フジテレビ「僕のいた時間」が開いた難病ドラマの新境地 ALS患者の切実でリアルな問題を描き切る

フジテレビのドラマ「僕のいた時間」が終わった。全11回。いろいろと考えさせられるドラマだった。このドラマは、これまで民放で放送されたテレビドラマとしては画期的なものだった。

フジテレビのドラマ「僕のいた時間」が終わった。

全11回。いろいろと考えさせられるドラマだった。

このドラマは、これまで民放で放送されたテレビドラマとしては画期的なものだった。

それは後で説明するとして、あらすじを追っていくことから始めよう。

三浦春馬と多部未華子が演じる、拓人と恵の大学生2人が就職活動中に知り合い、恋に陥るところから物語は始まる。

しかし、正社員として社会人生活を始めた拓人は、手足の不調を覚えるようになり、専門病院で診察を受けたら、難病の一つであるALS(筋萎縮性側索硬化症)であることが分かる。

全身の筋肉が次第に動かなくなり、話すこともできなくなる。自力で呼吸することも困難になり、そのままでは死にいたる。

治療法はないという神経性の難病がALSだ。

進行すると、精神はしっかりしているのに自力では何ひとつできなくなってしまうという残酷な病気でもある。

そのことを知った拓人は、恋人の恵には病気のことを告げずに別れる決断をする。

別れの拓人に嫌われたと思って拓人の大学の先輩と付き合い始めて、結婚することを決めた恵は、病気が進行して、電動車椅子に乗るようになった拓人と再会する。真相を知った恵は先輩との結婚することを止めて、拓人への思いを伝える。

「拓人がいい!」

2人での生活が始まるものの、拓人の病状は進み、呼吸も苦しくなってしまう。

最終回では人工呼吸器をつけるかどうか、という判断を迫られる。

ドラマでは詳しくは描かれなかったが、人工呼吸器をつければ延命はできる。

しかし、のどを切開して装着するため、声を出すことが二度とできなくなる。

また、痰の吸引・除去も定期的に必要なため、介護する人間にとっても大きな負担になる。

数時間おきに痰を除去しないと死にいたってしまうため、介護する人は夜も小刻みにしか眠れなくなってしまう。

このため、ALSの患者のなかには、人工呼吸器の装着をしないという選択をする者もいる。

そうしたなかで、拓人がどういう決断を下すのか。

最後までハラハラしながら見ることになった。

近所の中学生に頼まれた後援会で拓人は心境を語る。

「僕は何もできないので生きているだけで手がかかります。

排泄。

入浴。

食事。

痰の吸引。

それでも生きていていいんだろうか。そのことをずっと考えてきました。

僕が生きているだけで周りの人たちが生きがいを感じてくれるんじゃないか。

僕が生きているだけで生きる意味を、社会に問いかけ続けることができるんじゃないか。

じゃあ、生きているだけの状態で、僕が僕であり続けるにはどうしたらいんだろう。

そうなった時に僕を支えてくれるのは、

それまで生きた時間。

僕のいた時間、なんじゃないかって。

僕は覚悟を決めました。」

はたしてどんな覚悟なのか...と恵や友人、家族が見守る。

「生きる覚悟です。」

「いつかその時が来た時のために、今を全力で生きていきたいと思います。」

拓人はこうして人工呼吸器をつける、という選択をする。

そして、まぶたの筋肉を動かして文字を選んで声を出すパソコンの発声装置を使って、妻になった恵と会話し、最後の日々を過ごす、というシーンの後、2人の思い出がある海辺の場面でドラマは終わる。

このドラマの何が画期的だったかというと、難病患者の思いがこれほどリアルに描かれたことはかつて民放のドラマではなかったからだ。もちろん、毎年、夏に放送されている「24時間テレビ」(日本テレビ系)などで、難病患者が主人公になることはあるし、その折々にその病気の問題が描かれることはこれまでもあった。

だが、今回の「僕のいた時間」におけるALSの患者の問題の詳しい描き方のように、特定の病気について、人工呼吸器の装着のような一番切実な問題も含めて、ここまで詳細に描き切ったケースはないのではないか。

ALS患者にとって、人工呼吸器を装着するかどうかというのは、とても切実な問題だ。

私自身がこの病気の、この問題を知ったのは、かつて自分も制作にかかわっていた日本テレビ系列の「NNNドキュメント」という番組だった。

十数年前のことになるが、ある地方局が制作したALS患者の日常を追いかけたドキュメンタリーで 、取材されていた患者は「人工呼吸器は装着しない」という決断をしていた。

取材をした担当者から話を聞いたが、ALSの患者にとってやがて訪れる人工呼吸器をつけるかどうかの選択は、生きることの意味を取材する者にも問い迫る過酷な選択だったという。取材した担当者はこの問題を考えると、他の仕事が手につかないくらい毎晩のように考えさせられた、と取材時の壮絶さを話してくれた。ALSという病気の取材は取材する人間にとっても生半可の覚悟ではかかわることができないのだと、はたでも見ていても感じた。

そんな個人的な体験があったからこそ、ALS患者が登場するドラマで、人工呼吸器の問題をきちんと描いた制作者の「覚悟」を見届けることができたことは素直に拍手を送りたい。

この企画は、主演した三浦春馬自身がドキュメンタリーを見て、企画を局に持ち込んだのだという。

三浦春馬の、病気を宣告された時の表情。あるいは、次第に病気が進行するなかでの少しやせた顔の表情。動かない手で必死に字を書く動きの演技など、まさにALS患者の表情や動作をよく観察したものだった。

最終回、人工呼吸器をつけて、まぶたの筋肉を動かしてパソコンで発声する時の演技は秀逸だった。

口元の筋肉も弛んでしまう、舌が見える形でまぶたの筋肉を動かすという姿に彼の「役者根性」を見た思いがする。

三浦春馬にとっては俳優として「一皮むけた」といえるエポックメイキングのドラマとなったことだろう。

また、俳優では、医師役の吹越満の、冷静な医師としての「目で語る演技」も良かった。

拓人が「人工呼吸器をつけることにしました」と告げたシーン。

「はい」とすべてを悟ったような表情で、励ます。

「これから先、ALSとの付き合いはとても長くなります。ALSをかたきだとは思わないでください。自分の一部だと思って、一緒に生きていきましょう。」

多部未華子も目で思いを語る場面が多かったなかで健闘していたと思う。

そういう意味では、それぞれの役者たちがALSという病気のことをきちんと理解して芝居をしている印象を受けた。

実際のドラマ制作の現場のことは分からないが、おそらく、ふだんのお手軽なドラマと比べると、かなり丁寧なプロセスで制作されたのではないのだろうか。

冒頭のキャストやスタッフのクレジットには「医療監修 林秀明」「協力 日本ALS協会」「医療協力 東京都立神経病院」というスーパーが出ている。

林秀明氏は、ALSに関する研究の第一人者で、その専門的な病院である東京都立神経病院の院長でもある。

また、日本ALS協会はALSの患者や家族、専門医などの団体だ。

日本ALS協会は1986年(昭和61年)に、「ALSと共に闘い、歩む会」として、患者と家族を中心に、遺族・専門医・医療関係者や一般有志が集まり設立されました。ALS患者の療養生活の向上と治療法の確立を目的とし、特定の宗教や政治団体に属さない非営利の組織です。

出典:日本ALS協会のホームページ

日本ALS協会のホームページには、ドラマの撮影スタジオに患者らが訪問した時の写真も掲載されている。

つまり、ドラマの制作者や俳優たちが患者や家族、医師などと「良い関係」を築いた上で、綿密に取材をしてドラマを作っていたことがうかがえる。

毎回、番組の最後には以下のテロップが出ていた。

「ALS(筋萎縮性側索硬化症)には、多様な症例があり、症状の程度・進行のスピードは人によってさまざまです。この番組は、取材を基に医療監修を受け制作したフィクションであり、登場する人物・団体・小道具の設定等はすべて架空です。」

ちょうどこのドラマが放送された水曜10時。裏の時間帯で放送された児童養護施設をめぐるドラマについて、児童養護の専門家らから批判の声が数多く上がった。

一方、この「僕のいた時間」に関しては、医師や支援者、患者などからの批判はほとんどなかった。

テレビ番組の放送倫理を管轄する第三者機関BPOの関係者も、「この2つのドラマへの視聴者の反響はとても対照的だった」と話している。

ドラマのなかでALSという病気について医師から告げられた拓人がこう叫ぶシーンがあった。

「それでも生きているって言えるんですか?」

だが、人工呼吸器を使い、声が出なくっても、それでも人間は生きていく。

その美しさ、気高さを伝えたドラマだった。

(2014年3月20日「Yahoo!個人」より転載)

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