東欧ベラルーシ出身のジャーナリスト、リサーチャー、作家エフゲニー・モロゾフ氏の新たな反シリコンバレーの本「すべてを解決するには、ここをクリックしてください -テクノロジー、解決主義、存在しない問題を解決しようとする欲望」(To Save Everything, Click Here (Technology, Solutionism and the urge to fix problems that don't exist))から、その一部を紹介したい。
第1章:解決主義とその議論
BinCam(ビンカム)というアプリがある。ゴミ箱のふたにスマートフォンをつけて、中身を撮影し、写真をFacebookのアカウントに送る。リサイクル度に応じて、スコアを得る。これも友人たちと共有する。センサーの技術と友人たちが見ているというプレッシャーで、リサイクルが進むという仕組みだ。
解決主義(ソリューショニズム)の問題点は、解決方法よりも何かを「問題」とする定義の仕方だ。たとえば、ハンマーを手に持つ人にとっては、すべてが釘に見えるのと同じだ。非効率、あいまいさ、不透明さ、これはすべて問題なのだろうか?
スマートテクノロジーのおかげで、料理についての知識はいらなくなった。台所のセンサーが何をすべきかを教えてくれる。
ある科学者たちは台所を「拡大現実」(argumented reality)に変える。天井にカメラなどをつけて、どの食材を使うかまでコントロールする。魚を切ろうとするとバーチャルなナイフがどこを切るべきかを教えてくれる。
このロボットあるいは「拡大された現実」がほかの場所にも入ってくるのではないか?
テクノロジーを拒絶せよというのではない。もっとほかに人間が栄える方法があるのではないか。
解決主義は昔からあったが、今は新しい形がシリコンバレーからやってくる。
インターネットには神話ができたと思う(注:神話としてのインターネットという意味を込めて、モロゾフ氏は本の中で "the Internet" と表記している)。現代の解決主義者のさまざまなイニシアティブを生み出すのがインターネットであること、また私たちが解決主義の欠点を見ないようにしているのもインターネットだ。インターネットの到来で、解決主義的態度が正当化されるようになった。
インターネット至上主義とは、インターネットがあるために、私たちは特別に固有な世界に生きており、すべてが深い変化の中にあり、「物事を直す」ことへのニーズが高まっていると考えることを指す。いわば、「科学」と「科学主義」(科学万能主義)のようなものだ。
第2章:インターネットのナンセンスとこれをどうやって止めるのか
インターネット、といえば、真剣な議論が止まってしまう状況がある。
今はどんな記事にもインターネットのアングルをつけて語られる。よく「インターネットはそんな風には働かない」などというが、本当だろうか?
グーグルもあのような活動になるのは仕方ないのだろうか?グーグル、Facebook、Twitterそれぞれの企業がそれぞれやりたいようにやっているだけではないのか?
どれほどTEDなどでトークをしても、たとえばグーグルのような大手検索エンジンに定期的に監査をかけるべきではないか、という議論は出てこない。そういう話になると、ネットのオープンさに対する戦争だという人もいるが、そう主張することで、インターネットの神話を作っている。
インターネットがなくなることも想定されていない。インターネットが存在する前のことを私たちは思い出さないようになっている。物理的に消えたブリタニカ百科事典のような例もあるのだが。
ネットにつながらない生活を1週間やってみる人もいる。しかし、オフラインはオンラインによって規定されている。
インターネットの終わりを想定できないのは、これを究極のテクノロジーとして考えているからだろう。インターネットの終わりは歴史の終わりだ、というわけである。まるで宗教のようだ。
グーグルのシュミット氏は政策立案者たちがインターネットの流れに沿って働くべきだ、といった。黙って眺めていれば、インターネットがすべてを解決してくれる、とでもいうようだ。
インターネットは単にケーブルとネットワークルーターがつながったものに過ぎないのに、これを知識や政策の源だとみなすことで、わくわくするようなテクノロジーに変わってゆく。
科学者スティーブ・ジョーンズは、インターネットはフランス革命、あるいはベルリンの壁の崩壊ほどに画期的な出来事だという。
そして、クラウドファンディングの仕組み「キックスターター」はインターネットを使う、だからよいものだ、と考えられている。しかし、実はいつもよい結果を生み出すとは限らない。間違った政治メッセージをあっという間に広げる可能性もある。果たして、公正で正義があるもの、と言い切れるのだろうか。
別のインターネット至上主義者ジェフ・ジャービスは、「インターネットはオープン、パブリック、共同作業的のように見える。グーグルもそのように見え、繁栄している。したがって、インターネットの価値とはオープンで、パブリック、共同作業的だ」と書いた。
しかし、グーグルは市場で競争をしている企業だ。オープン、パブリックなどの精神で機能しているわけではない。いまや多くのプラットフォームを閉鎖し、お金をとるようにもなっている。
オープンに使えるというウィキペディアも誰がどうやって動かしているのか、わからない。こうした点を分析することが必要ではないか。単に情報を引き出しているだけでいいのだろうか。
ハーバード大のジョナサン・ジトランはインターネットが普及したのはオープンなプラットフォームだったからといった。少しでもそのオープン性について門番的な動きをするものには懐疑の目を向けられてしまう状況がある。
ソーシャルメディアの発達は産業革命に匹敵するほど画期的な出来事だという人もいる。「画期的」といわれると、分析や議論がとまってしまう。どうしても変えられないものだと思うからだ。「デジタル革命」という言葉が独り歩きする。
インターネットは特別な出来事と解釈されているため、歴史と無関係と思われている。
まるで宗教のようになったインターネット至上主義には、「世俗分離」が必要だ。
第3章:オープンすぎて、痛い
インターネット至上主義者によれば、透明性はより活発で、責任ある市民生活につながるという。はたしてそう言いきってよいのか。
一旦インターネット上に出たものは消えないのだから、何でもオープンにするよりも、一定の歯止めをかける方法を考えてもいいのではないか?(続く)
(この記事は、2014年1月9日の「小林恭子の英国メディア・ウオッチ」より転載しました)