四川省西部のガンゼ・チベット族自治州セルタル県に、ラルンガル・ゴンパ(中国語名は色達喇栄五明仏学院、通称は五明仏学院)という施設がある。日本では「僧院」と紹介される場合が多いが、チベット仏教(ニンマ派)を中心に主に仏教の教学活動に従事しており、1万人以上が学ぶ「世界最大の仏教アカデミー」などと呼ばれてきた。ところが地元当局は2016年夏以降、ラルンガル・ゴンパの僧坊など建物の撤去作業を進めている。事情を知る中国人信者に聞いたところ、当局が意図しているのはむしろ仏学院の"発展"だが、それこそが信者が憂慮していることと説明してくれた。
■講堂の周囲に赤い小屋がびっしり
ラルンガル・ゴンパの風景。講堂などがある大きな建物の周囲を赤い小屋がびっしり取り囲んでいる(2010年に筆者が撮影)
ラルンガル・ゴンパの設立は1978年にさかのぼる。実際に学生の受け入れを始めたのは80年。当初は30人程度の規模だったが、山西省にある古くからの仏教聖地、五台山を学院として参拝したことなどがきっかけで信者の間で知られるようになり、規模が急速に拡大した。
なお、日本ではチベット族が多く住む中国の行政区画について「チベット自治区」との呼称があるが、中国語名称は「西蔵自治区」だ。そのまま訳せば「西チベット自治区」。チベット族の居住地は四川省、青海省、甘粛省、雲南省などにも広がっており、各省で古くからチベット族が暮らしてきた地域にはチベット族自治州などが設けられている。
筆者がラルンガル・ゴンパを訪れたのは2010年だった。現地は海抜4000メートルの高地。礼拝施設や講堂のある大きな建物の背後の山に、赤い小屋がびっしりと並んでいた。この学院で仏教を学ぶ「学員(漢族信者が用いる用語)」がそれぞれに住む家を建ててきたわけだ。
講堂も見学させてもらった。卑俗な例えで信者の方々には本当に恐縮だが、日本人にとっては銭湯の脱衣場に似た構造と説明すれば、わかりやすいだろう。ただし、ずっと大きい。1000人程度は入れるだろう。「番台」には説法をする僧侶が座る。「番台」の前にはしきりがあり、男女が左右双方に分かれて床に直接座る。
男女が接近すると「煩悩」が発生しかねないとの配慮のためのようだった。宗教上の戒律は、あくまで厳格だ。
ひとつ気になったことがあった。女性の方がずっと多い。床をほぼ埋めつくす状態だ。男性側は後ろ半分ぐらいのスペースが空いていた。
中国では90年代に改革開放が本格化するとともに、宗教に関心を持つ人が増えた。人口の90%以上を占める漢族には他の少数民族の文化を評価しない人が多いが、新たにチベット仏教に帰依する人には漢族も多い。ラルンガル・ゴンパの場合にも学員の半数程度が漢族とされる。
現地で複数の僧侶に話を聞いたが、経済発展と同時に信者が増えたのは社会の急激な変化に心が追いつかなくなった人が多いようだ」との説明だった。女性が多いのも「男性よりもさまざまな圧力を受けるのだろう」と話してくれた。
■チベット仏教の信者から懸念の声「撤去は理解できるが...」
ラルンガル・ゴンパで撤去された僧坊。現地の信者から筆者に送られてきた写真(2017年5月撮影)
前置きが長くなってしまったが、最近になりチベット仏教を信仰する中国人男性にラルンガル・ゴンパについて話を聞いた。かつては公務員だったが、現在では自ら商売をしている人だ。氏名を明かさない約束なので、仮にAさんとしておく。また、以下の情報はあくまでもAさんの見方を反映したものであることをお断りしておく。
Aさんによると、地元当局がラルンガル・ゴンパの管理を強化するようになったのは2015年ごろで、16年夏には宿舎の撤去作業が始まった。Aさんは意外なことに、宿舎の撤去は理解できると話した。
当局は撤去作業について「安全上の理由」と説明している。実際に、これまでに火災が発生したことが何度かある。Aさんによると、小屋は山腹上に密集して建てられており水道もないので火災が発生すれば消火が極めて困難であることは事実だ。Aさんはさらに、「学員」が建てた小屋が違法建築であるのは明らかだが、当局は違法とは言っていないと指摘。「おそらくは気を使っているのでしょう」と述べた。
ラルンガル・ゴンパの学習期間は長く、一般には6年間だ。さらに進んだ密教などを学ぶ場合には13年間になる。Aさんによると、学員には出家した者と、学院に滞在してはいるが在家信者の身分で仏法を学び続けるものがいる。在家信者の場合、小屋が撤去されれば、結局は実家に帰るしかないだろうという。
Aさんは、当局がラルンガル・ゴンパの規制を強化した理由として、規模が極めて大きくなったこともあるとの考えを示した。法輪功の問題が発生してから、当局は個別の団体の規模が大きくなりすぎたと判断すると、管理を厳しくすることが通例だからだ。
一方でAさんは「当局がラルンガル・ゴンパを弾圧している」とする見方は否定。地元政府は学院の設立や運営に一定の資金を投じてきた。現在は特に、学院の「発展」を望んでいる。仏教関係者のさまざまなパイプから伝わってくる情報によると、安全問題を理由に撤去した小屋の代わりに「学員」のための宿舎を建てる動きがあるという。
Aさんによると、しかしそれこそが仏教徒の憂慮する問題だという。当局の目的が「観光開発」だからだ。ラルンガル・ゴンパのあるセルタル県は貧困地帯だ。2016年にも中央政府により貧困撲滅の重点対策県に指定された。
同県は住宅建設と都市化を進めることで、貧困からの脱出を図っている。Aさんは、中国の地方当局が宗教施設を観光産業発展のために利用する例は極めて多いと指摘。そして信仰が変質させられているという。
典型的な例が河南省の少林寺だ。1990年代から観光誘致や演武ショーによる活性化を積極的に進めた。最大の恩恵を受けたのは地元当局で、Aさんによると少林寺は完全に「企業化」してしまい、「純粋な信仰を追及する僧侶には、発言権がなくなってしまった」という。
ラルンガル・ゴンパには「学員」以外に参拝に訪れる一般信者も多い。中国の寺院は「入場料(拝観料)」を徴収するのが一般的だが、同学院はこれまで無料開放を貫いてきた。「少しでも多くの人に仏教に接してほしい」との考えによる。Aさんは、今後はどうなるか分からないと述べた。
仏教信者としてラルンガル・ゴンパなどの将来を心配しているAさんだが、中国政治の現状については肯定的だ。2012年に習近平政権が誕生して以降、改善された面も多いとして、「以前に比べて自由になった面があります。もっとも、外から見ても絶対に分からないでしょうけどね」と述べた。
また当局は、大学で一定以上の地位を持つ教授などの「知識分子」を対象とするアンケートもしばしば実施している。社会における問題点を解決するアイデアが反映された事例もあるという。Aさんは、「今の中国では、ほとんどの人が安定を求めています」と断言した。過去に文化大革命などの大混乱を経験し、その後の改革開放政策で暮らしが豊かになったことを実感している中国人が、社会の安定を強く望む例は、Aさん以外にも珍しくない。
ただしAさんは、「中国社会から信仰が失われてしまったことは実に危険です」と強い懸念を示した。人々が伝統的な道徳観を失って外国ばかりをむやみに崇拝することは、大きな問題だという。
ラルンガル・ゴンパで撤去された僧坊。現地の信者から筆者に送られてきた写真(2017年5月撮影)
Aさんに、漢族とチベット族の関係についても聞いてみた。Aさんは「対立している」との見方は取らなかった。ただし、考え方の違いはあると述べた。例えば、ラルンガル・ゴンパなど仏教施設を巡る状況について、「地元政府の高級幹部の中には、漢族もいます。漢族は宗教施設も金儲けのための価値があると考えがちです。チベット人の場合には(金儲けに)そんなに熱心でない場合が多いのですがね」と述べた。
Aさんによると、ラルンガル・ゴンパは当局との対立を望んでいない。対立しているように理解されることも望んでいない。仏教徒として、当局と考え方の違うことはあるだろう。しかしそれでもラルンガル・ゴンパと周囲の信者は仏教徒として、怒りの伴う対立は避けたいと考えているようだ。ラルンガル・ゴンパでは僧侶らが中国という国の平和、そして世界の平和を日夜祈りつづけているという。