問題発覚から1か月経って初めて行われた本人による記者会見。
冒頭だけ聞こうと思って見始めたニコニコ生放送の中継に引き込まれ、最後まで視聴した。
彼が犯した「社会的な罪」をわきにおいて、この会見を冷静に眺めて気がついたことがある。
この人物の「自己プロデュース力」はやはり並々ならぬものだということだ。
まず、長い髪をばっさり切り、サングラスも外して、以前の「いかにも芸術家風の風貌」とはまったく「別人」の「ごく普通の謝罪する男」に生まれ変わった姿で報道陣の前に登場したことだ。
あまりの印象の変わりように記者たちがどよめくなかで会見が始まった瞬間から、会見は佐村河内氏のペースで進んだように見えた。
記者たちが厳しい質問で攻めたてても、「実直そうに見える」佐村河内氏は全体的には真面目な口調で回答を繰り返し、2時間半、「実直そうに見える」表情を崩すことはほとんどなかった。
これほど自分が他人の目にどう映るかを計算しつしたように「自分」を演じられる人間はかなり特殊だと言える。
会見を聞いていると、かつてテレビに登場し、その時代の視聴者たちがその言葉の裏に一末の疑念を抱きつつも関心をかきたてられ、テレビに釘付けにさせられた人間だちの顔が浮かんできた。
ロス疑惑での故三浦和義氏、オウム事件での上祐史浩氏など・・・。
佐村河内氏の会見で披露した「語り」はかつての時代を象徴した「人物」像に匹敵するほど、人間という存在の奥の深さを私たちに見せつけた。
佐村河内守という人間は、善悪は別にして、今の時代を象徴する「人物」になったということが言える。
さて、2時間40分にも及んだ記者会見は、彼とゴーストライター新垣隆氏との関係の詳細など多岐にわたった。
私が唯一関心を持っていたのが、彼がこれまで出演したドキュメンタリー番組の制作者たちとの「関係」や「取材のあり方」についてだ。
制作者たちは彼が「作曲家」を演じていたことを知っていたのかどうか。「重い聴覚障害者」を演じていたことを知っていたのかどうか。
原爆で命や健康を失った人たち。大震災で命を落とした人たち。その遺族。
それらの人たちへの「共感」や「鎮魂」を音楽の力で果たそうとする「求道者」を演じていたことを知っていたのかどうか。
知らなかったとしても「おかしい」と感じる瞬間はなかったのかどうか。
そういう疑念よりも、佐村河内氏の作り出す「物語」を強くアピールすることの方にばかり注意が回ってしまう構図がなかったのかどうか、ということだ。
様々なテレビドキュメンタリーで彼は、「杖をつきながら岩場の海岸を杖をついてよろよろと歩いて」いたり、「家の中を這いずって動いて」いたり、思うような着想が浮かばず「いらだちのあまり壁に頭をぶつけて」いたりしている。
「全聾の天才作曲家」のイメージに合うように、サングラスをかけ、手に包帯をし、杖をついて歩いている。
佐村河内氏は記者会見で「すべて自分のせい」で「制作者たちをだましてきた」という表現をした。
「(自分による)過剰演出だった」「制作者は悪くない」とも。
佐村河内氏が登場したのはNHKスペシャル「魂の旋律~音を失った作曲家~」を始め、「ゆうどきネット」「あさイチ」「ニュースウォッチ9」などの番組群。民放もフジ「めざましテレビ」、TBS「金スマ」など。
どれもその才能を激賞し、障害を背負った人間ゆえの共感力で、被爆者や大震災の遺族などと「魂の交流」を果たすという物語を量産し「サムラゴウチ神話」づくりに加担した。
後で、あれは「過剰演出」でしたと言われると、いろいろなシーンが滑稽に見えてくる。
頭を壁にガンガンぶつける場面、わざわざ歩きにくい海辺の岩場を杖ついて歩く場面、苦痛のあまり部屋の中を這って歩く場面など、カメラマンが一体どうやって撮影したのだろうか。岩場を歩く、というシーンの撮影でテレビ局側が「海辺を歩いてほしい」とお願いしたことなどがなかったのか、あくまで佐村河内氏がそこを(杖なのに)歩きたいと言い出したのか、など、1つ1つのシーンの撮影にいろいろな疑問が浮かんでくる。
佐村河内氏の言うように、彼がテレビ局をだましていたという言葉が真実だとしても、テレビ局の側は「なぜだまされたのか」「なぜ」気がつかなかったのか」「なぜ彼の自己プロデュースを手助けする結果を引き起こしたのか」はそれぞれ、検証する責任があると思う。
現時点での私の感想は、佐村河内氏をウソをテレビが見抜けなかった背景は、現在のテレビ取材の「現状」に深くかかわっている、ということだ。
なぜ、天下のNHKスペシャルを始め、揃いも揃って、だまされてしまったのか。
「障害を持つ天才が苦しみを背負う人々を音楽で癒す」というストーリーがテレビにとって理想形の"感動物語"だったからだろう。
これ以上ないという感動物語だったからこそ、誰も疑わなかった。
問題のありかをじっくり伝えるドキュメンタリーにさえも安易な「物語性」を要求するような、そんな風潮が制作現場にはある。
だが「物語」を求める必要がどこまであるのかという点を問い直す必要がある。
また、テレビ制作者は、自分のネタや素材をより貴重な番組、より重大な社会問題、より視聴者に訴えるべき問題などとして付加価値をつけようとするのが業務上の性でもある。誰しも自分のネタをより魅力的な形で放送したいという欲求がある。良い番組枠で。多くの人に見てもらえる放送時間で。もっと長い放送時間で、と。
こうした背景が「ひょっとしたら偽物?」という目を曇らせ、各番組をあげての「サムラゴウチ神話への加担」に拍車をかけていなかったのか?と振り返るプロセスが必要だ。
NHKスペシャルについて言うと、佐村河内氏が「曲」を産み出す苦悩を撮影しようとしたものの結局、断られたという説明が入って、曲が生まれる瞬間は撮影されていない。
週刊文春の記事によると、撮影していない間に新垣氏からの新譜が密かに届けられ、翌日、「曲ができた」として披露される。
NHKの取材班は肝心の「作曲」の場面を撮影せずに引き下がったのだ。これが妥当だったのだろうか。
作曲家のドキュメンタリーで「作曲」の場面はいわば番組の「核心」だ。
一番のキモになる場面だ。
キモが撮れていなければ、番組の放送を見送る必要さえ出てくる。
キモを撮影しないで取材を終えながら、なぜ放送するという決定が下されたのか。
そこは検証すべき、最大のポイントだと思う。
一般的にドキュメンタリーの制作現場で先輩が若手社員に教える「注意点」がある。
「良い話」「良い物語」「感動的な話」は、どんなに自分が入れこんでも、そのまま「プラスばかり」で描くな。
どんなに素晴らしい主人公でも葛藤があり、人間的にダメなところもある。
「プラスばかり」で描いてしまうと、結果的にウソっぽい、表面的な作品になる。
その人物の「マイナス」部分、欠点や悩み、苦しみもちゃんと描いてこそ、初めて人物の輪郭が描ける。
だから、「マイナス」もちゃんと描け。
それができないと、その人物の魅力や功績が視聴者に伝わらず、取材に応じてくれた相手にも失礼な結果になる。
これは、制作者が取材対象を盲信し、あがめてしまうようなスタンスになると、ロクな作品にならない、というドキュメンタリー現場の経験則だ。取材経験の少ない、比較的若い制作者は一般的に、相手を盲信し、あがめるような作品づくりをしてしまいがちだ。
だからこそ「全聾の天才作曲家」の佐村河内守氏のドキュメンタリーを作るにあたっては、そうした視点はどうだったのかが問われる。
制作者が、本人の「マイナス」の場面、作曲の苦悩の場面を放棄したということは、実は致命的な問題だ。
この作品をドキュメンタリー番組、つまり、少なくとも事実を記録した番組、という前提で放送するうえでも、本来は不可欠なはずの要素が欠落したままで放送するに至ったことはなぜなのか。
それは視聴者にちゃんと分かるように説明してほしい。
佐村河内氏が記者会見をしたからといって、これで問題が終わりになるわけではない。
本人がどこまで真実を語っているのかは分からない。
本人に事情聴取できるようになったわけだから、各テレビ局は詳細な検証がこれから可能になってくる。
これから各テレビ局や各番組は、それぞれの番組の取材の交渉から撮影、編集にいたるプロセスを明らかにするべきだ。
できるだけ詳しく、後から検証可能な形で、検証番組や検証報告書を作り、発表すべきだ。
「物語」や「感動」を欲する制作者たちの薄っぺらさ。それは視聴者の薄っぺらさにつながっている。それをどうするべきかが問われている。
'''
佐村河内問題に、このままフタをしてしまうのか。'''
'''
各番組で検証するのか。'''
テレビ局はBPO(放送倫理・番組向上寄稿)が問題視しない限り、局内での検証を熱心にやらない傾向がある。
あるテレビ局の幹部が佐村河内問題の発覚後、こう言っていた。
「結果的にすべての局がだまれたのだから、自分の局だけじゃない。たいした問題にならずに済んでホッとした」
これは違う。
すべての局がだまされたのだから、「たいした問題」なのだ。
なぜ、だまされたのか。
細かく検証しないとまた同じことが起きる。
その時には、すべての局などではなく、「おたくの局」だけがやり玉に上がるかもしれないのだ。
佐村河内氏のドキュメンタリーを制作したすべてのテレビ局が検証番組や検証報告書を作成し、視聴者の前に公開するべきだと思う。
コトはテレビが自力で信頼回復できるかという大きな問題にもつながっている。
ゆめゆめ「本人による過剰演出でした」「私たちはだまされただけです」などという逃げ口上を許してはならない。
(2014年3月8日「Yahoo!個人」より転載)