断っておくが『あまちゃん』が大好きだから書くのではない。
(もちろん大好きだけど)
テレビ60周年という節目の2013年。
久しぶりに視聴者をワクワクさせてくれてテレビの魅力をここまでというほど見せつけてくれたNHKの連続テレビ小説『あまちゃん』。
節目の年が終わろうとしている年の瀬(12月30日)の「一挙再放送」で一体どんな放送をなるのか、テレビ制作の現場で長く過ごし、現在はテレビ批評も仕事にする人間として、注目していた。
10月に放送された「総集編」の前編・後編は正直言って、期待はずれだった。15分×156回分=39時間分のドラマを強引に3時間にまとめ上げたため、ディテールが削れてしまった。
話の展開が急すぎて、ストーリーは分かるけれども、リアルタイムのOAで笑えたところが「間」がなさすぎて、笑えない。
楽しめない。
あんなに面白かったのに・・・。
"夏ばっぱ"が憧れの人である橋幸夫に再会したシーンなどすっぽり落とされていてがっかりだった。ミズタクこと、水口琢磨がマネージャーとして種市先輩との2人きりの夜に割って入るシーンやアキが映画のヒロインに選ばれた時に思わず抱きしめる感動シーンも落とされた。
ところがNHKは、この「総集編」(3時間バージョン)を文化庁芸術祭に出品した。
しかし、先日発表された選考結果では、『あまちゃん』は選に漏れてしまった。
もっとも芸術祭大賞のテレビドラマはやはりNHKの特集ドラマ『ラジオ』だったけれど。
『あまちゃん』の制作スタッフは残念だったに違いない。
156話を全部出したら、間違いなく「大賞」だったと個人的には思うけれど。
さて、12月30日の「総集編」=『暦の上ではディセンバー・これで見おさめ!じぇじぇじぇ!"あまちゃん祭り』。
内容は一体どうだったのか?
およそ10時間弱の放送時間。
今も放送中で見ている最中だが、なかなか良い。
「総集編」(3時間バージョン)で落ちてしまったディテールの多くが残っていて、156回を一気に振り返ることができる。
それぞれの場面の「じーんと来る台詞」がちゃんと心に伝わってくる。
また一度に見ることで、前のシーンの台詞が後半のこんなところに生きているのか、などの発見もある。
いつも朝の『あまちゃん』放送終了後にスタジオでイノッチこと井ノ原快彦と絶妙な"受け"コメントを口にしていた『あさイチ』の有働由美子アナが「語り」を担当している。本編での宮本信子や能年玲奈の「語り」と比べると、劇中人物ではないのでやや興ざめな面があるが、それでも、人と人との「関係」を意識したドラマらしい粋な配慮を感じることができて、それはそれで楽しめる。というか味わい深い面もある。
今回の『暦の上ではディセンバー・これで見おさめ!じぇじぇじぇ!"あまちゃん祭り"』(総集編10時間バージョン)はどうだったか。
やはり、ミズタクがアキを抱きしめるあの感動のシーンは今回も落とされていたが、それでもドラマのディテールはかなり残されている。
今回の総集編(10時間バージョン)は、評判が良い連続ドラマの場合の「再放送」のあり方に新しい可能性を示した。
あえて、単なる3時間バージョンに終わらせず、長時間バージョンを放送したこともその一つ。
2つめは単なる再放送ではなく、「今」を入れ込んだことだ。
単なるドラマの再編集だけでなく、それをスタジオで見ていた有働由美子アナをドラマ内に入れ込んだことに、「新しいこと、面白いことをやってやろう」というこの制作スタッフの「面白がり精神」を感じる。
それも下手ではなく、とてもうまく登場させている。
「面白がり精神」がなければテレビは面白くならない。
テレビの本質には、制作者自身の好奇心が肝心だ。
制作者自身が「面白がる」ことをしなければ本当に面白いテレビ番組にはならない。
最近のテレビが全般的に閉塞した感じなのは、徹底して面白いことを考えてやろうとする精神が現場スタッフに希薄になってしまったからだ。
数字を取ることやコンプライアンス上の問題ばかりを気にして安全運転するだけの制作現場からは、新しいテレビ番組は生まれてこない。
30日の放送(「総集編」10時間バージョン)では、ドラマとドラマの間に、お楽しみの劇中歌を出演者たちに歌わせていたのも新しい。
特に『あまちゃん』は歌がふんだんに使われるドラマだ。
劇中歌『潮騒のメモリー』をはじめ、『いつでも夢を』『南部ダイバー』などの歌がドラマ全体の記憶になっている。
特にGMT5と天野アキによるステージでの歌の披露は東日本大震災で延期になっていた。
ドラマでは、それっきりになっていたが、12月30日の放送ではドラマとドラマの間でGMT5と天野アキが『地元へ帰ろう』をフルコーラスで歌っていた。
東日本大震災は実際に起きたことだけに「巻き戻す」ことなどできない。時間は取り戻すことができない。
私だけかもしれないが、それゆえに歌われなかった『地元へ帰ろう』が気になっていた。
心のどこかで、あのステージは永遠に延期になったままなのかが気になっていた。
ドラマの中でも2度と歌われなかった。
しかし・・・・ドラマでは歌われないまま完結したとしても、「夢」として聞けないものか。
そんな割りきれない思いがどこかにあった。
今日の放送では、ドラマの中でも存在しなかった『地元へ帰ろう』(天野アキとGMT5)のステージを見ることができた。
ごくごく小さなことかもしれないが、そんなドラマ以上の「夢」を見せてくれたのもテレビとして新しい。
テレビでこそ「夢」を見せてほしい。
ドラマの本編で実現しなかったことが、番外編で実現しても良いのだ。
大震災で不可能になった「夢」もテレビなら実現させられる。
それがテレビのこれからのあり方だろう。
いろいろな筋書きがありうる。
番組は絶えずバージョンアップしていて、その時その時の制作者の「思い」が見る側の心に何かを残す。
脚本・演出を始めとして制作スタッフの「面白がり精神」やこだわりの賜物だろう。
そういう意味で、「総集編」(3時間バージョン)にがっかりした身には「総集編」(10時間バージョン)は期待以上の出来だった。
さて、後は『紅白歌合戦』での「あまちゃんコーナー」を残すのみ。
テレビ60周年の最後の夜、『あまちゃん』はどんな放送を残してくれるのか。
ゆめゆめ、いつもの『紅白』のわざとらしい善意押しつけの演出などに取り込まれることはあってはならない。
もちろん、クドカンも演出陣もそんなこと許さないと思うけれど。
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上記の文章は、「総集編」(10時間バージョン)の放送中に書いたものだったが、最後まで視聴するとこの放送ではドラマの総集編の最後に「潮騒のメモリー」の劇中人物によるメドレーが歌われた。最初の男性の歌声は、本編には出てこなかったが、音楽を担当した大友良英のものかなと思ったが太巻のものらしい。デモテープを作った時の仮歌という設定の声質なのだろう。
こういう挿入にも、「面白がり」の精神が表れている。
「総集編」(3時間バージョン)では物足りなかった歌も今回はたっぷり聞くことができた。
そして、ドラマ部分の後は、「やはり・・・」という放送があった。
本編の日々のドラマでは定番だった『あさイチ』のスタジオ受け部分がついていたのだ。
有働アナとイノッチの2人が長い受けコメントを展開していた。
イノッチによる「なぜドラマの最後でユイとアキは堤防でジャンプしたはずなのに海へは飛び込まなかったか」という解説(海に飛び込んでしまうと北三陸を捨てて東京に出ていくことを意味する、という独特の説)もマニアックながら、そういう見解もさもありなんというものだった。
そう、このドラマには「その後」があり、「今」がある。
様々な「解釈」ごとにそれぞれの人の心にいろんなストーリーがある。
この受けコメントで2人が言っていたのは、『あまちゃん』本編の最終回は土曜日で『あさイチ』のない曜日だったこと。そのために2人は最終回の「受け」を言わずに不完全燃料していたらしい。
そのモヤモヤを解消したいという『あさイチ』MC2人の「夢」もかなえさせる。
そんなふうに、いろいろな人たちの、その後の「夢」も実現させる放送。
番組を制作している人と、見ている人がつながるように、番組を作る。
こう見たい。
こう見てほしい。
そんな思いを交錯させる。
見ている側の「思い」を想像する徹底的なサービス精神は最後まで健在。
最近では珍しくなった良質なテレビマン精神に触れるような放送だった。
拍手。
(この記事は、12月30日のYahoo!ニュース個人『暦の上ではディセンバー・これで見おさめ!じぇじぇじぇ!"あまちゃん祭り"』が広げたテレビの可能性から転載しました)