昨日6月23日は、太平洋戦争末期の沖縄における戦闘終結を記憶に刻む「慰霊の日」です。激戦地となった沖縄本島南部の糸満市にて、戦没者追悼式が開催されました。
私が総合監修を担当した「沖縄平和学習アーカイブ」は、ナガサキ・ヒロシマ、東日本大震災のアーカイブとほぼ同様のつくりになっています。沖縄県の公式事業として収集されたコンテンツはとても充実しており、ビデオ証言+6カ国語翻訳、沖縄公文書館から提供された資料写真などが掲載されています。
今回の記事では、遠い歴史となりつつある沖縄戦の記憶を辿る足がかりになればと考え、この「沖縄平和学習アーカイブ」に収録された資料のうち、いくつかをご紹介していきます。
まず、尖閣列島(尖閣諸島)で戦争を体験された石垣正子さんの証言映像です。
石垣さんの証言は、宮古島⇒西表島⇒尖閣諸島に至る、疎開の行程に沿ってマッピングされています。現在、さまざまな意味で世界の注目を集めている尖閣諸島で、68年前に何があったのかを知る手がかりとなる貴重な資料となっています。
石垣さんの例で示されているように、長期戦を扱う「沖縄平和学習アーカイブ」では、タイムスライダーを使って、証言者のかたの「足跡」を辿ることができます。例えば全証言を表示してみると、西太平洋の広い範囲に渡って証言が分布していることが確認できます。
この様子から、沖縄戦を語ることは即ち太平洋戦争を語ることに他ならないのだ、ということが良く分かります。全ての証言はGoogle Earthインターフェイス上、あるいはこちらのYouTubeチャンネルでも閲覧できます。
次いで、写真資料を紹介していきます。これらの写真はGoogle Earthの空中写真と地形に目視で重ねあわされており、過去と現在の光景を比較することができます。この手法は、ヒロシマ・ナガサキ、東日本大震災アーカイブと同様のものです。
まず慶良間諸島で撮影された、アメリカ軍の上陸用舟艇を捉えた貴重なカラー写真です。エメラルド色の海と真っ白な砂浜、背景の空中写真と写真内の風景はほとんど変わっていません。美しい光景のなかに挟み込まれた、禍々しい被写体に愕然とさせられます。
次は、那覇港を空爆する爆撃機から撮影された写真です。港湾施設から大きな爆炎が上がっています。この写真は、太平洋戦争で沖縄が経験した市街戦のようすを捉えたものです。背景にみえているのは現在の那覇の空中写真ですが、おおまかな地形は68年経った今でも変わっていません。
こちらは旧日本軍の嘉手納飛行場の写真で、攻撃に向かう米軍機から撮影されたものです。背景にみえているのは現在の嘉手納基地です。米軍は日本軍の飛行場を占領して、自らの基地として利用していきました。この写真に写っているできごとは、現代の沖縄が直面している基地問題に繋がっています。
次いで現在、美ら海水族館からも眺めることのできる伊江島の、米軍による攻撃直前の写真です。島にそびえるタッチュー(小山)の横に、米軍の急降下爆撃機の姿が小さく写っています。この伊江島にも日本軍の飛行場がありました。この攻撃で占領され、現在はアメリカ海兵隊の飛行場として利用されています。
なお敗走する日本軍は、滑走路に溝を掘り、再利用を難しくする妨害工作を行いました。そこを、米軍がブルドーザなどの重機を大量に持ち込み、急ピッチで造成している写真が残されています。これらの資料からは日本軍・米軍の大きな戦力差が伺え、沖縄戦が苦しい戦いだったことが分かります。
こちらは1950年に撮影された写真で、慰霊碑「ひめゆりの塔」に花輪を捧げる沖縄の若者を捉えたものです。前方には鳥居、後方には十字架がみえます。複雑な文脈を感じ、言いようのない思いに囚われます。なお、鳥居の上部にズームインすると、鳥居は恩納村の青年会から奉納されたことが分かります。
次は首里城近辺で撮影された写真です。「鉄の暴風」と呼ばれた米軍の爆撃により、まったく何も残らないほどに破壊しつくされています。世界遺産となり、観光客でにぎわう現在の状況は、この写真からは想像もできませんが、つい68年前、ここは焦土だったのです。
私たちはアーカイブ制作にあたり、個々の証言者の目線で捉えた沖縄戦と、アメリカ軍が冷徹に記録していった沖縄戦の双方を併置することを意識しました。ここでは個人が語る歴史と、イデオロギーによって形成されてきた歴史が重層されています。前回の記事で書いた「福島をいかにアーカイブするか」という課題のヒントになるかも知れません。
「沖縄平和学習アーカイブ」にはこのほかにも多数の資料が掲載されています。ぜひ、お時間のあるときにアクセスし、沖縄戦の記憶をひもといてみてください。