今からさかのぼること15年。一年生議員だった私は、同僚議員と一緒に、雑誌(月刊『Voice』2003年9月号)に初めて論文を出した。勉強会を重ねて発表した論文だったが、「1000万人移民受け入れ構想」という刺激的な表題がネットで強烈な批判を浴びたため、政策として実現するには至らず、あえなくお蔵入りとなった。
ここ数年、働く外国人の姿を見る機会は格段に増えた。論文を発表した当時の反省は、現場を見ずに机上の空論で書いたことだ。まずは現場を見ようと思い、外国人技能実習生を採用した地元企業で話を聞いてみた。
すでにブログで書いたが、人手不足に苦しむ経営者も、苦労して日本にやってくる研修生も、彼らが日本で継続して働くことができる環境を求めている。
論文を久々に読み返してみた。いきなり1000万人という規模は大風呂敷を広げすぎるなど、若気の至りで力み過ぎているところがある。一方で、あれから月日が経ち、問題を再検証する必要があるのではないかという思いを強くするようになった。 まずは、15年前の論文の中で該当部分を読んでもらいたい。
(以下、抜粋)
戦後の60年。日本は、大雑把にいえば成功の40年と先送りの20年であったと大別されよう。
問題は先送りされた改革である。プラザ合意のなされた1985年、われわれはすでに改革の必然に直面していた。だが、バブル経済に代表される好景気により、そのチャンスは潰え、改革は先延ばしにされつづけてきた。われわれが今後何かを作り上げるにしても、この未達成感を一度どこかで払拭しなければならないはずだ。
いま求められている改革は、明確に時期を区切って、たとえば人口がピークを迎える2006年を目標年限としてはどうだろうか。これを境に、日本は有史以来初めて直面する人口減の局面に突入する。新たな時代のカントリーモデルを打ち立てるには絶好の年といえよう。
それがわれわれの提案だ。
世界から「ネオ・ジパング」と呼ばれる日本には、つねにチャンスが溢れ活気があり、その一方ではほどよい緊張と安らぎがなければならない。この国では、だれもが自己実現を果たすチャンスが与えられており、それによって人も資金も世界から日本をめざして自主的に集まってくる。
ただし、耳ざわりのよい言葉だけの目標を掲げても、結局、机上の空論、絵空事に終わってしまっては元も子もない。
以下、本稿ではいかに目標に至るのかを順次具体的に述べたいと思うが、まず理解してもらいたい前提として、目標そのものが極めて高い理想に基づいたものであるために、それに至るプロセスもやはり安易な道ではないことを念頭に置いてほしいということだ。
当然、なかにはアレルギー反応同様に、従来の日本人の感覚に照らすと強い違和感を覚えるような政策も含まれることになる。しかし、その場合にも、なぜわれわれがそうした提案をするに至ったか、その理由とプロセスを正しく理解してもらいたいのだ。
では、第一の提言をしよう。
われわれは「1000万人の移民受け入れ」を提案する。
近い将来で、われわれが真っ先に取り組まなければならないのが、先に述べた人口減少の問題であろう。
報道では、年金の財源がなくなるとか、若年サラリーマンの給与は膨らんだ老人たちを養うことにほとんど費やされてしまう、といった計算ばかりにやや偏り気味ではあるが、ほかにも、マーケットの縮小による購買力の低下や土地価格の下落、国際社会での存在感や発言力の薄れといった変化が予測されている。
日本の人口は、2006年をピークに、そこからは毎年約60万人ずつ減少していく。60万人という数字を都市に置き換えると、だいたい新潟市一つ分、二年で仙台市一つ分ということができるだろう。つまり、2007年から日本は毎年、新潟市一つ分の人口がボコリボコリと抜け落ちていく計算である。われわれは人口の自然減に任せるべきか否か。選択の時を迎えているのだ。
その一方で野放図に流入する外国人とのあいだには治安問題を含め摩擦が高まる可能性も高く、一定のルールづくりという点からも、一度きちんと指針を示すべき問題であることは間違いない。
外国人大量受け入れと聞けば、即座に反発を覚える読者も多いかもしれない。少なくとも漠然とした不安を感じる読者がほとんどだろう。それはやはり外国人による犯罪の増加や「日本的」な風俗・習慣が失われることを想起するからなのだろう。
だが、現在日本が抱えているさまざまな流入外国人による問題は、むしろ徹底した一つの方針や政策をもたず、建前としては厳しい入国管理政策を維持しながら、現実にはなし崩し的に不法な外国人の流入を容認してきたことに起因するのではないか。言い換えれば、これまで積極的にコミットしなかったがゆえの弊害とも考えられるのだ。
門戸を大胆に開く一方で、従来とは画然と違う体制で出入国を管理し、不正な流入をいっさい排除する。ただし、正式なルートを通じて受け入れた外国人に対してはきちんとしたサポート体制を整える。つまり、曖昧で一貫性を欠いた従来の移民政策に、目に見えるメリハリをもたせることをその最低条件とすべきだと考えられる。
これまで日本をめざして密航を試みた外国人は、犯罪目的の者を除いて、そのほとんどが単純労働に従事していた。そして一般の日本人の意識のなかにも、町工場や飲食店で働く外国人のイメージが強い。しかし、われわれが提案する移民構想でターゲットとしている外国人は、人手不足や若者が嫌う仕事を外国人で補うといった発想からではない。求められるのは、日本経済の牽引車となりうる人材なのだ。
その意味では、「高学歴者」や「専門性がある」といった漠たる基準ではなく、たとえば自動車産業のこの技術に関する人材とか、ゲームソフトのプログラマーや企業再建の手腕を持ったスペシャリストというように、きわめて具体的かつ明確なビジョンに基づいて、戦略的な移民の受け入れを実施すべきだろう。
一部では日本社会のホワイトカラーの生産性の低さが話題になっているが、日本のホワイトカラーを刺激して活性化させるという作用も、この移民受け入れ構想は期待しているのだ。また、日本人の弱点ともされる「起業」においても、外国人プレーヤーの参加は大きな起爆剤としての役割が期待できる。
優秀な人材が海外から移り住み、日本で事業を起こして成功させる。そうなれば当然そこには雇用も生まれる。大切なことは、こうした移民起業家たちが、最終的に日本に定着してくれるのかどうかであろう。
残念ながら、現在の日本に対する外国人の評価、とくに高い技術を身につけた外国人の評判はけっして芳しくない。その理由の大きなものの一つにこんな問題がある「日本では平等にチャンスが与えられていない」。技術や努力がきちんと報われないという意味でもあり、本当の競争原理が働いていないという意味でもある。
これまでも多くの留学生を受け入れているにもかかわらず、日本で話題になる外国人起業家もほとんどなく、概して留学生の評判も悪いのが日本の現状である。一方、アメリカなどでは、中国人やインド人を中心に多くのサクセスストーリーが生まれ、一般にアメリカでの定住を望む留学生が多い。この一事をもってしても、彼我の差は歴然であろう。
じつはこのことは、外国人の不幸である以前に、日本人にとっての不幸であることに日本人が気づいていない。
われわれは「ネオ・ジパング構想」を位置づけるにあたり、誰もが自己実現できる国という言葉を用いた。それは、風通しがよく、時代の移り変わりにも敏感に対応できる体制下でなければ実現困難な目標であることはいうまでもない。
ここで、一つ思い起こしてもらいたい。日本にもかつて大量の外国人を受け入れ、飛躍的な発展を遂げた時代があったということを。
細かい説明はここでは省くが、弥生時代には朝鮮半島から亡命者を中心に大量の外国人が日本に流入し、その彼らがもたらした稲作などの技術により急速に発展を遂げたという歴史があるのだ。
いまこそ、風通しをよくすることで外国から運ばれてくる人材や技術によって、金属疲労を起こしている日本の空気を一変させるべき時期なのだとわれわれは考えるのだ。
(以上、抜粋終了)
働くことが認められている在留資格は主に4種類。
第一に、在日韓国人などの特別永住者を含む永住者や、日系人などの定住者が46万人
第二に、教育、芸術、研究などの専門的・技術的分野の人材が24万人
ここまでは、労働力として正面からの受け入れと言えよう。
第三に、技能実習が26万人。前年比で22%増
第四に、資格外活動(留学)が26万人。前年比24%増
グラフからも明らかなように、外国人労働者の中で急増しているのは技能実習生と留学生だ。すでにわが国の製造業、農業、建築業、そして今後は介護分野も、技能実習生なくしては成り立たなくなっている。都内のコンビニで日本人店員を見なくなって久しいが、昨年あたりからは、私の地元の静岡県でも留学生の店員が激増している。技能実習生や留学生がここまで急増している背景に、わが国の労働力不足にあることは明らかだ。
技能実習生は3年、延長された場合も5年で帰国する。語学留学生には週に28時間という制約がある。移民など以ての外、高度人材以外の外国人労働者は受け入れないという建前を維持したまま、わが国は裏口から労働力を確保しているのだ。犠牲になっているのは、不安定な環境の中で働かされて日本嫌いになって帰国する外国人と、圧倒的な人手不足に苦しむ中小企業の経営者だ。
2月20日、安倍総理は、経済財政諮問会議で外国人労働の拡大の議論を指示した。政府も、深刻な労働力不足を放置できなくなっているのだ。一方、再三にわたって「移民政策をとる考えはない」と世論の反発を見越して、予防線を張っている。
移民に法的定義はないが、OECDの統計や、国連等においては「国内に1年以上滞在する外国人」を一般的に移民としている。この定義に即して見れば、技能実習生、留学生も含めてわが国にはすでに128万人(家族などを含めると250万人近く)の移民が働いており、直近の一年間で20万人を働くことのできる移民として受け入れたことになる。
「国際移住データベース」によると、フローで見ると、わが国はすでにドイツ、米国、英国、ロシアに続く世界第5位、アジアで第1位の移民大国となっている。移民受け入れに対しては懸念の声があるが、現実はすでに先に行っているのだ。
移民を本格的に受け入れるとなると、どこの国から受け入れるか、受け入れ職種をどのように限定するか、家族連れを認めるのか、認める場合、子どもの教育をどうするか、在留期間を限定するか、グリーンカードを出すか、課題は極めて多岐にわたる。いずれも、日本社会のあり方を問い直すものばかりだ。
移民の受け入れが難題であることは間違いない。しかし、海に囲まれているわが国は、他国と比べて、移民の流入をマネージしやすいアドバンテージを有している。わが国は、移民の受け入れの是非を議論する段階から、いかにして受け入れるかを議論すべき段階に来ていると私は考えている。
論文でも指摘した通り、わが国がかつて多くの外国人を受け入れ、飛躍的な発展を遂げた時代があった。私は、移民の受け入れが日本社会を発展させることにつながると前向きに捉えている。15年の月日を経て、今度は政策を練り上げた上で、移民の本格的な受け入れ方法を提案したいと思う。