「本当に強い人間は、弱いものをいじめない。」は本当か?
この事について先日、小学生の息子たちに話をした。
私がまだ小学生の頃、同じクラスに全く話をしない女の子がいた。本当にほとんど声を聞いたことがなかった。
たまに先生が無理やり、朗読や質問に答えさせるのだが、それでも蚊の鳴くような声しか出さない子どもだった。そんな調子だから、ある種の子どもたちからは、格好のいじめの対象になっていた。
その女の子がある日、本当に偶然、私が公園で遊んだ帰り道、その子がお父さんと手をつないで歩いている場面に出くわした。
その時、初めてその子の声がそんな声なのだと聞いてしまった。
お父さんと本当に楽しそうに、大きな声ではきはきと笑いながら話していたのだ。
なんともいえない気分になった。割り切れないようなそんな感情だった。
最近、特に50歳を過ぎた頃から、ふとした光景の中に愛おしさを感じるようになった。
例えば、私が医療支援活動を行うミャンマーでは深夜まで手術が続くが、ある人が自分の手術を控え室で一人で待っている。誰もいないその部屋で、ただ下を向いて静かに待っている光景をふと見る。
その時、とても愛おしくなり抱きしめたくなる。
手術を受けた子どもが次の日におもちゃで遊んでいるのを見た時も、汗水たらして路肩で働いている人を見たときも、同じような気持ちになる。
人が焦って必死になっているのを見たときも、緊張で手が震えている人を見たときも、同じような気持ちになるのだ。
何でそんな気持ちになるのか?
多分、その人の人生そのものを、なんとなく感じとれるようになったのではないか。
その人の部分的なものではなく、その人を全体として感じとるようになったのではないか。
ある光景を、その中心に存在するある人物だけでなく、その人物を中心にした全体的な構図の中でその光景を理解できるようになったのではないか。
と思っている。
だから、抱きしめたくなってしまうのは、きっとその人物の全体性に対して愛おしくなってしまうからだろう。
ところで、これも最近なんだが、映画やドラマでいじめのシーンが出てくるといたたまれなくなるのだ。中学生が、ある子どもを直接ではなくても机や椅子をいじめの意味で蹴っているシーンですら、みていられない。
何でこんなことをするのか理解できない?
意味がわからない??のだ。
しかもそれは生理的なレベルで既に受け付けなくなっている。
昔はそんなことは全然なかった。
でも最近どうもだめなのだ。
それでふと、思ったのだ。
人間、本当に人としての力がついてくると、こんな感じになってしまうのだと。
すなわち、人間として強くなるとこうなっていくのだと。
だから、「本当に強い人間は弱いものをいじめない。」は正確には、
「本当に強い人間は弱いものを(生理的に)いじめたくなくなる。(生理的に)いじめることができなくなる。」ということなのだ。
強いから「いじめない」のではなく、強くなると「いじめることができなくなる」ということ。
これが、広がると社会的弱者や不正義に対して、生理的に我慢できなくなってしまうのだと思う。
今の私が、小学校の頃の教師であったなら、きっとあの少女はいじめの対象にならなかったと思う。なぜならば、その子のことをめっちゃ褒めるから。
だって大きな声も出せないのに、健気にちゃんと学校に来ていたんだ。毎日毎日。
いじめられても、ほとんど休まず学校へやってきていた。
それだけでも何て愛おしい子どもで、何とがんばっているのだろうと、涙が出るほど感激してしまう。
心の中で何度も抱きしめていることだろう。
そんな子どものことを人生かけて守るよ、やっぱり。
教師なんだから。
本当はお父さんと話していたときのように大きな声で話し、笑えるはずなのに。
誰が声と笑いを奪ったのだ?
そう思うと、やっぱり教師のせいだと思う。
音読をその子に当ててる場合じゃない。
教師が子どもを心から信頼し、大切にしていれば、子どもたちの誰も傷つけることはできはしない。
息子たちに言ったんだ。
「人間いじめをしている間、人に意地悪をしたいと思っている間は、ちっちゃい弱い人間だということ。そういう人間は逆にいじめの対象にされるかもしれないよ。
人間強くなってきたら、いじめに興味がなくなりはじめる。もっと強くなってきたら関係なくてもいじめを見たらなぜか自分が傷つくんだ。そういう本当に強い人間になってもらえるかな?」