せるかというデザイン力も必要なんです。安っぽくならないように、若い人にも喜んでもらえるように、お互い分かり合えるデザイナーと商品づくりやモノづくりをしていってます。
吉田:前職時代に関わったカラーコーディネートも活かせるわけですね。
井上:それは確かに活きてるかもしれません。見せ方というか。まだ手探りですけど、意識としては常にありますね。
メニューづくりにしてもそうですね。あるものとあるものをどう組み合わせるか。やっぱり組み合わせてそれぞれの素材をどう活かすかはカラーコーディネートと似ていて、組み合わせ次第でお互いを殺しちゃう組み合わせもあります。似ているもの同士だったらお互いまとまり過ぎて元々ある尖ったいい部分も活きないですからね、やっぱり。どういうふうに配色をして素材を活かすかは常に考えてます。
家具の配置にもこだわりを持っている
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御手洗地区の地域人として
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吉田:いまこの地区に実際住んでる方というのは年配の方が多いですよね。
井上:65歳以上が半分以上です。数字としてはまさに限界集落ですね。
吉田:子どもの人数はどうですか?
井上:少ないですね。この間小学校が合併しましたけど、合併しても1学年10人ちょっとくらいです。大崎下島の豊町にある小学校と、隣の豊島にあった小学校が合併しました。
吉田:廃校は何かに活用しているんですかね。
井上:そこは、いまのところ何もしてないですね。
吉田:もったいないですよね。一度、廃校の利用方法について記事にしたことがあります。結構耐震の問題もクリアしていてしっかりと建ってる建物も多いので、うまくそういうものを再利用することでまた人が集う場にもなっていきますよね。
井上:使われてないハードはいっぱいあります。ハコは作ったけど、そのままほったらかしにしてるところが沢山ありますよね。昔は離島だったので、国からの補助金などでハコモノも整ったのだと思います。
以前廃校になったところの1つがいま加工センターになってるんですけど、そこをもっと活用したくって、食品製造業の許可も取ったんですよ。その建物の半分はスポーツセンターとして使用されているんですが体育館もそのままで。何かもっと建物が活かせる活用法を考えています。
吉田:具体的に動き出しているんですか?
井上:いま手が足りなくてできないんですけど、いずれ動き出します。そうやって仕事づくりを1つひとつしていきます。
吉田:そこでまた雇用が生まれますもんね。また新しい人がこの島にやってくる可能性が生まれる。
井上:僕らとしての仕事づくりはどこが柱になるかわからないですけど、そういう活動の中で一緒にやれる人がいれば、僕はまちの資源を活かした仕事づくりにどんどん取り組んでいきたいと思ってます。
吉田:そこらへんは手探りの中で進める感じですか?
井上:そうですね。でも使える場所やお金を生み出すような施設は山のようにあると感じてるところですね。
吉田:それおもしろいですよね。特に競合相手がいるわけでもないですし。
井上:競合相手がいないから僕はやってるところもあります。競合相手がいたら僕やらないので(笑) カフェが以前から御手洗地区にあればカフェはやらなかっただろうし、ないものを作っている感じです。だから、情報も集まってくるし、そのチャレンジに協力をしてくれる人もいます。ほんとおかげさまで。
吉田:地域との関係もそういった意味では重要ですね。
井上:それは一番重視していますね。
吉田:いま井上さん自身、御手洗地区には正式に住んでないわけですよね。
井上:確かに、住民票はここではありませが、週5、6日はここにいる感じです。
吉田:それは一人で?
井上:一人でですね。週末は逆にここに家族が来たりとか、「脇屋」に離れがあるので、そこで週末を過ごしたりしてます。
吉田:当初、土日はこっちで、平日は向こうに帰ってみたいな感じだったんですか?
井上:そうです、当初は。とは言え、平日向こうにいても、変わった農産物とかおもしろそうな人がいたら会いに行ったり、調べに行くとかしてたんで、だんだん頻繁にこっちに来るようになると次第にこっちに泊まることが増えましたね。
若長、脇屋と、御手洗自治会の3つある常会の中で2つの場所に建物があって、神社の寄付も大変です(笑) 自治会もいつの間にか理事になってて(笑)
吉田:何個も顔を持ってないといけないですよね。
井上:残りのもう一地区でも店を造ることになっていて僕3つ地区を持つことになります。どうしましょう?(笑) 基本的には最初に入った若長の地区の常会にいるんですが、その常会は3つある神社を中心に分かれてて。こんな小さな町の中に。その3常会に分かれたチームで運動会も行われるんですよ。
吉田:御手洗地区だけの運動会ですか?
井上:そうです。廃校になった御手洗小学校の校庭でやっているのですが、これがおもしろい。
吉田:何人くらいが集まるんですか?
井上:そうですね。150人くらいかな。声援だけを送る人も(笑) みんな知っているから、なおのことおもしろいんです。
それとは別に、豊町全体でも対抗運動会があるんです。それは代表選手が出ます。僕もリレーを走るんですよ。「お前は走らにゃいけん」って言われてほぼ強制的に(笑)
吉田:同世代はどれくらいいますか?
井上:30代40代は少ないですね。ん~、若い人いないなぁ。
吉田:悩むくらいいないってことですよね?
井上:僕入れたら10人ちょっとくらいですかね。20代はもっと少ないですね。
吉田:これからは若い世代を増やさないと、ある意味また井上さんに比重がかかってきちゃう感じになっちゃいますもんね。
井上:いままでは定年退職して、帰ってきたい人たちが帰ってきてくれれば、というイメージで過ごしてきたけど、やっぱり祭りもそうだし、神輿の担ぎ手がいないわけですよ。何か困ったときに、準備したり、力仕事や機動的に動ける人ってどうしても必要なんですよね。
吉田:例えば、定年で60とか65とかで帰ってきても、その後活躍できる期間って限られるじゃないですか。ということを考えると、20代は早いかもしれないけど、せめて30代くらいで帰ってきてくれるといいですよね。
井上:30代で帰ってきてくれるといいですね。先日もこの地区の年輩の方が亡くなったのですが、手伝える若い人がおらず、「手伝いましょうか」と言ったら、「じゃあ大きい車ちょっと運転してくれ」となって、棺を乗せた車を運転しました。
吉田:たぶんそうやってまちのことに関わる人達がいなくなっちゃってるということでしょうね。いま実際に井上さん以外に移住してきた人って身近にいらっしゃいます?
井上:2015年4月にカメラマンの宮川トム夫妻が御手洗に移住して来てくれましたが、外から来てというのはいままでいないですね。矢野君も僕と同じような過ごし方してますが。矢野君にも自分でお金を出して自治会に入ってもらって、いろんな地域活動にも関わってもらっています。
吉田:井上さん自身、完全にこの御手洗地区に移るという選択はなかなか難しい感じですか?
井上:そのほうがホントは楽なんですけど、帰らなくていいし。ただ、呉の中心部の家は妻の祖母が住んでた家で、祖母が亡くなって空き家だったんで、僕らがアパートを出て、そこに入りました。祖母の妹さん夫婦が近くに住んでて、80を超えてるんですけど、山の上のほうなので、何かあったときも心配だしということで、住居は向こうのままにしています。
あとは、娘が向こうの小学校に行っていて友達がいるんで、しばらくは様子を見て、とりあえずタイミングを待ってという感じですね。ただ、台風接近時や何か自然災害が起こりそうなときは人手がいると思うので一人御手洗にいます。
吉田:井上さん自体はほぼこっちの生活のほうが長い状況ですよね。
井上:そうですね。長いかもしれないですね。向こうの自治会のことは妻に任せっきりで逆に全然知らないんです。
こっちの地域活動は家族みんなで参加してます。娘も実はここの子ども会に属していますし、ここの運動会にも。そういう過ごし方もいいと思うんですよね。1つの社会しかないでしょ、子どもたちって。いろいろやってたら別ですけど、いろんなところにいろんな社会があって、ここでもしダメとなってもいいじゃないですか。そこがすべてじゃないんだから。そういう機会は提供してあげたいなと思ってます。
吉田:こっちに来たらこっちにも友達がいて、ということだったらいいですよね。
井上:まだそこまで仲の良い友達はいないかもしれませんが、お祭りとかいろんな行事には喜んで参加をする、という感じですかね。まちの人にもかわいがってもらえたりもするので。
吉田:井上さんがこういう仕事をしているのを娘さんはいまどう思ってますかね?もうそろそろ理解していけるような年頃ですよね。
井上:ぼちぼちと理解している感じですね。全体的には「何してるんだろうか?」というところもあるかもしれませんけど、僕らがいろいろともがきながらやりよるところは、うちの妻とよくよく話すなかで聞いているので、多少理解できているんじゃないかと思います。若長をはじめ、僕も島でいろいろやっている若者として、ちょこちょこテレビとか新聞に取り上げてもらっているのを観て娘からはダメ出しされますから(笑)
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子ども向けの合宿を実施
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吉田:子ども向けには事業をやっているんですか?
井上:子ども向けのプログラミング教室を御手洗地区を含む豊町で始めたんです。うちの妻とデザイナー、友人のプログラマーに来てもらって、この町にある学習塾の子供達を集めたプログラミングワークショップを何度か行っています。
吉田:塾があるんですか?
井上:1つあって。近くの島から来ていて、ここで塾を開いているんです。この方と「じゃあプログラミング教室やろうや」となって、それで子どもたちを集めて、流しそうめんとプログラミングを組み合わせたりとかして、合宿もやりました。
いまは完全にボランティアですが、まちの子どもたちと外からも子どもたちを呼んで負担なく続けれるような事業にしたいと思っています。いろんな自然体験と、想像力・表現力を鍛えるプログラミングという作業を、遊びを通じて学ぶことができます。
合宿はこの夏に初めて開催しました。前半は、中学生向けに3時間みっちりシューティングゲームを作ろうということで、説明をした後、各自で作ってもらい、夕飯は小学生も交じって2時間ほど流しそうめんをやりました。中学生だけじゃなく小学生も呼んだのは、後半に行う中学生が発表する自分たちが作ったゲームのプレゼンを小学生にも聞いてもらい、一緒に遊んでもらうためです。まぁ合宿と言っても前回は泊りではなくて、「合宿」という響きに子どもたちはぐっとくると塾の先生から聞いたので、そんなネーミングで(笑)
次回は、小学生にもできるようにやり方を組んでプログラミングワークショップを行う予定です。あとは島の遊び体験を実施したい。この地区に元理科の先生がいるので、星空観察会をやったり、潮の満ち引きによって取れる貝が違ったりするので、貝の標本を作ったりしたいですね。
吉田:子どもの声がどんどん戻ってくるとまちとしても活気が出てくるでしょうね。そこがないとなかなか自分たちも含めて次の世代に伝えていくのが難しくなっちゃいますよね。自分たちの世代で終わってしまうことになりかねない。
井上:ここの良いところは、人と人の関係がすごく近いところです。隣の奥様からは、「あんた今日あるんね、ご飯は?今日あるんね?」とかしょっちゅう聞かれます(笑)
吉田:そんなことを心配してくれる人がいるというのはうれしいですよね。
井上:ほんとありがたくて、またいろんな人からよくものをもらいます。距離感がすごく近くって。それが嫌な人は嫌なのかもしれないですけど、都会じゃ考えられないですよね。人に邪魔されない静かなプライベート空間を持ちたいというのがあるかもしれませんが、ここではほぼオープンです(笑) 僕にとってはそれがすごく心地よくて、その距離感と言うか温かみがすごく好きなんです。
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御手洗での今後の事業展開
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吉田:今後さらに目指していきたいことはありますか?
井上:国とか大きいものに全部ゆだねたり任せたりするんじゃなくて、自分の将来に責任を持った行動をしたいですね。10年後とか15年後の次なる社会の形をここで作っていけれたらと思っています。この地域に入って思うことは、課題そのものが実は地域の資源であったり、人との近さ、住民や行政とのわけ隔てないアットホームな関係が残っていたり、そんな魅力あるものが沢山あって、実現できそうなことがまだまだあるということ。そういうのをここでこのまちの皆さんにも外の皆さんにも形にして見せていけたら。働き方、暮らし方にしても、子育てや文化継承にしても、ここにしかない素晴らしいものを活かしながら続けられるものにするにはどうすればいいか、今後もいろんなことにチャレンジしていきたいと思っています。
吉田:ホント可能性はすごいいっぱいありますよね。
井上:いっぱいありますね。あと、理想の社会と言ってしまうとおこがましいかもしれませんが、いまの仕組みでは将来年金も十分にもらえるわけじゃないかもしれないし、でもそんなときに、例えば国の仕組みそのものが成り立たなくなったとしても、僕はこのまちでやっていけるよという地域独自の形を、ここでは実現できるんじゃないかと勝手に思っています。
吉田:子どもたちをうまく巻き込んでいくことで、潜在的な力がここにはあるということを伝えていけますよね。
井上:出来上がってしまったいまの社会の中でチャレンジをするというのはとっても難しいとは思いますが、僕らが新たなことにチャレンジして、いろんな課題を解決しながら「新しい社会を作ったんだぞ」というところを娘やこの地域の子どもたちに見せていけたらと思ってます。
吉田:特に、うちらの世代くらいだと、すでに満たされたものの中で生きていってる人たちが多いので、そういう状況だとどうしてもチャレンジをする気持ちが沸き起こりにくいですよね。
井上:やらないことも選べますしね。
吉田:けど、新しい社会を作り出すには、もっとうちらの世代が挑戦しないといけませんよね。都会じゃなくて、こういう地方だからこそ、そういうチャレンジができるということを井上さん自身が証明しながらやってもらうことで、またそれが派生するし、若い人や子育て世代が集まるようなまちに戻ってくれば、そこでまた活気が生まれますよね。
それによって、伝統や文化も守っていけるし、次への担い手も増えていくと思います。ただ、事業としてどう取り組むのかというのは大きな課題ですよね。井上さん自身、経営者でもあるし、当然社員もいる中で売り上げも上げていかないとなりませんよね。ただの遊びでやってるわけではないと思うので、それは試し試しだとは思いますが、その中で次の一手を見出すことが必要なんだと思います。相当心身ともにすり減らしながらやっているところもあるんじゃないですか?
井上:僕は40歳まであと3年ほどありますが、ある程度僕が死んでも回るような事業づくりをしたいと思いながら必死に動いてる感じですね。
吉田:いま井上さん自身が持っている目標から考えると何合目くらいにいる感じでしょうか?
井上:全体で言えばまだ5合目くらいですかね。とりあえずいまのところはハコの部分は多くの人の力を借りながら作れました。でも、まだまだそのハードの部分を含め、人材や働き方、教育などソフトの部分の仕組みをもっともっと作らないといけません。カフェ若長だけで言えば、一緒に創ってくれているスタッフのおかげで形ができつつあります。ただ毎年毎年というか、毎日毎日ニーズに合ったものに改善していかないとそれも廃れていくし、いいものを提供できないと思っています。
いまあるそれぞれのお店を考えると、店ごとに個性ある顔があって、それぞれに大事にしてくれるお客さんがあって、というところが出来上がれば事業づくりの形としての目標には到達できると思います。日曜日のカフェについてはいまスタッフに任せてます。
吉田:完全にですか?
井上:僕は近くにいますけど、何かあったときにはフォローしながら回していけるようになっています。尾収屋をやってくれている矢野君はいま30歳ですが、彼の成長も期待しています。楽しいが先行しすぎて変化のスピードが遅くなることもありますが、ともに切磋琢磨しながら、彼が彼らしく活躍できる場所になればこの上なく嬉しいです。
吉田:そういう仲間が今後もどんどん増えていけるとおもしろいですよね。同じ時間を共有しながら、今後、30~50年くらいは一緒に生きていく可能性もあるわけなので、そのときにこの風景がとうなっているかも非常に楽しみですね。
井上:この地区も今年度は未来計画事業として、まちのビジョンを描き、これからどう進んでいくかを決めることになっています。まち独自で空き家のデータベース化をしたり、重伝建を考える会のホームページも作り、残していくべきものをどう発信していくかなど、やることが盛り沢山ですが。
吉田:この地区のみんなを巻き込んでいけるような体制を作っていけたらいいですよね。呉市だけではなく、広島県とも一緒に事業を進めたりしていますが、行政とも組んでいくことで相乗効果があるんじゃないかと思います。
井上:ほんとにありがたいお話ですね。これも流れがあると思うんですよね。最近地方創生の言葉を多く聞くように、国や県としても地域としてもやるべき課題とニーズがあって、もちろん僕としてのミッションもあるし、その流れが重なる部分がいまここにあると思うんですよね。
吉田:そうやっていろいろと巻き込んでいけると、いろんな人たちがまた来てくれて、また新しい流れが生まれていきますよね。
広島県内からここに来る人を増やしていくことは当然ですが、ここに来て思ったのは県外からもどんどん来てほしいということ。この景色は是非とも知ってほしいですね。
井上:おもしろいですよ。まだオープンにできないこともありますが (笑) いろいろ変化していきますよ。
いま「よーそろクルー」を募集していて、有料会員なんですけど、月々540円の会費を頂いて、ここでしかできない体験会に招待をしたり、うちの各店舗で利用できる500円の商品券をプレゼントしたりしています。
吉田:会員の目標はどれくらいに増やしたいですか?
井上:目標はそんなに多くなくていいんですけど、まずは普通のクルー会員で50人。将来的には300人くらいは欲しいなと思ってます。さらに特別なプレミアム会員も作りたいんですが、まずはクルー会員に好評をいただけないと次には進めないので。どれだけ僕は深いディープなサービスを提供できるかが勝負だと思っています。
吉田:会員の皆さんに飽きさせちゃいけないみたいなところもありますよね。
井上:それもちょっと考えなくちゃいけないですね。
吉田:いろいろ仕掛けていくと、なんかアミューズメントパーク化しちゃいそうですね。
井上:エコミュージアム構想みたいなものとかありますけど、僕もそういうイメージはおもしろいなと思っていて、このまちにしかない大切なものを維持するために相応のエネルギーと費用はかかります。まちの文化や残すべきものを安っぽく見せず、発展させながらちゃんと伝えることはとても大事だと思っていて。だから入館料ではないですが、まちとしてある程度稼ぎ出せれる仕組みが必要じゃないかと思っています。
吉田:何らかの手段でお金を落としてもらえるようにしていくことですよね。
井上:そうですね。そうしないと継続もなかなか難しいと思います。
吉田:全部ボランティアベースでやったら息切れしちゃうと思います。そこはビジネスとしてお金もしっかり落としてもらう中で、次の資金を得ていくことにも繋がっていくし、雇用という形にも繋がっていくと思います。
どういった人にここに来てもらいたいですか?
井上:ざっくりですが、やっぱり日本の文化が好きで、ここを気に入ってもらえる人、大事に思ってもらえる人に来てもらいたいなと思いますね。
吉田:それが前提条件だと思いますが、いろんなスキルを持っている人だとか、まずは来てみないとどういう化学反応が起こるかわからないですよね。
井上:仕事を創り出せる人というか、自分で情報を発信して収集できる人ですね。好奇心旺盛で人当たりよくて、人の話が聞ける。まぁ、いろいろあります。挙げたらだいぶ絞り込まれちゃうけど、「贅沢じゃ」って言われちゃいますよね(笑)
吉田:いや、そういう人材が来たら、なおおもしろいですね。今日はありがとうございました。