文科省が国立大学に人文社会系学部や大学院の組織見直しを通知したことについて、京都大学の山極寿一総長は、「京大にとって人文社会系は重要だ」と述べ、廃止や規模縮小を求める文科省の通知を拒否した。新任総長の勇気ある発言に、強く賛意を表したい。
通知の文脈からみると、文系の中でも文学部などがターゲットにされているようだ。この際、断言しよう。京都大学は文学部なくして京都大学たりえない。極貧の浪人生活を経て京都で一人暮らしを始めた私が、「ああ、俺も大学生になったんだなあ」と感慨を覚えたのは、出町柳の喫茶『進々堂』で哲学書を読みふける学生を目にしたときであった。演劇に没頭する学生、能を舞う友人、学園祭になると哲学や宗教論争が巻き起こる環境に刺激を受けた。それらの環境の多くは、京大において少数派である文学部の学生※によってもたらされる。これこそ、理科系学生も含めた京大生、そして京都という歴史都市の資産であると考える。
世にいう京都学派は、私の恩師である佐藤幸治教授に引き継がれた憲法の分野にも存在するが、本流は何と言っても哲学におけるそれだ。怠惰な大学生活を送りながら、ふと「これではいかん」と思い立ち、西田幾多郎や三木清の著書を手にした。哲学書の中身はほとんど記憶の彼方だが、時に一人、熊野神社、銀閣寺、哲学の道をそぞろ歩きし、時に友人と大文字山に登り、「いかに生きるか」を考えた日々は、就職活動にもサラリーマン生活にも役には立たなかったが、私の人生にとってかけがえのないものである。人生の折り返しである40代になって、京都で過ごした日々の大切さを感じることが多くなった。
文科省が6月8日に出した通達には、人文社会科学系学部・大学院について、「組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう努める」とある。文科省が言う「社会的要請」という言葉からは、マーケットメカニズムの匂いが強く漂っている。もはや、文部科学省はその名前に値しない。学問を巡る絶望的な状況の中で、希望の光は理学部出身の山極寿一総長が敢然と反旗を翻したことだ。今こそ、国立大学関係者は学部を超えて戦うべきである。
※平成27年度入学定員は2866人中220人