テロの怖さがじわっと来る、ドイツが舞台の映画「女は二度決断する」 自分なら、どうする?

「判断」をどう評価?
「女は二度決断する」監督のファティ・アキン氏(右)とダイアン・クルーガー。
「女は二度決断する」監督のファティ・アキン氏(右)とダイアン・クルーガー。
Daniel Zuchnik via Getty Images

ドイツ・ハンブルクを舞台に、最愛の夫と息子をテロで失った女性の苦闘を描く映画「女は二度決断する」。監督はトルコ系ドイツ人のファティ・アキン氏だ。30代で世界3大映画祭の主要な賞を受賞する「強者」である。アキン氏もハンブルクで生まれ育った。

「テロ」と言っても、ここでは近頃欧州で目に付くイスラム系テロではなく、極右ネオナチ系によるテロだ。主人公の夫はトルコ系移民。背景には、2015年以降にメルケル政権が積極的に受け入れた難民・移民の急増がありそうだ。

ここ数年、欧州で最大の難問の1つがこの難民・移民の流入だ。

2011年に始まった内戦の終わりが見えないシリアを含む中東、アフリカ諸国などからやって来た人々がトルコから対岸のギリシャの離島へ渡り、あるいは陸路でバルカン半島を北上し、北部欧州に殺到するようになった。これが極右政党の台頭の遠因と言われている。

時節柄、非常にタイムリーなトピックを扱った映画である。また、女性の「二度」の「決断」とは?

テロの痛みとクルーガーの熱演

映画の冒頭では、麻薬所持で有罪となり受刑していた男性ヌーリ(トルコ系移民)と主人公となる女性カティヤの結婚式の様子が紹介される。黒い長髪の男性と金髪・青い目の女性。異なる文化を背負った者同士が愛情で結ばれた。

それから数年が過ぎる。夫妻には男の子が産まれている。

ある日、妻は子供を連れて夫の事務所に入ってゆく。子供を夫に預けて外に出るまでの、家族3人の愛情表現が心に染みる。何と仲が良い家族なのか。

しかし、その後、事務所前で爆発事件が発生し、妻は夫と子供を失ってしまう。

妻を演じたのはドイツ出身のダイアン・クルーガー。家族を失った女性の衝撃、悲しみ、絶望感を全身を使って表現する。筆者は見ていて、鳥肌が立つほど「怖い」と思った。西欧諸国ではこのところ、イスラム系テロが市中で続発し、どこで自分もテロに遭遇するか分からない。クルーガーの演技を通してテロの犠牲者の衝撃と悲しみが初めて体感できたように思った。

クルーガーは映画の迫真の演技が高く評価され、カンヌ国際映画祭で主演女優賞を獲得している。

クルーガー扮するカティヤが警察の捜査を受け、家族には身勝手な言葉を浴びせられた後で、友人に支援されながらもとうとう自暴自棄になる様子を、映画は洗練された、独特のペースで映し出してゆく。

「異文化」同士の結婚を夫の家族も妻の家族も、実は喜んでいなかったことが分かってくる。

妻は爆破事件がすぐに「ネオナチの犯行だ」と直感したけれども、警察はすぐには信じようとせず、「トルコ系ギャングの争いなのでは」と言う線で捜査する。夫は昔、麻薬所持で受刑していたことがあるから、「麻薬がらみの犯罪に巻き込まれたのだろう」とか、「イスラム系テロでは?」と妻に聞いてくる。

しかし何とか容疑者が見つかり、次のドラマの幕(第2幕)が開ける。今度は裁判の話である。

第2幕で「正義」を得られなかったカティヤは、最終章のドラマに突入してゆく。

推定無罪の限界

ドラマ全体の流れの美しさや、物語の展開の斬新さ(次にどんな場面になるのか、予測ができない)に心を奪われながら見ていたが、欧州に住む筆者からすると気になる点もあった。

世界中の法治主義国家の原則となっている「推定無罪」という考えがある。「何人も有罪と宣告されるまでは無罪と推定される」という基本原則だ。いかに状況証拠がそれらしくても、裁判の場で「有罪」とならなければ、人は「無罪」になる。

裁判になって結果がどうなるかは、すでにいくつかの映画評で概要が出ているので隠す必要はないだろうが、「正義は行われなかった」とだけ書いておきたい。

この映画の裁判の結果を見た時に、推定無罪の原則がある社会の限界にぶち当たった気がした。

「判断」をどう評価?

最も割り切れない思いをしたのは、裁判後に始まる「第3幕」の展開だ。裁判ではらちが明かないと思ったカティヤは、ある行動を起こしてゆく。最終的にはこれが彼女の「決断」につながってゆく。

映画の結末について、英語圏で及びドイツ語圏でどう評価されているのかをネット検索してみた。筆者が拾ったものの中では英ガーディアンの映画評が最も厳しく(星5つの中の2つ)、英タイムアウト誌も星2つだった。

この映画は一時米アカデミー賞の外国映画賞を獲るかもしれないと言われていたので、「その価値はない」と書いた評価もあった。これは欧州ニュースを扱うサイト「ザ・ローカル」の映画評で、書き手はザ・ローカルのドイツ版編集者のヨルグ・ルイケン氏である。

一方、日本の映画評の中では、例えば「シネマトゥデイ」には映画評論家の清水節氏が「『眼には眼を』を乗り越え憎しみの連鎖を断ち切るひとつの可能性」として短評を寄せ、星4つを付けている。

先の辛い評価は、「クルーガーは名演」、しかし「途中から論理性を欠く」、「描写が表面的になる」といった点を挙げている。特に最後の結論には賛同しかねるようだ。

見ていない方にとっては、カティヤがどんな決断をしたのかが分からないため、「?」となりそうだが、第3幕については、筆者自身が大いなる疑問を持ったのは確かだ。

というのも、ロンドン、パリ、バルセロナ、ニース、ブリュッセル、ベルリン、マンチェスター、またロンドン・・・と、イスラム系テロの発生を何度も欧州内で身近に見てきた筆者にとって、火に油を注ぐような展開に思えたからだ。明日は自分や友人、親戚、誰かの友人の身の危険が冒される可能性があるかもしれないと感じるような切実な怖さを感じた。

推定無罪の世界は、犠牲者の遺族にとってはやりきれないこともあるだろう。しかし、そういうやりきれなさを含めたものが私たちが生きる社会なのである。限界はある。しかし、だからと言って、これを否定する道に進めば、テロリストたちの側に行ってしまう。

ネオナチに家族を殺害された人たちは、どうなった?

この映画では最後に、旧東ドイツのネオナチ組織NSU(国家社会主義・地下組織)の暴力による犠牲者に捧げるという文章が出る。

2000年から07年にかけて、NSUのメンバーと自称する3人のネオナチが移民出身の9人と警察官1人を殺害した。攻撃の対象になったのは、移民出身者だったからだ。警察はトルコ系マフィアが実行したものと判定し、3人は捕まらないままに犯行を続けた。

この映画の展開と現実が重なってくる。

ある時、3人は銀行強盗を決行する。警察が彼らを逮捕する前に2人は自殺し、生存者は1人(女性)だけである。ミュンヘンで行われている裁判は、4月時点でまだ最終判断が下っていない

犠牲者の遺族や友人たちからすれば、「正義が行われてない」状況と言えそうだ。

先のザ・ローカルのルイケン氏の記事によれば、「当初の殺害からすでに17年が過ぎているが、犠牲者の遺族や関係者が私的制裁を加える行動を起こそうとしたことはない。ナチスに対するシンパが一部で存在していたとされる警察に対して復讐しようとした気配はない」という。

国家が何もやってくれないから、自分の手で・・・という考え方はNSUの同類になることを意味するのではないか、と同氏は警告している。

自分なら、どうするか。

映画館で、クルーガー扮するカティヤのドラマを是非ご覧いただきたい。

***

ご参考

*クルーガーについて

映画・COM

*ドイツとナチズム

*ドイツの難民問題

欧州では「反移民の風」が強まっている

(2018年 04月 29日小林恭子の英国メディア・ウオッチより転載)

注目記事