医師の情報サイトm3によると、2016年10月22日、台北で開かれた世界医師会で、日本医師会の横倉義武会長が次期世界医師会会長に就任することが決定した。名誉なことだが、以下に述べるように日本医師会の現状は世界医師会の理念から逸脱している。
世界医師会は、医療倫理について世界的合意を形成するためにいくつかの宣言を発出してきた。医師個人が守るべき倫理としてのジュネーブ宣言、人間を対象とする医学研究の倫理的原則を扱ったヘルシンキ宣言、患者の権利についてのリスボン宣言、医師の自律性を守るための医師会の役割を扱ったマドリッド宣言などだ。
●ナチスの残虐行為に医師が加担したことへの反省
世界医師会はホームページで以下のように自己紹介している。
世界医師会は、医師の独立性を確保して、崇高な倫理的基準に則った行動と医療を、いかなる場合にも実行できるようにするために創設された。こうしたことは、第二次世界大戦後、とりわけ重要だった。このため、世界医師会は自由な専門職集団の、誰からも支配されない独立した連合であり続けた。
第二次世界大戦当時、ナチス政権下のドイツでは、医師が、国家の命令により、合法的に残虐な人体実験を行い、多くの犠牲者をだした。こうした悲劇を繰り返さないために世界医師会が設立された。
●世界医師会の論理
世界医師会は、個人主義を全体主義の防波堤にしようとした。患者の判断の責任主体は患者個人にあり、医師の判断の責任主体は医師個人にある。個人の判断に国は関与してはならない。
患者には自己決定権があり、医師はそれを尊重しなければならない。前記ヘルシンキ宣言はこうしたインフォームド・コンセントの考え方を定着させた。
医師は自身の医学的知識と良心に基づいて行動する。したがって、行動には個人的責任を伴う。
ジュネーブ宣言の第10項目は「私は、たとえ脅迫の下であっても、人権や市民の自由を犯すために、自分の医学的知識を利用することはしない」と宣言している。これは特定の国家に所属しない世界医師会が、全世界に向かって発出した宣言だ。
医師は、国内法が医師を処罰するかどうかにかかわらず、患者の権利が侵害されるときは、ジュネーブ宣言を優先させる。
ジュネーブ宣言は、国家が理不尽にふるまう場合、医師個人に不服従を求めているが、個人だけで抵抗するのは無理がある。そこでマドリッド宣言は、医師会を、医師の自律を支えるための組織として規定した。ドイツの医師会は各州で独立している。これは独立した医師会が複数ある方が、国内で統一された医師会より国家の一元支配がおよびにくいという理由による。
●規範的予期類型と認知的予期類型
現代社会は機能分化が飛躍的に進んだ社会だ。世界社会は、世界横断的な部分社会システムの集合体である。個人は様々な部分社会システムと関わって生きている。個人の幸不幸について、資本家と労働者など階層間の問題より、個人が社会システムに包摂されるか排除されるかが重要になった。
それぞれの社会システムは独自に正しさを形成し、日々更新している。例えば、医療の共通言語は統計学と英語だ。頻繁に国際会議が開かれているが、これらは、医療における正しさや合理性を形成するためのものだ。
社会システムはコミュニケーションで作動する。それぞれの社会システムは独自の言語論理体系を発達させ、それに基づくコミュニケーションを活発に行い、システムの機能を最大化させた。
ルーマンは、コミュニケーションを成立させる予期のあり方に基づいて、社会システムを大きく二つに分類した。規範的予期類型(法、政治、メディアなど)は物事がうまく運ばないとき、自ら学習することなく、規範や制裁を振りかざして、相手に変われと命ずる。これに対し、認知的予期類型(科学、テクノロジー、医療など)は物事がうまく運ばないとき、自ら学習して、自分を変えようとする。認識を深め、知識・技術を進歩させる。
医療倫理は規範的予期類型に属する。医師に医療倫理が浸透しにくいのは、医療システムと言語論理体系が異なることによる。倫理システムは、過去に設定された道徳、規範にもとづき、違背に対し、相手に変われと命ずる。正しさを他に強制する。これに対し、医学を含めた科学の正しさはとりあえずの真理であり、更新され続ける。
このため、議論や研究が継続される。新たな知識が加わり進歩がある。医療は未来に向かって融通無碍であり、規範とは無縁である。倫理システムや法システムは、医療システムに対し、環境として外部から影響を与える。医療システムには、罰をもって単一の正しさを強制するような猛々しさはない。
●フィクションとしての規範
世界医師会はナチスの悲劇を繰り返さないために、また、医療の健全性を保つために、判断主体としての個人というコンセプトを中心においた。医療倫理を設計するのに、社会が理性を備えた個人から成り立っているとするフィクションが必要だった。
しかし、医療システムは、認知的予期類型であるがゆえに、本質的にフィクションの堅持を苦手とする。
例えば、有効な治療手段のない患者にどのように説明するのか。患者の自己決定権は「優しさ」のためにしばしば曲げられる。患者への優しさは、医療機関側の利害の方便としても使われがちだ。病院を存続させるために、収入を増やしたいという思惑もしばしば自己決定権をないがしろにする。
患者の希望、紹介元の医師の意向も、しばしば、主治医の説明をゆがめる。主治医によっては、患者、紹介元の医師と自身の判断を厳密に区別できない。自他の区別が明確でないということは、個人が確立されていないということに他ならない。これは、社会が理性を備えた個人から成り立っているという前提がフィクションであることを示す。
医療システムは、世界医師会が提案した医療倫理を承認したが、本質的に固定した規範を嫌う。規範的予期類型との接点で、常に規範としてのフィクションを承認するわけではない。例えば、過失を犯した個人を罰することで患者安全が高まるというフィクションに異議を唱えている。
●世界医師会と日本医師会
世界医師会は、自身を、自由な医師会の誰からも支配されない独立した連合であると宣言している。ジュネーブ宣言は、患者の権利が侵される場合には、法に対する不服従を宣言している。日本医師会の現状は、こうした世界医師会の理念と矛盾している。
かつて、日本医師会の医療倫理に関する文章を法律家が担当していた。法律の解説が、医の倫理として提示されていた。これに対し、一部から厳しい批判が寄せられたが、2014年9月3日付けで新たに作成された「医の倫理の基礎知識」においても、倫理というより、法律の解説とすべきものが多く含まれている。
法律学者である樋口範雄は総論にあたる「倫理と法」で、「法は倫理と相反するものではない」と述べた。しかし、第二次世界大戦当時、倫理と法の間で深刻な矛盾が生じたこと、医師が国家の命令で残虐な人体実験を行い、多くの犠牲者をだしたことを記述しなかった。世界医師会が創設された歴史的経緯を意識的に無視したか、勉強不足かのどちらかである。
意識的に無視したとすれば、日本医師会が、法システムに属する行政の強い影響下にあるためであろう。
日本医師会の滝澤秀次郎事務局長(2016年11月現在)は、厚労省の元医系技官である。厚生労働省健康局国立病院部政策医療課長,環境省総合環境政策局環境保健部長などを歴任した後、2006年厚労省を退官し、日本医師会事務局長に就任した。日本医師会の会長を含む12名の理事のうち、全体の4番目に位置付けられている。裏方の事務局長ではなく、意思決定に大きくかかわる立場だ。
●日本医学会高久史麿会長
日本医学会は日本医師会に置かれている。126の学会がメンバーになっている。
日本医学会に期待される役割は、各学会の自律性を高めることにある。現在の髙久史麿会長は、2004年4月1日以後、12年の長きにわたって会長職にある。髙久会長は、しばしば、行政と患者団体あるいは行政と医師との間に対立のある案件で、行政の意を受けて発言してきた。
●イレッサ訴訟
イレッサ訴訟で2011年1月7日東京ならびに大阪地裁で和解勧告があったが、同年1月24日、髙久会長は、「肺がん治療薬イレッサの訴訟にかかる和解勧告に対する見解」で、和解勧告に対する懸念を表明した。その後、同趣旨の下書きを厚労省が事前に髙久会長に渡していたことが明らかになった。同年2月24日のキャリアブレインは以下のように報じた。
髙久会長は、「厚労省側が面会を申し入れてきて、『これで見解を出してくれないか』と文書を持ってきた」といい、見解を発表したのは厚労省からの依頼があったためだと説明。
「それまで出すつもりはなかったが、長い付き合いもあり、もともと関心のある問題でもあったので」見解を出すことにしたという。依頼の意図について、厚労省側から特に説明はなかったというが、「和解勧告が厳しい内容だったので、和らげてほしかったのではないかと思う」と述べた。
厚労省は検証チームを作って調査し、同年5月24日、間杉純医薬食品局長と医薬担当の平山佳伸審議官、担当室長の3人を訓告、担当課長を厳重注意の処分とした。
●インフルエンザ特措法
インフルエンザ特措法について、髙久会長は、2012年4月10日、慎重な審議を求める文書を発表した。しかし、髙久会長の本当の狙いは批判を和らげることだった。キャリアブレインの取材に対し、「法案に反対する科学的根拠はない」と答えた。厚労省の担当者から説明を受け、医師が従わなかったとしても、罰則規定や強制力がないことが分かったためだという。
2012年10月12日、日本感染症学会は、インフルエンザ特措法について、緊急討論会を開催した。討論会で発言した専門家の中に、インフルエンザ特措法に賛成する者はいなかった。
●権力の監視
イレッサ訴訟について厚労省に問題があったことは、厚労省の認めるところだ。しかし、権力を放置すれば、当然、自らの意思にしたがって動く。権力の行動を適切に保つのに、自制に頼ることはできない。近代立憲主義は、チェック・アンド・バランスを基本的な制御手段としている。近代立憲主義、世界医師会の理念のいずれの立場からも、髙久会長の発言は不適切である。
インタビューでのやり取りから、高久会長が自らの行動に問題があったと自覚していないのは明らかである。近代立憲主義、世界医師会の理念を知らないとすれば、日本医学会長としての資格を欠く。高久会長が12年以上、日本医学会の会長職にとどまったことに対し、日本医師会には大きな責任がある。
感染症専門家がインフルエンザ特措法に対する反対意見を述べることができたのは、日本感染症学会が学会として、自由な議論の場を設けたためである。個人が単独で同様の発言をすると、行政からさまざまな嫌がらせを受けかねない。日本感染症学会の決断を高く評価する。
日本の医師の多くは、医系技官を恐れ、表立った言論による批判を避けている。
指導的立場の医師は、医系技官にすり寄ることで社会的地位を得てきた。逆に言えば、医系技官にすり寄る医師だけが指導的立場になれた。有効なチェックのない中で、医系技官は権力を拡大させ、統制医療を強めている。
上意下達のヒエラルキー的な統制は、冗長化した情報を反復して末端に流す。組織の頂点しか環境を認識してそれに対応することができないため、医療の営為を画一化し、硬直的にする。統制は、医療が複雑多様化している中で、失敗を繰り返してきた。
医系技官は、繰り返される失敗を、強制力を強めることで押し切ろうとしている。一部の医系技官は、言論を抑圧することさえためらわなくなった。民主主義が医療分野からほころび始めている。ナチスの台頭は権力の監視のゆるみから生じた。監視を怠ると権力は暴走する。日本医師会は、目先の利害にこだわって行政におもねり続けると、大きなものを失うことになる。
(2016年12月9日「MRIC by 医療ガバナンス学会」より転載)